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【MLB】61本塁打が”True Record”とされる理由【ステロイド時代】

1961年,ニューヨーク・ヤンキースに所属していたRoger Marisは,同球団のレジェンドBabe Ruthの保有していたMLB年間最多60HR記録と並ぶ勢いで本塁打を量産。シーズン最終戦となる10月1日に「№61」を放ち,見事シーズン最多本塁打記録を樹立しました。

時は流れ2022年シーズン,同じくヤンキースのAaron Judgeが脅威的なペースでアーチを描いており,仮に「№62」を記録するのであれば大谷翔平選手とのMVPレースで優位に立つとの意見が多く散見されます。【後記:10月5日のレンジャーズ戦にて62号を達成!】

しかし2022年現在においてシーズン最多本塁打記録は「№73」となっており,Marisの記録した61本塁打はあくまでもア・リーグ記録。ではなぜここまで「№62」が重要視されるのでしょうか。はたまた何故「№61」が”True Record(真の記録)””Real Record(本物の記録)”とされているのでしょうか。今回は61本塁打が「True Record」とされた経緯,MLB史における在り方などについてフォーカスしていきたいと思います。


【第1章】”聖域”Ruthを「超えてしまった」Maris

1927年,強豪として絶対的な力を付けつつあったヤンキースにはBabe RuthLou Gehrigという歴代トップクラスのDuoが暴れ回っており,「Murderers' Row(殺人打線)」の異名を持つほどに。

同年,Ruthは当時自らが保有していた1921年の59本塁打を更新するシーズン記録となる60本塁打を記録し,Gehrigも47本塁打。一見すると打高時代のように感じられますが,この年のア・リーグ本塁打Top5傑は以下のとおり。

①Babe Ruth 60本塁打
②Lou Gehrig 47本塁打

③Tony Lazzeri 18本塁打
④Ken Williams 17本塁打
⑤Al Simmons 15本塁打

同年のナリーグのHR王ですら30本に終わっている

デッドボール時代とまではいかずとも,当時のア・リーグは極端に本塁打が少なかったことが見てとれますし,そんな中にあって本塁打を量産したRuthとGehrigの特異性が際立ちます。

その後,Ruthの記録に肉薄した選手が数名います。1930年のシカゴ・カブスに在籍したHack Wilsonは記録破りに挑み,8-9月だけで23本塁打を記録しますが,最終的に56本塁打に終わっています。1932年にフィラデルフィア・アスレチックに所属していたJimmie Foxxも開幕から順調に本塁打を積み上げ,最後の5試合で5HRを放つなどブーストしますが58本塁打と僅かに及ばず。

そして1938年にデトロイト・タイガースのHank Greenbergが58本塁打に泣いた後は20年弱に渡って60本塁打はおろか,55本塁打を超える選手すら現われることがありませんでした。

時は移ろぎ1960年,ヤンキースではのちに史上最高のスイッチヒッターと呼ばれるMickey Mantleがスーパースターとして君臨しており,この年は40本塁打を放って本塁打王に輝いています。加えてこの年カンザスシティ・アスレチックスから移籍してきた外野手Roger MarisがMantleに1本差の39HRを記録し打点王を受賞する活躍を見せたことで,チームは2年振りにWS進出を果たします。

かつての「Murderers' Row」を彷彿とさせるMantleとMarisのDuoは「M&M Boys(MM砲)」と呼ばれ,翌1961年に全米を熱狂に包むHR王争いを演じることとなるのです。

その年の4月,7本塁打を放ったMantleとは対称的に,Marisは僅か1本に留まりますが,その後両者は脅威的なペースで本塁打ダービーを展開。6月末時点でMantleが25HR,Marisが27HRと,共にRuthの60本塁打記録を更新できる位置に在りました。

しかし両者が熾烈にアーチを描く中,一部のヤンキースファンや保守的なメディアは「”聖域”であるRuth超えにふさわしいのは生え抜きのMantleだ!!」との考えを持ち始め,次第に「外様」のMarisに対してはブーイングを行うこともあったそうです。(そもそもRuthだって外様なのにね😓)

また,記録更新が間近に迫ると,当時のMLBコミッショナーであるFord Frickが「Ruthは154試合制の時代に60本塁打を記録しており,現在の162試合制において154試合目以降に記録更新となったとしても,記録は認められない」との声明(迷)を発表する事態に。(勿論,これには多くの記者などから反論がありました。)

