【映画】「戦場記者」感想・レビュー・解説

TBSに所属する中東担当の特派員・須賀川拓が見た世界のリアルを映し出す映画である。

映画『戦場記者』ではもちろん、紛争や社会問題が切り取られる。ガザ地区を舞台にしたパレスチナとイスラエルの闘いやウクライナ侵攻、あるいは米軍撤退後のアフガニスタンの薬物中毒の現実など、その映像から伝わる現実の凄まじさには驚かされる。

それらについても後で触れるが、僕はこの映画を見て、それら以上に「『報じること』に対する須賀川拓の葛藤」に惹かれた。そして映画を観ながらずっと、ヨリス・ライエンダイクの『こうして世界は誤解する』という本のことを思い返していた。

『こうして世界は誤解する』の中で、印象的な例え話が出てきた。例えばシロクマを狭い檻の中に閉じ込めるとする。すると、自然とはまったく異なる環境に置かれたシロクマは、自然界にいる時とはまったく異なる挙動を見せるだろう。イライラしたり、凶暴になったりするかもしれない。

では、その「檻」を映さないようにして、その中にいるシロクマの様子だけを撮り、その映像を誰かに見せたらどんな感想になるだろうか。恐らく、「シロクマというのは、イライラいつもイライラしている凶暴な動物なんだ」という印象になるはずだ。

自身も中東で取材を続けていたヨリス・ライエンダイクは、「自分がやっている『報道』は、まさに『檻を映さずにシロクマだけを撮っているようなもの』だ」と、『こうして世界は誤解する』の中で書いていた。

同じような葛藤を、須賀川拓も抱いているのではないかと映画を観ながら感じた。

【伝える側も、考えなきゃいけないじゃないですか。どうしたらいいんだろう、って。伝え続けてると、どうしてもマンネリ化する部分もある。でも、『伝えない』って選択肢はないわけじゃん】

彼がこれまで最も取材に赴いたのはガザ地区だそうだが、「ガザ地区で空爆がありました」というニュースを報じたとしても、残念ながら世の中は「またか」と感じて終わってしまう。須賀川拓はそう捉えている。その感覚は確かに正しいだろう。『こうして世界は誤解する』の中でも、「ニュースに乗る情報は『変化』だけだ」と指摘していた。本当であれば、「そういう『状態』にあるという事実」を報じなければならないのに、「変化」がなければニュースとしては扱われない。「状態」だけでは、公共の電波を専有できるほどのニュースにはならないのだ。

ガザ地区でパレスチナの人から話を聞く度に感じることは、「忘れられることの恐怖」なのだそうだ。彼はパレスチナの人たちに、核心を衝くような質問や失礼に当たるようなことを聞いたりするのだが、それでも何でも答えてくれるのだそうだ。「忘れられるのが怖い」と直接口にする人もいるという。だから彼も、「自分もちゃんと応えないと」と気を引き締めるのだそうだ。

また彼は、別の葛藤も抱いている。

【取材した人のことを助けられてんのかっていったら、出来てないわけじゃん。直接的には。しかもこれで金稼いでるっていうか、直接利益を得てるんじゃないにしても、自分の生業にしてるわけじゃん。
それって意味あんのかなって思うことはあるよ】

もちろん彼自身、自分のやっていることに意味がないなんて思ってはいないだろう。「本当に彼らを助けてあげられる人に、自分が見たことを聞いたことを伝えるのが自分の役割だ」と言っていたし、それはとてつもなく重要な存在意義だと思う。ただ、無力感に苛まれてしまうことも分からないではない。彼は「報道」という大義名分を掲げて、他人のプライベートな部分にズカズカ入っていくのに、自分の行動が直接誰かを救えているわけではないという現実にもどかしいものを感じている。必要な役割だし、誰かがやらないといけないと思うが、色んな感情をねじ伏せて無理やり麻痺させているような彼の姿には、色々と考えさせられる。

【一週間とか一ヶ月とか、取材に行ったとしても、結局はロンドンに(彼はTBSロンドン市局にデスクがある)戻ってくるわけじゃん。家族もいるし。当たり前だけど、自分の子どもと妻が何よりも最優先なわけだし。
偽善偽善ってよく言われるけど、偽善は偽善なんだって思う。聖人君子なわけじゃないし、世の中にはそういう、自分を犠牲にして人を助けられる人もいるけど、自分はそんなふうにはなれないし。
だから、やれる範囲の中で出来ることをやるしかないなって。】

