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木の葉のように生きてゆきたい。

何かが舞い落ちてゆく姿を見ているのが好きだ。

今の季節なら、落ちてゆく葉。

その一葉の葉っぱのどこかが身体をかすめてゆく時

彼ら葉っぱは、自由を勝ち取ったねって

すこしだけ思ったりする。

幹という所属していた場所から離れて

無所属になったときの風通しのよさ。

幹をゆらすと、しゃらりと音を立てながら

土の上にこぼれ落ちてゆく落ち葉。

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いつの間にか、緑色だった葉が枯葉色になって

季節が過ぎゆくのを感じるけれど。

つながっていた幹から、ふいにまえぶれもなく

離れてゆく葉をみていると、

まぶしいほどの新緑や深い緑の季節は

とても遠い季節に思えてくる。

みどりの葉が視線の中でまぶしく反射していた

あの季節はもう遠い。

バス停にふきだまっている紅葉の赤茶けた葉を

見ていてふいに思い出した言葉があった。

それは落ち葉を見かけると、決まって浮かんでくる。

<枯葉ははじめっから枯葉だったわけじゃなくて

はじめは緑色だったから。よく見ると、うっすらと

今は枯葉の中に、緑色がみえるでしょう>


これは細密画を手掛けるプチファーブルと呼ばれていた

画家、熊田千佳慕さんの言葉だ。

熊田さんの言葉をはじめて聞いた時、なんだかとても

その視線の注ぎ方に驚いた。

とくべつな眼差し。

顕微鏡の中の出来事ではなくて、それを裸眼で

みているかのような表現に深く興味を抱いた。

そして、枯葉を彼が描く時の秘密を教えてもらった。

<だから、はじめから枯葉の色で描かないで

最初は緑で描いて、

色を重ねて重ねて落ち葉の色にしたんですよ。

枯葉は自分ですから>


熊田さんの言葉にうちのめされた。

それを聞いてから落ち葉をみると、まるで

落ち葉にまで見透かされている気がした。

人でも、同じじゃないかなってわたしは思った。

わたしの目の前に現れている時間を重ねた

からだや声のすきまにふと、ちっちゃかった頃の

あなたがみえたりする。

ランドセルを背負って、ひとりとぼとぼみんなの

輪から離れて石ころ蹴りながら帰ってるあなたが

みえる。

ちゃんと誰かに叱られたりして、泣いたりしていたんだ

なって。

大人になってから長いあなたのなかに子供の時の姿を

みることと、熊田千佳募さんが枯葉に新緑の頃を

みつけることは同じだと思う。

いま、わたしをたしなめようとしているあなたに

子供時代をみているわたしはどことなく

うっかりあなたのことが愛おしくなる。

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一枚の絵の中に、かつて生き生きとしていた葉脈が

長い時間を経て熊田さんの指で手で

写し取られて。

一枚の紙の中でほぼ永遠のいのちを得て生きてゆく。

その時間の重なりは、熊田千佳慕さんと

選ばれた葉っぱの

かけがえのない歳月のように思えてきて

にじむ想いにかられた。

黄昏に 貫かれてる てのひらの上
葉脈は 雨にぬれてる 地図を残して

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