そして,シーズン最終盤にはMantleがインフルエンザ治療の注射(*)が原因で股関節に腫瘍を患ってしまったことで,「Mantleはディスアドバンテージを有していた」と主張する者まで現われました。

そんな中,シーズン最終戦に61本塁打目を放ってRuthを「超えてしまった」Marisを祝福する観衆は少なく,当時67,337人が収容可能であったヤンキーススタジアムには僅か23,154人しか駆けつけなかったと言われています。(動画を見る限りじゃかなりの盛況ですが,,)

(*)Mantleが接種したのは「インフルエンザ治療薬」という文献がある一方,「ステロイドやアンフェタミン(興奮剤)を含んだドーピング」であったとする主張も見られます。当然ながら真相は分からん。

Frickコミッショナーの独善的発言によって,Marisの記録は長らく「アスタリスク(参考記録)」とされることとなってしまい,1991年に当時のコミッショナーが名誉を回復させるまでの30年間,極めて不当な扱いを受けることとなります。(なお,打席数でみるとRuthの691とMarisの698では試合数ほど差はない)

こういった経緯を見ると,むしろ1990年まで”True Record"とされていたのはRuthの60本塁打であったのかもしれません。因みにMarisはこのゴタゴタもあってか「ニューヨークが大嫌いだ」と口にすることが多くあったそうです。そもそも仲の良かったMarisとMantleを,ニューヨークメディアはゴシップネタ欲しさに「不仲である」と報道していたように,報道規範の欠片もありませんよね。
下記の映画はMarisとMantleの友情や,記録超えに際しての壮絶なバッシングを描いたものです。

【第2章】球団拡張と1994-95年のストライキ

1985年にMarisが悪性リンパ腫によってこの世を去るも,彼が記録を破ってから30年後となる1991年,強権的かつ公平的であったFay Vincentコミッショナーが「記録は統一されるべき」と主張したことによって,「№61」が市民権を得ることとなります。

また,時代の変化に伴って,Marisが記録を破った1961年時点から,球団数は18チームから26チームまで増加。1993年には28チーム,1998年には現在の30チームに達するなど,MLBは新時代を迎えていました。

特に1993年にフロリダ・マーリンズとコロラド・ロッキーズの2球団が拡張されてからは本塁打の累計数のみならず,1試合あたりのチーム本塁打率が1.00本を超える年が頻出し,MLBの歴史で見ても屈指の打高時代が到来したといえます。そしてこの時代,30年も更新されていなかったMarisの記録に近づく打者が多く現われることになるのです。

こういったエクスパンション(球団拡張)を契機に成長を続けてきたMLBですが,副作用としてある騒動が引き起こります。
1994年,MLBの発展にともなって増加した選手年俸によって球団経営が難しくなってきたオーナー陣は,NBAなどで既に施行されていたサラリーキャップ制度の導入を選手会に提案。文字通り,チームあたりの総年俸にキャップ(制限)を被せるこのルールは,見方を変えれば選手一人あたりの年俸停滞を引き起こす悪法。選手会にとって到底受け入れられるものではなく,両者は激しく対立。なんとこれが起因となって1994年8月12日からプレーオフ含む残りの全試合を選手会がストライキする事態に発展。【ストライキの詳細はこちら

ここで一つ注目したいのが,8月11日時点で110試合程度しか消化されていなかったにもかかわらず,シアトル・マリナーズのKen Griffey Jr.が40本塁打,サンフランシスコ・ジャイアンツのMatt Williamsはそれを上回る43本塁打を記録していたということ。そしてそれを1年換算すると58本塁打と61本塁打ペースであったという事実。騒動によって隠れがちですが,リーグの打高傾向は着実に右肩上がりとなっていました。

話はストライキに戻り,1995年に入ってもオーナー陣と選手会の軋轢は全くといっていいほど解決せず,当時の米大統領ビル・クリントンからも苦言を呈されるまでに。2月にはオーナー陣がマイナーリーガーなどの「代替選手」を招集してによるスプリングトレーニングを実施。そのまま「代替選手」による公式戦開幕を強行しようと打って出ます。