危険地帯に赴くという身体的な大変さもあるけど、須賀川拓からはむしろ、精神的な大変さの方をより強く感じさせられた。

映画の中で扱われるのは先に紹介した3つだが、その中でも最も長く扱われるのがガザ地区の空爆の話である。イスラエル軍が、「世界一の人口密度」と呼ばれるガザ地区にある軍事施設やハマス(イスラエルに対抗している組織)の軍人を攻撃するために、最新鋭の精密兵器を使って空爆を行っているのだが、それらが、まったく無関係としか思えない市民の住宅に落ち、10人の民間人が死亡した、その出来事をメインに紛争の実態を描き出していく。

10人の民間人が死亡した空爆は、決して誤爆ではない。何故なら、イスラエル軍が持つ兵器はもの凄く精度が高いからだ。驚かされるのは、「マンションの1室」だけをピンポイントで狙った空爆も可能だということ。それほどの正確さで空爆が行えるのだから、「深夜1時2時に、軍事施設も何もないただの住宅密集地を空爆する」ことの必然性を説明するのは困難に思える。

須賀川拓はイスラエル軍に取材を行っている。彼らは、「空爆の前にはドローンで民間人がいないことを確認し、さらに警告を発して民間人の退避を促している」と説明するが、空爆で妻と4人の子どもを失ったアルハディディ氏やその隣人は、「そんな警告は聞いていない」と口にする。その点をさらに質すと、「タイム・クリティカル・ターゲットだった可能性はある」と口にした。これは、警告を与えることで逃走の余地が生まれてしまうような標的に対して警告なしで空爆を行うことを指す。

いずれにしてもイスラエル軍は、「民間人を狙って攻撃した事実はない」と繰り返す。住民も知らなかったのだろうが、確かにそこにはハマスの軍人がいたはずであり、だから我々がそこをターゲットにしているのだ、という立場を崩さない。しかし、空爆の被害者を受け入れた病院の医師は、「700人以上の怪我人が運ばれてきたが、軍服を着ている者は1人もいなかった」と語っている。

イスラエル軍は、「不幸にもミスが起こる可能性もある」と認めている。その場合は、失敗からきちんと学び、更に次回以降の教訓にしていくという。とはいえ、10人の民間人が死亡した空爆については、「ハマスの軍人を狙った」という主張を変えはしなかったと思う。

そもそも難しいのは、「ハマスとは誰を指すのか?」という認識の違いであるようにも思われた。イスラエルの首相は、「ハマスは誰であっても殺す」と主張し、イスラエル軍の広報も「ハマスの者を狙って攻撃している」と語っている。しかし、ハマスの広報は、「ハマスとはガザ地区における社会運動のようなもので、軍事部門以外にも教育・慈善活動など幅広く活動している」と言っていた。イスラエル軍が言う「ハマス」が、軍事部門以外の者も含むのであれば、ガザ地区に住む者と認識が食い違って当然だと感じた。

一方、ハマスはイスラエルのテルアビブに向けて無誘導弾を撃ち続けている。無誘導弾は当然、どこに着弾するのか分からないわけで、無誘導弾を使用することは、国際的には即「無差別殺人」と判断される。ハマスはその点を批判されることも多いそうだ。

須賀川拓がハマスの広報にその点について問うと、「『イスラエルが空爆を止めれば、こちらはすぐに砲撃を止める』とイスラエル側に伝えたが、拒否されたのだ」と自身の立場を擁護した。さらに、「イスラエルがガザ地区の封鎖を解き、ガザ地区にも精密部品が入ってくれば、精度の高い攻撃が出来る兵器を作りますよ。その方が私たちとしても望ましい」みたいにも口にする。「精密兵器を作らせないようにしているお前たちが悪い」という主張なわけだ。

このように須賀川拓は、パレスチナ・イスラエル双方の主張を取り上げる。一般的にガザ地区での紛争については、「イスラエルが絶対的に悪い」という報じられ方になることが多いそうだ。確かに彼は、「イスラエルのオーバーキルは大いに問題だ」と言うが、そう単純な話ではない。パレスチナ側にも問題は多い。須賀川拓は、パレスチナ人の友人から、「ハマスは最悪だ」と文句を聞く機会が多いという。パレスチナのために闘っているはずのハマスは、必ずしもパレスチナ人から支持されているというわけではないそうだ。

須賀川拓は、「当事者同士ではもう解決はできないと思う」と語っていた。確かにその通りだろう。僕は、『クレッシェンド』という、実在するパレスチナ・イスラエル混合楽団をモデルにした映画を観たことがあるが、そこでも、両者の対立のあまりの根深さが描かれており、「世界で最も解決が難しい問題」と言われる理由も分かる気がする。

続いて触れられるのは、ウクライナ侵攻だ。映画では、3月にウクライナ入りした際の様子が映し出されていた。数日前に激しい空爆が行われた地で、屋根にロケットが突き刺さった家や、病院の敷地内が空爆された現場、さらにはオスロ条約で使用が禁止されているクラスター爆弾が使用された住宅地などを取材する。ちなみにロシアもウクライナもオスロ条約を批准していないため、クラスター爆弾を使用しても国際法上の罪になるという状況ではないそうである。

