やっとわかってきた。~僕の「生きづらさ」の正体~

少しばかり、引用80%のnoteを続けて投稿した。

わかってきたことがある。

気がついてしまえば、シンプルな話だ。

「発達障害者」という名前の語感から来る「障害者」というイメージは、本質的にみていくと、全然違う。スーパーマンといい変えても良いくらいだ。

散々発達障害の歴史と定義、判断方法をあーだこーだ言ってきたが、シンプルな話、こういうことだ。

「言語能力値」というのがある。これは、本が好きだったり、文章が上手かったり、目で見たものの記憶力が高かったり。受験システムと同じ。

一方で、間違っているかもしれないが「コミュニケーション能力」や「人の話を耳で聞いて指示通りにやる能力」「脳から体に指令を出し、上手く動作させる能力」など、言語力ではない「社会で必要な作業を司る能力」というのがある。これを「動作能力」と呼んでみる。

この二つの能力を仮に数値化できるとして、その能力値に差異が大きいほど、「発達障害」認定される。

素人なので、間違っていないことを祈りたい。

考え方を変えると、共に100の場合、健常者と見なされる。

言語能力が120で、動作能力が低い(例えば80くらいの)場合、40もの開きがある。

こういうタイプの人間は、生きづらさと立ち向かう運命になる。言語力はあるのに、体の作業能力は低いからだ。

「発達障害」は本質的には、「才能の偏り」。

いくつかの本でも同じ表記があったが、これは間違いない。

言語能力が120あることを才能と見なすか、動作能力が80なのを障害と見なすか。

どんな数値も選べるならば、両方120を取りたい。
両方70の人もいるということかもしれない。しかしそれは「発達障害」ではなく、「知的障害」になるのかもしれない。

なんて人生は不公平なんだ。

生まれもったカードの数値で、100を基準として「障害」という名前がつけられてしまう。

本当は、「スーパーマン」かもしれないのに。

アメリカは、その点、進んでいる。そして、アメリカの経済力や国としての総合力は日本に勝っている。アメリカ礼賛をしたい訳ではない。「アマゾン」「グーグル」「アップル」「マイクロソフト」。

生活にイノベーションを起こすのは多様性のアメリカという事実。

このままだと、「発達障害」の「障害者」の語感に生きづらさを抱える「スーパーマン」が、理解者を求めて国外へ流れてしまう。

僕も、日本は大好きだが、この世間の生きづらさはうんざりする。自分のせいだと考えていたこともあるが、理屈ではなく、「受け入れられる場所へ行きたい」という思いがつのる。

場所を変えたら、なんてことはない、多様性が当たり前の居心地のよさとそこでの新しい自分に出会える確率が高いからだ。

この感情は、大切にしたい。自分の中の感覚が、正解なことの方が多い。

いつまでも苦しんでいても助けはこない。「進路相談」の結論は自分で決めよう。

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