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母に嫌われていると思っていたけど。

いまでこそ、なんでも喋れるように

なったけど。

むかし、わたしは絶対母に嫌われているって

想っていた時があって。

小さい時は、なかなかさっさと行動に

移せなかったし、

思っていることを口に出して、ちゃんと

言葉を組み立てて喋れなかった。

あわわわってなって、もういいやって

言葉をつぐんでしまう。

学校の机に座って休み時間はひとりで

窓の外を見に行って、誰とも喋らず

一日中、先生からも教室で答えを求められ

なかった時なんかは、ただいま~って

家のドアを開ける時がはじめて声を発した

時だったっていうようなことざらだった。

そして紆余曲折ありまして。

子供であった時のこともずっと忘れて

大人になって。

去年の5月31日の深夜にnoteにやってきて

たくさんの方と交流しながら。

わたしは時折小さかった時のことを

思いだすようになった。

気が付くと1年ぐらい前の夏あたりから

夏休みにどこどこ行ったねとか母と

話すようになった。

夏ってじぶんが子供だった時を思い出すし、

まだどこかにいるじぶんのなかの子供の

部分を想いだしてしまうそんな季節なの

かもしれない。

これは、noteはじめてから気づいたこと

だけど。

お弁当を毎日朝早くアップしている方の

noteに出会う度、母もこうやってお弁当

つくっていたんだなとか、

育児が大変だった時を振り返りながら

いま育児が大変な方にもメッセージして

いる記事に触れると、母もこんな時期が

あったんだなとか。

そう思うとわたし小さい時どんなだった? って

母に聞くようになっていた。

母は忘れっぽいのにそういうことは昨日のことの

ように、思いだしてくれた。

小さい時からわたしは人の輪からしぜんと逃れていく

ような一人好きな子だったよって思いだして

くれたりして。

それが、なんていうか。

聞くたびに、少しずつだけど過去のことを

ひとつひとつ拾い上げて肯定している

気持ちになった。

母はあんなことあったこんなことあったと

思いだしてくれてるだけなのに。

これってとてもネガティブシンキングだった

わたしとしてはかなりの一歩で。

育ててくれてありがとうと声にしては

言えないけれど。

母が毎日ぽつりと話してくれる、わたしの

赤ちゃん時代や幼少時代の話に、ちょっと

こころが整っていくような感じがあって。

そういう話がお互いに母とできるように

なったのも、もしかしたらnoteで出会った

方々の地に足ついた経験を教えてくれる

記事の数々のおかげかもしれない。

この間noteを連続投稿はじめて1年が経った

7月20日にnote1周年のお誕生日を迎えた

川ノ森千都子さん。

そんなおめでとうの日に、誰かに感謝する

記事を書きませんか?って企画を立てて

いらっしゃった。

おめでとう と ありがとう って

対になってる言葉だなっておもった。

いつもわたしはじぶんのことばかりで

じぶんの心と話し合いばかりしている

けれど。

千都子さんがみている視線はいつも

そこに誰かがいる。

この間、仕事でふたひらのこころという

言葉が浮かんできた時があった。

いつもひとひらじゃなくて、

ふたひらの心をもっている人。

千都子さんもその言葉が似合う人の

ひとりなんだなって思う。

千都子さん、遅刻しちゃいましたが

note1周年おめでとうございます。

そしていつもありがとうございます!

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ふたひらの 夢に似ている 言葉がこぼれる
夕暮の ありがとうの声 風に紛れて






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