小ネタですが,当時NBAの大スターであったにも関わらず,亡き父親の夢を果たすためバスケを引退し,マイナーリーグからMLB入りを目指していたMichael Jordanは,この際に代替選手としてシカゴ・ホワイトソックスから招集依頼を受けています。結局招集に応じることはなく,ストライキに嫌気が差してこの直後にNBAに復帰するんですけどね。いわゆる背番号「45」の限定Jordan。その後のPSでORLのNick Andersonとやりあってたの好き。
ちなみにブルズのオーナーであったJerry Reinsdorfは,ホワイトソックスのオーナーでもあったため,どっちに転んでも痛みは無かったといえましょう。

Shaqは今でもAndersonのFT外しを根に持ってるらしい。そりゃそうだ😓

結局,サラリーキャップ制度の導入は見送られたことによって選手会の争闘は終結。大幅に試合数を減らした144試合制としながらも4月25日に1995年シーズンの開幕戦を迎えることができました。しかし俯瞰でみればオーナー陣は球団の利益のため,選手会は自分たちの給与アップのために衝突を繰り返していただけであり,その煽りを受けたのは他でもないファン。MLBという組織全体に対するファンからの失望は顕著に現われることとなります。

1994年シーズンには平均観客動員数が30,000人程度であったにも関わらず,ストライキ明けの1995年は25,000人程度と急落。開幕後にはスタジアムに詰めかけたファンが選手にブーイングを浴びせるなど,エクスパンション(球団拡張)にて盛り立っていた野球人気に陰りが生じます。

そんな混沌のMLBにあって,時代を象徴する2名のスラッガーが台頭します。内1名は中断した1994年に40本塁打を放ったKen Griffey Jr.であります。メジャーリーガーの父親を持つGriffey Jr.は1987年ドラフトにて全体1位指名を受けると屈指の5ツールプレイヤーとして躍進。1995年こそ怪我に泣きますが,1996年に49本塁打1997年に56本塁打を放つなど,シアトル・マリナーズのみならず,MLBのスーパースターとなっていきます。(イチローが憧れた選手としても有名)

もう1名は”Big Mac”との愛称で親しまれたMark McGwire。オークランド・アスレチックスでMLBデビューを果たすと,1987年に新人ながらも49本塁打を放ち本塁打王を獲得。その後もリーグを代表する長距離打者として活躍し,1996年には52本塁打を記録。1997年には両リーグ最多の58本塁打を放ちますが,シーズン途中でナ・リーグのセントルイス・カージナルスに移籍したために,それぞれ別のリーグ記録(AL:34本 NL:24本)として本塁打王は受賞できず。

この2名のホームランバッターによって,少しずつMLBに熱が帯びていく中,「1998年シーズンにはGriffey Jr.やMcGwireによって,Marisの記録は破られるのではないか」といったディベートがさかんに行われていきます。こういった圧倒的なホームランバッターの存在や打高傾向にあったリーグは,Maris超えにうってつけの状況であったといえます。

<ストライキの補足>
実はサラリーキャップ制度導入の動きは1990年の労使協定交渉の際から持ち上がっており,同シーズンの開幕が危ぶまれたほど。その危機を回避させたのは再度登場・Vincentコミッショナーでありました。労使協定にコミッショナー自ら仲介を行い,ロックアウトは30日強で終了。しかしそれまでのコミッショナーとは異なり,「オーナー側の犬」とは機能しなかった人物であったために,オーナー陣営から半ば強制的に辞任させられました・・・。この辺のエピソードを掘り下げると,MLB興業の腐敗がよく見えます。(ザ・グレートレイクス・ギャングの悪行にはいずれ触れたい)
その後コミッショナーに就任したのは当時ミルウォーキー・ブリュワーズのオーナーであったBud Selig。普通に考えて,オーナー側の肩を持つことが必至の人物を同職に置くことはありえませんよね。この「オーナー側の忠実な犬」Seligによってストライキは長期化し,後述するスキャンダルの対応も後手に回ることとなります。

【第3章】McGwireとSosaによる異次元のHR争い

迎えた1998年,Griffey Jr.が5月末までに19本塁打を放つ一方で,”Big Mac”は衝撃の27本塁打を記録し独走。McGwireによるMaris超えは時間の問題でありました。

しかし6月,予期せぬ事態が起こります。McGwireは月間10本塁打Griffeyは月間14本塁打を記録し極めて順調なランを展開。そんな2人を横目に,シカゴ・カブスのSammy Sosaが突如歴代記録を塗り替える月間20本塁打を放ち,計33HRでGriffey Jr.に並ぶこととなります。

