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幻想と批評が住む森① 記憶と時間、不在

先日、港千尋の『記憶-「創造」と「想起」の力』を購入し、読んでいる。

詩人のパブロ・ネルーダに関する章に言及しているアニメ作家のインタビューを読み、興味を持って。

と、いうのも、私は詩人ではないが、詩とは何か、詩的なものは何か、それを常に考えている。ま、だからといって、私には何の益もないのだが。

詩、としてこの世の中に発表されたもの、それは発表した本人がそれを詩だと言い張れば、詩になるのかもしれない。けれども、大抵の作品はそこに詩が香ることはなく、ただの文章の羅列に過ぎない。

詩とは何か、詩とは郷愁である。
詩は過去を描く、時間が存在する。未来を描くものは何一つ詩的ではない。
詩的な未来は、いつかあった未来、『ブレードランナー』や『未来世紀ブラジル』のような、懐かしさが必要なのだ。
未来、というものは常に次の瞬間に過去へ置き換えられる宿命を持つ。


港千尋の『記憶』では、パブロ・ネルーダの『Pablo Neruda: Absence and Presence』について言及している。
こちらの本に関して、この方の記事が内容も丁寧に記載されているので、引用し、ご紹介させて頂く。大変興味深く読ませて頂いた。

この章で割かれるのは、不在に関してである。

不在こそが、存在を浮き上がらせる、というのは、映画作家の押井守も語っていたが、持ち主のいない部屋、というもの、持ち主が置いていったもの、というのは、その持ち主の記憶が宿っている。
詩人本人の記憶を、詩人本人のことを、その詩人の持ち物のほうが深く理解し、その存在をより明確にさせる。
存在を描きたければ不在をこそ描け、それはまさに神のことである。神は何も言わない、何もしない、何も与えない。だからこそ、人は神の存在を明確に感じる。

朝井リョウの原作小説を映画化した『桐島、部活やめるってよ』には桐島は不在だ。だからこそ、桐島は作中ではマクガフィン以上に、神のごとくにその存在を持ってして登場人物たちを狼狽させて、彼らの魂の陰影を浮かび上がらせる。

そして、誰もいないことで、そこに時間が存在し始める。
例えば、誰もいない美術室においての、風で揺れ動くカーテンを想像してみてほしいのだが、そこには濃密な時間が流れている。アンドレイ・タルコフスキーの映画において、時間という概念はそうやって作られて、そうやってポエジーを獲得していく。タルコフスキーの映画が眠いのは当然で、それは時間を作ろうとしているからである。
カットを割る、というのは、時間を分断することである。カット割りが激しい作品に詩的な匂いを感じないのは、時間が殺されているからだ。それは、多くはテンポ、という愉悦と効率のための犠牲である。

時間、といえば、クリストファー・ノーランは時間にまつわる映画をいくつも撮り上げてきた。
『メメント』は終盤から冒頭へと物語は移行し、『ダンケルク』では、一本の映画の中に、異なる時間軸(週、日、1時間のように)を匠にバラして、編集し、タペストリーにしている。『インターステラー』では、重力と時間の関係性で親子の時間を反転させて、『テネット』では時間の逆行を描いた。時間に取り憑かれている。それは、映画が時間を刻印する装置であり、時間を自由に組み替えることが出来る媒体だからだが、タルコフスキーの映画は、映画内に現実の時間が産み出されている。
『ブレードランナー2049』はタルコフスキーの映画のオマージュ、いわゆるロシアのスローシネマの系譜だが、今作では2時間43分という上映時間、本当には4時間あったというその表現は、一つのシーンをゆっくりと、まるでスロー再生しているかのように丹念に描く。ロジャー・ディーキンスの撮影はあまりにも美しく、冒頭、サッパー・モートンを殺したKが彼の眼球をシンクで洗うシーンがあるが、あのショットでこの映画は詩的な表現に突き進むことがより明確になったと思える。

映画の中で時間を描くには、現実の時間を等価として支払う必要性がある。そして、そこにポエジーを産み出すためには、その試みは一層に濃密にならなければならない。『ブレードランナー2049』は、当初編集された4時間版ならば、おそらくは詩的時間が顕現し、詩そのものになりえたはずだった。4時間版の『ブレードランナー2049』は基本線は同様で、それぞれのシーンが長くなっているのだということからも、シーンが不必要に増えるわけではなのだ。
けれども、160億円以上の制作費をかけた、ハリウッドのビッグバジェット映画においては、今のままでも必要以上にアートであり、リスキーな賭けで、結果負けたわけだが、クレバーなドゥニ・ヴィルヌーヴは、ギリギリの綱渡りの演出で時間を産み出すことに挑戦している。

玩具として時間で遊ぶノーランと、時間を作り出そうとしたヴィルヌーヴ、互いに性質が違うが、一般的にエンターテインメントだと言えるのは、無論ノーランである。タルコフスキー映画は眠たい。それを模倣しているヴィルヌーヴの映画も当然眠たいわけで、然し、そこは彼の作り手としての職人的な手腕が、観客を物語に牽引させるのに機能して、商品としても成立している。

『ノスタルジア』の蝋燭。火や水はタルコフスキーが神聖を描くために度々登場するが、蓮實重彦は、そういった宗教的なモティーフなどに、タルコフスキーは映画より他の何かを信じている、と腐していた。

貴方のテーブルの上に置かれたもの、静物をじっと見ていると、そこに時間が立ち上ってくる感覚がわかるはずだ。時間は意識しなければ実感がない。意識するというのは時間と向き合うことであり、自らの深奥に立ち返っていくことである。

『ブレードランナー2049』において、不在となるのは序盤でデッカード、後半ではレイチェルだが、『ブレードランナー2049』において濃密に時間が漂うのは荒廃したラスベガスのホテルでフランク・シナトラの『One For My Baby』が流れるシーンだろう。ここでは、存在の不在を木彫りの人形や写真たちに託して、奇跡の母であるレイチェルの存在が物語を満遍なく包み込む。

『イノセンス』では押井守自身が言うように、草薙素子は不在として描かれる。然し、その実作品の根底に存在している。

人は不在の時こそ存在し、時間は不在の時こそ濃密に流れ始める。そして、詩というものは、そのどちらも満たしたものなのである。

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