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SNS、秒の言葉、秒の気持ち。

スマホって手のひらから生えてるんですか?
時折そう言いたいじぶんがいた。

朝もスマホのアラームで目覚め。
Twitterをお布団の中でチェックして
返事を出して、時には温い電気ブランケットの
なかで一仕事してしまう。

言葉がスマホを通してなら言える。

元Twitterなら言える、Xなら言える。
みたいな世界からいったん
抜け出したかった。

きっかけはこちらの記事だった⇩

そうか、こうすればいいのか。

スマホからTwitterのアプリを外せば
いいのか、簡単じゃないかって。

でも外すまで数週間かかった。

煙草がなかなかやめられないひとの
ことを知っていたけど。

このスマホに張り付いているみたいな
意識って禁煙がなかなかできない
人と変わらないじゃないかと。

似てるなって思った。

noteのディレクター平野太一さんが書いて
いらっしゃるように、なにかが削り取られて
いる気がしていた。

削り取られているのは生活の何かかも
しれないけれど。

それは言葉のことなのだと思った。

言われた言葉、聞いた言葉、読んだ言葉を
はじめとして
じぶんの身体の何処かに棲みついてる。

他の人はしらないけれど

SNSを見ている時はその言葉に浸食されて
溺れて、その尻尾を捕まえるように追っかけて
頼まれてもいないのに。

その事象についてなにか言ってしまい
たくなる。

コメンテーターじゃないんだよわたしは。

もっとスルーしてもいいものもたくさん
あるのに。

見ると言わなければいけない気持になるって
ちょっと不健全だと思った。

たとえばタイムラインやトレンドワードに
載っていなくても言いたいのかって
問いかけた。

それはとても危うかった。

それだと大喜利になってしまう。

遊びの中の大喜利じゃなくて。
気持の中の大喜利みたいな。

情報を売ったりするタイプの書き手では
わたしはないので、感情をどうしても
書いてしまうことが多い。

タイムラインはほんとうに秒で流れてくる。

読みたくないものも目にするからわたしは
めんどうだけど、ミュートをかけたりする。

そんなある日思ったのだ。

気持なんてほっとけば揺れている。

勝手に揺れているものにいちいち
反応してどうするんだろうって。

いわば、秒で揺れている。
秒でなにかを思う。
その時SNSの前にいるのだから
秒で何かを書こうとする。

そして書いてしまう。

でも秒で移り変わる気持ちに翻弄
されているってなんだろうって。

そして大好きな詩人の最果タヒさんの言葉を
思い出していた。

言葉ほど慣れ親しんだものもなく
だからこそ、飼いならしたつもりでいる。
けれど、言葉は私たちと共にあって、私たちと
生きていて、だからこそ、言葉も生きている。
死に、追いつかれまいと走り続けている。
私たちがその全容をつかみきることなどできる
わけもない。言葉はあるとき、ふいに私たちの
心を射抜くのだ。その時、その理由なんて、意味
なんてわかるはずもない。言葉は私たちのことすら
追い抜いていく。

最果タヒ「すべての言葉の最高速度」書評より

これは最果さんが詩人の吉増剛造さんの
『黄金詩編』について
言葉を寄せたものの抜粋。

こんなふうに、言葉はわたしたち
生身の人間のことすら追い抜いていくので
あれば。

その背中をむりに追うのではなく、
遠ざかってゆく背中を見送るような
言葉との対峙の仕方もあっていいの
ではないかと思った。

遠ざかっていくものは去っていくものでは
あるけれど。

出会ったということは、そこでなにかを感じた
ものであれば決してなくならいと
思った。

出会った人と出会わなかったことにならない
のと同じように(江國香織さんの言葉)

そして自分のなかのどこかにふりつもってゆく。

誰かの言葉と出会う時それは一期一会だと
思いたい。

そして一語一会だとも。

これからはSNSとこんなふうにつきあって
いけたらと思ってる。


やってみてよかった!
スマホの時間制限アプリなどを経たのち
Xのアプリを抜くことができて。今は朝の
時間が快適になりました。家事が進みました。
自分の気持ちを秒で追わないようになって
とても自由を得た気がします。
平野さんの記事に出会えたことが転機になって
とても感謝しております。



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