過去に一度40HRを記録したことがあるものの,本塁打王の経験がないSosaによる歴史的な追い上げは誰も予測が付かず,「Griffey Jr.とMcGwire」という構図はいつしか「McGwireとSosa」という同じナリーグ中地区のライバルに移り変わっていきます。

そして残り25試合を残した8月末までにMcGwire・Sosa共に55本塁打を記録。もはや両者によるMaris超えは決定的であり,論点は「どちらがより多く本塁打を放つのか」に向けられていくのです。

雌雄を決する9月,McGwireは9月最初の2試合で4発,そして早くも9月5日にRuthに並ぶ60本目となるアーチを描きます。Sosaも9月2日~5日の試合で3試合連続本塁打を放ち58本目に到達。デッドヒートと呼ぶに相応しい中,9月7日~8日に同地区のCHC-STL直接対決を迎えることになります。ちなみに会場のセントルイスはMarisが晩年を過ごした土地。ここまで完璧なシュチュエーションはなかなかありませんよね。

ここで音なしであったSosaを尻目に,McGwireは9月7日にMarisと並ぶ61号本塁打で王手。翌8日にもMaris超えとなる「№62」を放って見事記録更新を果たしました。

興奮で一塁ベースを踏み直すMcGwire。
大喝采に揺れるブッシュ・メモリアル・スタジアム。
嬉しさのあまりフィールドに乱入するファン。
ホームベースで偉大なるスラッガーを出迎えるチームメイト。
そしてレフトを守っていたSosaもMcGwireと熱い抱擁を見せる。
最後には観衆の中にいたMarisの遺族にもセレブレーションで敬意を表すなど,歴史的な瞬間となりました。

また,視聴率は12.9%視聴者は4,310万人という過去17年間のMLBレギュラーシーズンにおける全国放送最高値を記録し,ストライキ後に凋落した野球人気復権を裏付けることにもなりました。(観客動員数もスト前の水準70,200,000人に到達。)

この後Sosaも,9月11日~13日に行われたミルウォーキー・ブリュワーズとの3連戦で4HRを放ち「№62」に到達。まさに「異次元」のHR王争いが最終局面を迎えます。

終わってみれば,Sosaは66本塁打を記録しプレーオフ進出に貢献したことでナ・リーグMVPを受賞。しかしMcGwireに至っては最後の2試合で4HRを放ったことで「№70」に到達。前人未踏の金字塔がここに打ち立てられました。
ちなみに,開幕前に同じくMaris超えを期待されたGriffey Jr.は56本塁打で2年連続のアリーグ本塁打王を記録。しかしもう一つの壇上で繰り広げられたホームランダービーによって,Griffey Jr.の功績が霞んでしまったのが事実でしょうか。

恐ろしいことに,この翌年の1999年にもMcGwireとSosaによる本塁打王争いが演じられ,最終的にMcGwireが65本,Sosaが63本という僅差で幕を閉じています。陸上競技などでは頻繁に言われますが,記録破りには強大なライバルの存在は欠かせないということが見てとれます。

そして今後数年にわたって続くとみられたMLB黄金時代。もちろんこの時点では「61本塁打が”True Record"である」という概念は存在しません

ーー 直後,この詠歌は思いもよらぬ結末を迎えることとなり,今となっては「MLB史に残る汚点」「暗黒時代」と評されるまでに至りました。

一体何があったのでしょうか。

【第4章】Barry Bondsによる蹂躙

McGwireが「№70」を記録したのが34歳の時。すでに肉体も全盛とはいえず,今後記録を破る者が現われるとすれば同時点で29歳であったSammy Sosaに他ならなかったでしょう。

しかし2001年,McGwireやSosaですら為し得なかった前半戦39HRを記録する選手が出現。当時36歳で,全盛期を過ぎたはずのBarry Bondsです。

Bondsは1986年にピッツバーグ・パイレーツでデビューすると,30本塁打30盗塁を連発。左翼守備でもGG賞を連続受賞するなどGriffey Jr.を上回るほどの5ツールプレーヤーでありました。サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍後の1996年には史上2人目となるシーズン40本塁打40盗塁を達成,1998年には史上初となる通算400本塁打400盗塁を達成しています。

それだけに,スラッガーというより総合力に優れたアスリート体型であったBondsが,大幅にビルドアップした体型で1999年のキャンプに現われた際は衝撃を呼びます。ただ,ビルドアップ後の1999年は体重増加による故障もあり34本塁打。2000年は49本塁打に留まっており大台には達せず。年齢も佳境に迫っていたことからも,Bondsが翌年にキャリアイヤーを過ごすなど誰も思っていなかったことでしょう。

