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文の文 1

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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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2021年10月の記事一覧

映画館

映画館

思い出すと、ふふっとなることがある。あたしも今よりは少し若かった頃の話。

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都心の小さな映画館へ、そこでしか上映していない映画を見に行った。お子さまはご遠慮してくださいというちょっと大人の映画だった。

都心とはいえ、平日の昼間は空いていた。指定席ではないので席は自分が決める。いつものように真ん中あたりに座る。

同じ列のいくつか先の席に白いスーツを着た、中年を過ぎてしまったがそれを

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先生たち10 アカシセンセイ

先生たち10 アカシセンセイ

ほんとにその名も忘れていた。遠い時間のなかのひと。振り返った作文のなかにセンセイはいた。そしてそこには悲しい別れもあった。

思い出して何になるのかはわからないが、そこにあたしがいて、そこで生きて、心を波立たせていたのは確かだから、掬い取って遺しておきたいと思うのだ。あたしのために。

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十歳のとき、腎臓病で京都国立病院に入院した。そのときの主治医の名を今も忘れずにいる。アカシセンセイ

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忘れるひと

忘れるひと

加齢とともに薄れる記憶。容量が少なくてあふれいってしまうのか、思い出せないことが増えていく。

転勤族だったからか、転居の度に一からの仕切り直しになって、あたらしい場所でまたひとと出会う。その数が増えていくと、初めのころの出会いが押し殺されるように消えてしまう。

その後の付き合いかたの濃さにもよるのだが、同じ時期にであっても、おぼえているひととわすれるひとがいる。

書き残した文章のなかで、記憶

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オオグロさんがいた。

オオグロさんがいた。

沖縄は一度訪ねたことがある。ある一時期、家人の勤めが沖縄関係の企業の東京事務局みたいなところだったので、ご縁があり、案内していただいた。

観光客として行くべきところに行った。食べるものを食べた。

その時、自分の普段とは違う沖縄をなかなかうまく受け入れられなかった。

歴史が語る不幸に後ろめたさを感じ、南の島の食材や味付けの異なる食事が食べられなかった。気候風土を含めて、あたしにとっては一種の異

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さよなら、たつやくん。

さよなら、たつやくん。

今年、たつやくんが亡くなったと聞いた。ガンだったと。

広島の方に転居していてなかなか連絡がつかなかったそうだが、訪れた級友はその最期に間に合ったという。

ベッドサイドで撮られた写真には、痩せた白髪の男性が写っていた。それでもやはりあのころの面影が残っていた。男前のいい笑顔だった。

そんなことになるだいぶ前に書いた一文が残っている。そうだったね、と思い出す。

*****

たつやくんは高校の

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迷路

迷路

SNSで、友人がMRIを受けたときのことを書いていた。寒い部屋でうるさい音で、と嘆いていた。

たしかにおよそ検査というものは、どれも受け手に親切とは言い難い。具合が悪く、それを調べるのにますます具合が悪くなりそうな気がするときもある。

しかし、あたしは2回の手術で、思い出せないくらい多くの回数、MRIをうけてきた。なんならCTも山ほどうけたし、骨シンチの検査の拘束時間と言ったら一日仕事だった。

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すきなもの

すきなもの

布がすき。

きれいな色の布。
印象的な文様の布。

手触り・肌触りがいい布。
何度も水をくぐった懐かしい布。

だいすきな布で
袋を作っていることのしあわせ。

作った袋が繋いでくれるひとたちからいただく
思いもよらなかったお言葉のあったかさ。

見も知らなったひとが文袋を手にして
大切に使います、と言ってくださる。

すきなものがすきなことを呼んでくる。
そんな文袋の仕事がすき。

伏見

伏見

10年ほど前の伏見のスケッチ。街は今もまた変わり続けている。それが人の営みだな。

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所用があって実家のある伏見へ行った。

通学に使っていた京阪電車に乗って降りるのは中書島駅。当時、乗っていたのは、緑の濃淡の電車だったなと思い出す。

中学高校大学と毎日この駅から電車にのった。周りの景色はいろいろ変わっているが、駅の地下通路への階段は変わってなくて、重い鞄を抱えて、上がり下りしていた

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はせがわしんじくん

はせがわしんじくん

はせがわしんじ、なんて書くと誰のことだろう、と思ってしまう。あたしのなかで、彼はいつも「ブーチン」だった。

高校一年生のとき、前の席に座っていたのがブーチンだった。

入学前に新入生対象の健康診断というのがあった。人間ドックのように、男女いくつかのグループに分かれて、ローテンションでまわっていくよう言われていた。

その移動中、体育館の戸の隙間から中をつい見てしまった。そういうつもりはなかったが

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先生たち 9  なかむらせんせい

高校時代は新聞部、大学では文芸部に所属したのだけれど、主婦になり二児の母になったあたしは日々の家事に追われて、日記すら書かなくなっていた。

そんなあたしにふたたび文章を書き始めるきっかけを作ってくれたのが、息子たちが通っていた幼稚園の園長であるなかむらせんせいだった。

そのころ、祖父を亡くした長男の元気がなくて、そのことについて、なかむらせんせいと手紙で何回かやりとりをした。明るく接するように

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血となれ肉となれ

血となれ肉となれ

やっかいな病はのちの暮らしに忍び込む。腫瘍は飛ぶから、どこかに飛んでないか、と調べなければならない。骨にできた腫瘍は骨の検査で追う。

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骨シンチの検査は二回行われ、インターバルの待ち時間がとても長いのです。その待ち時間をおおむねわたしは居眠りしていたのですが、そうはいっても少しは本も読んだのです。

江国香織さんの「絵本を抱えて 部屋のすみへ」を少し読みました。そのなかにこんなことが

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決算

決算

人生の後半戦には、いろんな決算を突きつけられる。

その言葉の通りの経済の問題もあるが、心身の健康のこと、人が来て去っていく人間関係、背負わされる責任やお役御免になることなど、年若い時期には予測不能なことどもが肩を並べてやってきて、ため息をつきつつ決算書を眺める。

決算書は問う。

おまえはどんなふうに生きてきたのか。
何を為して、何を成したか。
誰と出会い、誰とわかれてきたのか。
何を受け取り

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先生たち 8  のまち先生

先生たち 8 のまち先生

何年か前の同窓会にのまち先生がお見えになっていた。物故された先生もおおいのだが、のまち先生は、白髪になられていたが、まだまだお元気そうで、はきはきしたごあいさつをされていた。

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のまちセンセイは中学一年生のときの担任で、保健体育を教える女性教師だった。

当時、センセイはいくつだったのだろう。40歳前後だったろうか。

教師という職業が、生徒のなかにそういう人物像を作らせるのかもしれ

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先生たち 7  ただ先生

先生たち 7  ただ先生

なんとしても物理の問題は解けなかった。目の前にある現象を解明してくれる学問が、理解できなかった。なんとも相性が悪い。数字と計算の向こう側で、物理はいつも高笑いしていた。解けるもんなら解いてみな!と。それはただ先生が悪いわけではない。あたしの頭が悪いのだ。

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高校の物理の先生の名はただ先生。わたしたちが二年生のときに赴任してきた。

いつも白衣の前をはためかせて前のめりの大股で歩くただ

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