また須賀川拓は、少し前までロシア軍に選挙されていたチョルノーブィリ原発にも向かう。10マイクロシーベルトを超えるとアラームが鳴るように設定した線量計を手に、「赤い森」と呼ばれる地帯を通り抜ける。「赤い森」は、チェルノブイリ原発事故が起こった際、放射性物質を取り込んだために真っ赤になった針葉樹林を伐採し、そのまま地面に埋めた土地であり、だから線量がとても高い。そしてウクライナ侵攻においては、そんな「赤い森」に派遣された、放射性物質に関する知識などあまり持たされていないロシア兵が塹壕を掘るなどしていたことが明らかになった。ロシア兵が被爆したことも問題だし、塹壕を掘るための重機などが出入りしたことで放射性物質が拡散したことも問題だ。そういう現実をリポートする。

最後に、20年という過去最長の戦争から手を引いたアメリカ軍がいなくなったアフガニスタンの現状が映し出される。タリバンが暫定政権を担っているアフガニスタンでは、まさに今薬物中毒がとんでもないことになっているのである。

アフガニスタンの市街のある橋の下に、とんでもない数のアフガニスタン人が暮らしている。そこに近づいた須賀川拓は、その信じがたい悪臭に悲鳴を上げる。何かを燃やす臭いと腐敗臭が混ざったものだそうだ。そこでは、安価だが粗悪なヘロイン・アヘン・覚醒剤を摂取する者ばかりが屯しており、横になっているだけなのか死体なのかも判然としない人が無数に存在している。

当然、イスラム教では薬物の使用は禁止されているのだが、その橋を頻繁に通るというタリバンの者たちは、橋の下の住人を完全に無視している。市としても、死体を回収したり、住んでいる者たちに何か勧告したりすることを諦めているのだ。彼らは、完全に放置されているのである。須賀川拓は、「世界から見捨てられたアフガニスタンという国で、そのアフガニスタンからも見捨てられた者たちがこれだけたくさんいる」と、その驚きと現状認識を表現していた。

そして、この問題を踏まえた上で彼は、日本を含めた西側諸国に対してある問いを投げかける。「アフガニスタンに対する経済制裁は、果たして真っ当な論理によって行われていると言えるのだろうか?」と。

西側諸国は今アフガニスタンに対して経済制裁を行っている。その理由は、「女性の権利の侵害」や「犯罪者の扱い」などである。須賀川拓は、アフガニスタンで女性の権利が以前にも増して制約されている現実も取材している。しかしやはり、橋の下に住む者たちの姿を見て、「彼らのような存在を生んでしまっているのは、結局のところ、アフガニスタンを見捨てた世界なのではないか」と感じたのだろう。確かに女性の権利も大切だ。しかし、それ以上に大事であるはずの「命」を一層救えなくするような経済制裁に、果たして意味などあるのだろうか、と。とてもむずかしい問題だ。

映画の中で須賀川拓は、「戦場に行きたいわけではない」と語っていた。現場に出るのは好きだが、戦場を見たいというよりは、そこに生きる人々の顔が見たいのだ、と。ただ一方で、やはりニュースであるためには、「日常が破壊され、人々が亡くなっている現状」を映し出す必要があり、必然的に前線に向かうことになる。ただ、決して前線に行きたいわけではないのだ、と言っていた。

またもう一つ興味深かったのは、「喋りすぎ」という自身のリポーターとしての資質についてだ。彼は、「今の時代で良かった」と言っていた。どういうことか。5~6年前であれば、リポーターとして喋りすぎる彼の報道は、地上波の与えられた時間の中で収まらず、使いにくいと判断されていた。しかし、今の時代は、テレビ以外にも様々な媒体が存在する。地上波の電波を狙うだけが戦略ではなくなった以上、彼の「喋りすぎ」というスタンスも活かせるようになってきたのだそうだ。また、テレビ以外の媒体で報じることでコメントを読む機会も増え、そこで「知らなかった現実を知ることができた」みたいに言ってもらえると、やりがいを感じられる、みたいなことも言っていた。

映画では、取材に行く前の荷物のパッキングの様子も映し出されていた。応急処置のキットについては、須賀川拓とカメラマン男性のものとで、同じものが同じ場所に入っている必要がある、みたいに説明していた。どちらかが怪我をした際に、相手のキットを開けて、すぐに何がどこにあるか分からなければ使えないから、そのような準備も怠らないのだ、と。

大変な仕事だと思う。無理しない範囲で、これからも世界のリアルを伝えて欲しいと思う。


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