迎えた2001年は4・5月にそれぞれ6試合連続本塁打を記録。9月9日には一挙3本塁打を放って「№63」に到達。勝負を避けれながらも10月4日には「№70」でMcGwireとタイに。そして最後の3試合で3HRを記録し,不可侵と思われたMcGwireの記録はたったの3年で「№73」に更新されてしまったのです。

Bondsによる本塁打記録への蹂躙の恐怖は凄まじく,翌2002年~2004年は極端に勝負を避けられたことで45本程度の本数に落ち着きました。この中でも2004年に記録したシーズン232四球(うち120敬遠),出塁率.609,OPS1.422はいずれも歴代最高値であり,常軌を逸した成績として日本の野球コミュニティにおいても有名。

しかしこの辺りからBonds,そしてMcGwireやSosaを取り巻く様子が変わっていきます。

【第5章】狂乱の終焉,そしてバッシング

2003年の夏,全米反ドーピング機関宛に匿名の人物から,ある「注射器」が送りつけられたことが発端となり,それまでの薬物検査では検出不可能な”Clear(クリア)”と呼ばれるヒト成長ホルモン(筋肉増強剤)の存在が露見。表向きは栄養補助食品の販売会社として業績を挙げていたBALCO社が,多くの米国スポーツ選手にドーピングを提供していたとされる「バルコ・スキャンダル」が発覚したのです。
この捜査において,薬物を提供を受けたとされる選手には時代を代表するスラッガーのJason GiambiGary Sheffield,そして「№73」を記録したBarry Bondsの名前が線上に挙がります。

GiambiやSheffieldは,提供を受けた薬品がドーピングであったと知りながら使用した旨の供述をしましたが,Bondsは提供・使用の事実を認めた上で「それがドーピング剤とは知らなかった。関節炎に効く薬と言われて服用した。」と説明。ただ,ビルドアップを行った1999年頃から自身の幼馴染みであるGreg Andersonをトレーナーとして雇い入れており,そのAndersonはかねてよりBALCO社を創設したVictor Conte氏と深い関係にあったことが発覚。その後,連邦大陪審にて証言した「ステロイドとは知らなかった」という説明が偽証であったとして起訴されるまでに至ります。

2006年には,200人以上の関係者からの証言を基に「Bondsが1999年頃からClearだけでなく,様々な薬物を使用していた」ことを記した暴露本”Game of Shadows”が世に出回るとBondsの権威は失墜することとなります。

そして同時期,かつてオークランド・アスレチックスなどで活躍したJose Cansecoが2005年に”禁断の肉体改造"という著書を出版。そこには「かつてのチームメイトであったMark McGwireが日常的に筋肉増強剤(アナボリックステロイド)を使用していた」といった記載がされており,上記の「バルコ・スキャンダル」の渦中にあったアメリカに更なる波紋を広げます。

そして,すでに現役を引退していたMcGwireは2005年の下院公聴会に召喚。そこで薬物使用を問われた際には「過去の行いはバルコ・スキャンダルと関係ない」として涙ながらに黙秘権を行使。自ら使用を認めた訳ではないものの,ここで薬物使用を否定した場合にはBonds同様に偽証罪となることから,”黙秘=薬物使用を認めた”としてMcGwireの権威も失墜することとなりました。

Big Macと熾烈なHR王争いを演じたSammy SosaもMcGwire同様に2005年の下院公聴会へ出席。この際Sosaは明確に「ドーピングは使用していない」と否定を行います。
しかし2009年,ニューヨークタイムズが「2003年に行われた匿名前提の薬物検査において,Sosaが陽性反応を示していた」と報じたことで状況は一変。SosaもBonds,McGwireのように「ズル(Cheat)」を行ったとして激しいバッシングにさらされることとなります。

忘れられがちですが,こういった時代で全盛を過ごしたにもかかわらず,全くといっていいほど薬物使用の噂がなかったGriffey Jr.の歴史における立場は高く見積もるべきかもしれません。
皮肉にも,McGwireとSosaの本塁打狂騒曲によって影に隠れたGriffey Jr.とBondsは,真反対の道を歩むこととなりました。

