#それぞれの10年 それぞれという輪の中にじぶんが、入ってもいいのか不安だった。

この間、 #それぞれの10年 というハッシュタグを

つけて投稿した。

でもちょっとだけ。

後ろめたいというか、じぶんが書いてもいいのか

といったもやもやとしたそういう気持ちが

ぬぐえないところもあった。

昔、阪神淡路大震災が起きた時、わたしは神戸では

なくて大阪の北摂あたりに住んでいた。

家が壊滅したわけでも、電気が止まったわけ

でもなく。

ただただ揺れに耐えていただけだった。

ニュース映像で真っ赤に燃える街並みが

ただ怖くて。

ひとりひとり眠るのが嫌だったので、仏間に布団を

敷いて母と猫と三人でぶるぶるふるえながら

映像を見ていた。

関西発のNHKを見ていると落ち着いた。

あのキャスターの方もあの揺れを感じた後、

いつものように出社してちゃんとニュース原稿を

読んでいることに勇気を感じたりしていた。

急にあのキャスターの方を仲間だと思うような

心が芽生えた。

その後、新幹線を使ってとある場所にでかけた。

ほんとうは、いつ地震が来るのか怯えていたので

遠出はしたくなかったけれど。

ある目的の場所まで地下鉄に乗った時、後ろに

ビジネススーツを着ていた方達がいた。

車両に乗っていて彼らみんなが割とタメ口だった

ので、同期かなにかそういう関係だと思う。

阪神淡路大震災の一か月後ぐらいで。

揺れがまだ身体のどこかに残っているような

そんな感じがしていた頃だった。

あるひとりのひとが、

「関西にゴルフ行きたいんだけどさ、あそこら辺に

行けば、全部バンカーに入っちゃうよな」 って

みんなが、どっと笑う声が背中あたりに聞こえて

きて、直接言われたわけじゃないのにやるせなくて、

悲しくなった。

地震を経験した地域とそうじゃない地域では

確かに温度差ってあるんだなって。

リアルな痛いほどの肌感覚としてそれがわかった。

そして東日本大震災が起きて。

今度は関東に住んでいたので両方を経験した

けれど。

ふたたび、あの日の想いが蘇ってきて。

しばらくは何も言えないような沈黙の日々が

続いていた。

傷を心にも身体にも負った人がいて、そんな方達

からしたらわたしなんかは無傷に近い方で。

そういうわたしが、なにも言ってはいけない

ような。

それは逆に違うよって言ってくれたひとも、

いたけれど。

正直、そこら辺のことがうまく自分の中でも

整理できていない。

だから#それぞれの10年の投稿をした後でそこでいう

「それぞれ」という輪の中にじぶんが入っていて

いいのかどうかわからない気持ちに駆られていた。

そんな思いで、夜中途中からだったけれど

昨日ドキュメンタリー番組を見ていた。

是枝裕和監督が出演されていた。

福島で被災された女子高校生たちにも月日が

少し流れ、あの日から3年経っていた頃の番組の

再放送だった。

彼女たちが、あの日をテーマにドキュメンタリ番組を

撮ることになった。

その葛藤の日々が描かれていた。

お互いを取材しあって、映像におさめるのだけれど。

やはり当事者同士であっても、それぞれの家庭で

事情は違っていて。

同じ仲間のようでいても、あの地震のことになると

そのことじだいを話し出すことも難しい場面に

なんども直面する。

そして、是枝監督のアドバイスをもとになんどか

撮り直したりして、努力の結晶としてひとつの

ドキュメンタリ番組が出来上がる。

最後に彼女たちに感想を求めた是枝監督。

うまく言葉にならないひとりの女子生徒が

泣きだしてしまい、彼女は

きっぱりと「悲しくて泣いたんじゃない」と言う。

「人は経験していることもちがうし」

言葉をつなぎながら、またひとりの女子生徒は

自分よりも大変な経験をしている人に言われた

言葉を思い出して、こらえるように声をふりしぼり

ながら放った言葉がわたしの胸にとても響いた。

「わたしはあなたではないし、あなたもわたしではない」

と。

だから、同じ土地で同じ経験をしていてもだれひとり

同じ経験ではないがゆえに映像に収めることは

難しかったと。

その言葉に頷いた是枝監督が、その言葉こそが、

ドキュメンタリ番組のいちばん大事な考え方なんだと

おっしゃった。

じぶんと違う考えの人とどう出会い、それを見た人に

どう気づきを与えられるかが、ドキュメンタリ番組の

価値だと思うと、言葉を結んでいた。

わたしはあなたではないし、あなたもわたしではない。

この言葉を彼女たちのリアルの声で知ったことが

わたしのうずくまる気持ちの前で扉を開いてくれた

気がしている。

共感とかでもなく、そばであなたの声を聞くことから

はじめることではじまることがある。

ドキュメンタリ番組をみるという行為もそのひとつで。

わたしたちがドキュメンタリ番組をみるということも

それぞれのひとにとっての #それぞれの10年に

なるのかもしれない。

ふとそんなことを思っていた。


高架下 とぎれた場所に 刻まれた名は
黄昏を 浴びることなく 黄昏てゆく









いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