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書きたくない日は、書かなくていいって言ってるのに。

note書き始めたのは1年前だけど。

一日も休ます書き始めたのはたぶん

去年の8月の終わりぐらいだった。

気がつけばきのうの投稿でやっと

こんな感じだった。

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へ~、あんなに集中力に欠けていて

いつもぼんやりしているお子さんですって

言われ続けて。

会社もとん挫したり色々あったけど。

noteは毎日、300日続いたんだって他人事の

ように眺めていた。

正直書けない時もあったし。

20年月に何本かのエッセイを書かせて頂いて

いる場所があるけど。

300日書いてきて近頃ちょっと思うのは。

ちょっと、日によっては誰かの記事に触発されて。

触発と今いったけど、もしくは嫉妬かな。

誰かの文章に嫉妬してわたしも書いてみるって

書いた文章も多分にあったかもしれない。

それは旬の心とは別の所で書くという作業を

していたのかもしれないし。

よくわからないのだけれど。

書こうとしてあれは書いたねって言われた

ことはないけど。

久しぶりによかったって言われたことが

かつてあって。

多分その方は、わたしのそういう下心なんかを

見抜いていたんだろうって思う。

そして今日、わたしのnoteを読んでくれている

ひとりの友達と長いメールで話していた。

彼女はnoteをいつか書いてみたいんだけど

みなさんみたいにプライベートを開示できない

から書きに行けないって言っていた。

うん、そこなんだなってわたしも想う。

でも、そんなにコアな部分って絶対書かなければ

いけないことでもないし。

開示しなければnoteを書けないってこともないんだ

とも思う。

わたしだって始めた頃はそう思っていたんだけど。

noteを始めたきっかけが吐き出したい想いだったが

故に。

するすると父や母や弟のことを書いてしまった。

書いたことも後悔はしていないけど。

わたしの場合、なかなか思っていることを言えない

性分なので。

書いたことで、過去の呪縛から逃れられたような

そんな効用もあったのかもしれない。

最近よく読ませていただいているのが、

ふみぐら社さんのnoteだ。

果樹や野菜に手間を適度にかけながら育てていると

「対等」だと感じると書いていらっしゃる。

なんていうかお互いシンプルに「生き物」として向き合えてる感じ。それが心地いい。そんなの果樹や野菜のほうは、どう思ってるかはわからない。でもまあ、なんとなく嫌われてはないんだなというのがわかればそれでいい。

こういうつぶやきが、わたしの心にすごく

沁みて来る。

「生き物」に反応しているのか「対等」に

なのか。

はたまた最後の行の

「なんとなく嫌われていないんだな」になのか

わからないけれど。

静かに琴線に触れる文章に出会うと。

書こう書こうとしいた自分のことを

少し恥ずかしくなるし。

書きすぎてしまった過去の記事についても

しかりだけど。

そんな清廉潔白で生きて来たわけじゃないから

逆から光をあててみると、noteって

飾ったことも飾らなかった日々も記録として

残り続ける場所なんだなって。

この間も同じこといったかもしれないけれど。

他のどこよりももしかしたらnoteで書いている

じぶんがじぶんっぽいのかもしれないなって

近頃思ってる。

ほんとうは300日で連投やめようかと思ったけど

やっぱり今夜も書いてしまってる。

声でした 背中でした 真夜中でした 
残響は 明け方近く 言葉になって


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