【第6章】禁止薬物取締の背景

ここで疑問に思う方もいると思います。
ーーー「なぜ2000年代に入って野球選手のドーピング使用が明るみになったの?」

これは,筋肉増強剤などのドーピング使用に関して,MLBが非常に消極的な態度を取ってきた過去が関係していると言えます。
東西冷戦の最中,アメリカ国内におけるドーピング(特にアナボリックステロイド)研究はさかんに行われており,オリンピックに出場する選手へのドーピング使用が行われています。
その後,MLBを含めたプロスポーツにおいてもドーピング使用が蔓延したと言われており,先出のCansecoも著書に「MLB選手の85%程度がドーピングを使用していた(*)」と記したように,米国スポーツにおける薬物汚染は深刻な問題として喚起されるようになります。

1985年にはPeter Ueberrothコミッショナーが年に数回,薬物検査(ドーピングではなくドラッグ検査)を義務付けることを提案しましたが選手会がこれを拒否。(この件の詳細はこちら

その経緯を汲んでか,1991年には野球規則に明記はしなかったものの「治療など,医師の指示がない限りはドーピングの使用を認めない」との通達を球団へ発令。ここには今のような罰則が伴わなかったために,薬物汚染が続くことになります。(奇しくもMarisの名誉回復と同年。これもVincentコミッショナーによるもの)

そんなタイミングでもたらされたのが1994年-1995年の長期にわたるストライキであり,MLBにとっては,ドーピングの取締りよりもストライキによって減少した観客数対策に本腰を入れたかったというのが実情(これは実際にVincentやSeligが認めている)。ここで登場したMcGwireやSosaといった選手は筋骨隆々,特にMcGwireはその時からもアナボリックステロイドの使用が噂されていたことを踏まえても,MLBが1990年代後半にドーピング検査を取り入れたくなかった理由が垣間見えます。(正直,McGwireに至っては70本塁打達成の際にもアンドロステンジオン使用の嫌疑がメディアに報じられていたので,公然の秘密ではありました。アンドロは1998年に栄養補助食品として販売されていましたが,,,)

しかし,野球以外のスポーツが厳格なドーピング検査を行うようになってからMLBの消極的な態度が批判されるようになり,2002年8月30日に「共同薬物プログラム」を含んだ新たな労使協定(CBA)が発表されると,2003年にMLB選手を対象として総計1,438件の尿検査を実施。匿名を前提にした本検査では,全体の5〜7%がステロイド陽性であったとされています。(ここで陽性となったのがSosaやA-Rod,Ortizら含む104名。)

翌2004年には罰則付きで同様の検査を実施し,ある程度の陽性者はいたものの,当時の「年3回の違反で25日間の出場停止」「年5回の違反で1年出場停止」といった罰則に引っかかった選手はいなかったとされています。

その渦中にて発覚した「バルコ・スキャンダル」と「禁断の肉体改造」による暴露は,及び腰を繰り返すMLBの顔に泥を塗るものであり,2005年以降から今日に至るまで,ドーピングの取締りが強化される一因となりました。

このように,急なBondsやMcGwireらへのバッシングは,MLBが2000年代初頭に大きく方向転換を行ったことが要因のひとつと言えるでしょう。

(*)Cancecoの85%発言は正直盛りすぎな気がします。ミッチェル・レポートを読み込んでも,多くて20-30%程度と考えるのが自然。様々な証言を踏まえ,個人的には「ステロイド時代」全盛期であっても10%程度であったと見込んでいますけどね。

【第7章】”True Record”

このような経緯が,BondsやMcGwire,Sosaによる記録更新はドーピング使用による不正なものであり,Roger Marisが1961年に記録した「№61」こそが”True Record(真の記録)”,”Real Record(本物の記録)”とされる所以です。

この主張はあくまでメディアやファンが唱えているものであり,MLB公式記録におけるシーズン最多本塁打は「№73」のままであります。これはどちらの見解に利があると言えますでしょうか。

以下,筆者の持論となりますが『両者共に正しいといえる』というのが個人的な見解となります。

まず揺るがない事実として
①Bondsが薬物使用において多くの不利な証言・証拠があること
②McGwireが2005年の公聴会後に薬物使用を認めたこと
③Sosaが2003年の薬物検査で陽性となっていること が挙げられます。
以上の3点は,「不正を行った3名による記録更新は認められない。”False Record(偽物の記録)”である。」とするに十分な根拠であると感じます。

