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緊急事態宣言が解除されるのがほんとうは、こわかった。note28日目。

なんども、つまづいていた。
3月や4月、そして5月も。

なんていうか、なんていう日々なのか。あまり俯瞰できないでいて。
朝起きると、あぁこういうなんともいえない日々に、取り囲まれて
いたことに鮮やかに気づいて。一日が始まる。

すっごい絶望でもないけれど、かすかな希望もあまり浮かんでこなくて。

ただそれが、じわじわと悲しいとかでもないというところまで、気持ちが
ちょっとえぐれたまま、その痛みにも気づかないぐらいに慣れてしまっているのかもしれなかった。

それが、この数か月の世界で起きているせいなのか、ほんとうのところ、
わからない。みんなコロナのせいにできれば楽なんだけどっていうのも、
正直なところで。

それ以前にも、抱えづらいものはあったわけで。うまくいかないことは、
数えきれないぐらいあったわけで。

それなりに、使命感を勝手に抱いて勤しんでいたこともあったけれど。
なにかがゆらいでいた。

ただ自粛している間、抱えていた悩みは一旦保留となって。

その降ってわいたようなペンディング期間は、お叱りを承知で言えば、すこしだけ甘美な時間だった。仕事上、会いたくない人とも会わなくてよかったし。

それはそれで、ある意味ストレスフリーな日々でもあった。

休んでいていいよって、いつまでも言ってほしい気分も正直あった。

だから非常事態宣言が解除されるのがこわかった。

ゆらぎは、いつかゆりもどされるのかもしれないし、
<あたらしい現実>っていうものに、包まれてしまうのかもしれない。
もう包まれているのかもしれない。ちょっとそういう現実をふくめて、
すべてがこわかった。

昨日までできていたことが、もしくはすきだったことが、ゆらいでいて。
ほんとうにそれ、できていたのか、ほんとうにそれすきだったのかっていうぐあいに。

じぶんが書くことに興味がなくなってしまったのに。
人の書いたものは、むさぼるように読んだ。
読むとこころがぶれるし。いちいち刺さってきた。

ある日、谷川俊太郎さんの言葉と出逢った。

<他人や世界と距離を空けてしまう「デタッチメント」の生き方を
してきた>                    谷川俊太郎

エッセイの一節に目を奪われる。
この一連の出来事に世界が翻弄されている、ただなかに読んだ。

人と人との距離に気を付けましょうってことを専門家の人達が、おっしゃっているのを聞いて、じぶんは、ほんとうに今まで必要以上に人と人との距離を保って、生きてきていたことに気づいてしまった。

そして。

みんな、集いながらふれあいながらおしゃべりしながら、日々を生きていたんだなって思い知らされた時間でもあった。

SNSですら、わたしは誰かのお喋りを輪の外から眺めているような感じで。決してその輪の中には入って行くことができない。

それは誰かにとってとても容易いことでも、わたしにとってはとてもハードルが高いんだなってまざまざと知ったのもその頃だった。

なのに、なのにですよ。

なんどか書かせていただいているけれど岸田奈美さんのツイッターで、
#キナリ杯 をしって。

これを最後に書いてみて、なんか吹っ切れたらそれでいいし。
そうじゃなかったら、それから考えればいいって。

なんかハッピーじゃない感じから早く脱したかった。


結果は案の定さんざんだったけど。

いろいろな応募者のある意味針がぶれ切ったようなすごい人生、すごい文章に出逢ったら、こっちの身体の中の針みたいなものも、瞬間振り切れて、なんか闇のトンネル抜けたでぇってなった。

それは幾人かの方に頂いた、

まるで五月雨のように頂いたスキ❤


のお陰かもしれない。そして毎日なんやかんやと投稿したり、クリエイターの方の作品触れる度に、みんなちゃんと生きてはるわ。ってなって、わたしもちゃんとしてみよう。閉ざされた場所から抜け出してみようと思えた。

noteという街の中にもうすこしは、居てもいいんやなって、そんな気持ちに
させてくれた。

なんか、ちいさな1歩がふみだせた気がしているnote28日目です。

つらつらしたひとりごとにおつきあい頂きありがとうございます!


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