一方で,MLB側が明確にドーピング使用に対する罰則を設けたのは2004年であり,3名が「№61」を更新したより後の出来事。そもそも弱腰のMLBが堀った墓穴でもあることから,声を大にして「Bondsらの記録は不正!」と言えるはずもありません。(そんでも,1991年に出された通告を無視する選手にも間違いなく責任はあるし,複数回にわたって薬物検査の導入を拒否し続けた選手会の責任が一番重い。ぶっちゃけストをちらつかせてた選手会相手にコミッショナーが強行手段を取れるわけもなかったわ。)

こういった理由から,「№61」に関しては様々な観点や背景を踏まえることが第一歩であると考えます。

<補足①>
私は以前よりSosaがアメリカ野球殿堂入り資格を失った一方でDavid Ortizが殿堂入りを果たした経緯から,Sosaを殿堂入りさせるべきであったと主張しています。
しかし薬物検査において「陽性」となったことは事実であり,それを根拠に「3度の60HR」といった実績にアスタリスクが付くことについては賛成の立場です。

<補足②>
Sosaの権威失墜に関して,とりわけYah○○!のコメント欄などで「Sosaはコルクバットを使ったから今でもバッシングを受けている」というものが見られます。
これは間違いではありませんが,正しくもありません。Sosaのコルクバット使用が明るみになった時点では批判を浴びましたが,その後の研究においてもコルクバットがもたらす打球結果への影響はむしろマイナスに働くとされてから,コルクバット使用を槍玉に挙げているメディアは僅少であると思います。

【最終章】「№62」はMVPに影響を与えるか

9月上旬現在,大谷翔平選手の2年連続MVPを阻む存在といえばAaron Judgeただ一人と言えます。そのJudgeが仮に「№62」を記録した場合,MVP受賞でどれほど有利にはたらくでしょうか。

これも個人的見解となりますが「62号本塁打はJudgeのMVP受賞を有利にする」と考えています。これには1つ理由が存在します。

今年1月末,ある審判が下されたのは覚えていますでしょうか。Barry BondsとSammy Sosaの殿堂入りが失格となったことです。ともに10年連続で得票率75%を下回ったことで,来年からは投票を受けることすら叶いません。そしてその審判を下したのは他でもない「BBWAA(全米野球記者協会)に所属する記者」であることがポイントです。

実はMVP投票を行うのもBBWAAの記者であり,捉え方によっては今回投票権を持つ記者の中には「BondsとSosaの記録を認めていない者」が一定数いると考えることができます。となると,そういった記者から見た「№62」というのは新たなる”True Record(真の記録)”,”Real Record(本物の記録)”として写ることでしょう。これがJudgeにとって有利に働くのでは,という根拠です。

ただし,MVP投票は30人の記者によって行われるものに対して,アメリカ野球殿堂入り投票は400人近くの記者によって投じられるもの。この規模の違いによって,「確実にJudgeに有利に働く」と断言はできません。そもそも,Bondsに対して「ドーピング使用に関わらず,素晴らしい選手であった」との評価をしている記者は少なくありません。

補足③
2022年HoF投票でSosaの得票は18.5%,対してBondsは66%と比較的高いです。とはいっても「それってさぁ,BBWAAの3分の2はBondsの73HRを支持しているってコト…!?」と聞かれると残念ながら違います。あくまで「Bondsのキャリアを総括した際,PED未使用の期間だけでもHoFに値する」という人が大半で,HoF投票でBondsに投じた記者も「73HR」のみ切り取られるならば,”False Recordである”という見解が多いとの印象です。

こういった要因が絡むために,今回のMVP投票を予測することは極めて困難ですよね。

我々ファンはそんなことよりも,Judgeが同じヤンキースの大先輩の記録に挑んでいること,そしてそのJudgeに唯一対抗しているのが日本人である大谷であるということに焦点を当てていければ気持ちも軽くなるかもしれません。例えJudgeが「№62」を記録したとしても,大谷が度肝を抜く活躍をシーズン終了時まで続けるようであればMVPの行方は全くわかりません。

ヤンキースコミュニティに所属する日本人としては,どちらが獲得したとしても嬉しいし悔しいのが本音。この例えはタブーかもしれませんが,かつてMcGwireとSosaが見せたような全米を渦に巻く最終盤を期待したいですね。
【後記:その後,BBWAAの投票によるアメリカンリーグMVPはアーロン・ジャッジが受賞!】

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★以下参考


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