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【映画感想文】第4の壁を越える恐怖の表現【映画・コンジアム】

※サムネイル画像は公式HPより

はじめに

 「最近のホラー映画はつまらない」と答えられることが多くなってきたホラー映画というジャンルの作品群ですが、その中でも数多の作品が試行錯誤の結果、結局芳しくない評価に終わる、そのようなことが映画界隈では度々見かけられます。

 筆者は別の記事にて、日本ホラー映画の金字塔である「呪怨」についての感想文を投稿させていただいたのですが、最近の映画は映像技術の向上などいろいろな観点から「恐怖」を感じづらい場面も増えてきたかもしれません。

 筆者はホラー関連の作品は目がなく、映画配信サービスでは多くのホラー映画を見てしまう程度にはホラー好きなのですが、筆者も実は「昔のほうが怖かったかもしれない」と思うことがあります。

 それについてはいろいろなことが考えられるのですが、ここではそのようなマイナスな側面を抜きに、昨今見てきたホラー映画で最も恐ろしく、同時に秀逸な作品をここでご紹介させていただきます。

 それが「コンジアム」という韓国初の映画となっております。
 こちらは実在する心霊スポット「コンジアム精神病院」をモチーフとした作品であり、一人称視点のカメラを採用した「Point Of View方式」と呼ばれる、ビデオカメラで撮影した映像をそのまま映画として流用する方式が取られています。

 これらのPOV方式を採用したホラー映画は「REC」や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」などの有名な作品でも採用されたものであり、列挙した作品はどれもホラー映画として絶大な評価を得ています。

 そんな中で今回挙げさせていただく「コンジアム」という映画作品は、それらの作品と比べると「名作」と呼ばれるような作品と比べると、少々型落ちを感じるかもしれません。
 しかしながら、今から紹介させていただきます「コンジアム」にはそれまでには見られなかった面白い手法が用いられている作品なので、あえてこちらの作品を紹介させていただきました。

 本作について知らない、見たことがないという方は、下記の作品紹介をご覧になった上で、ぜひとも本編を御覧頂いてから以下の感想文をお読みいただけるとより楽しめると思うので、ぜひご覧いただければと考えております。

・作品紹介

コンジアム

コンジアム・オフィシャルホームページより

〜Story〜
YouTubeで恐怖動画を配信する人気チャンネル「ホラータイムズ」が一般からの参加者を募り、コンジアム精神病院への潜入を計画する。
主宰者ハジュンを隊長とする7人の男女は、いくつものカメラやドローン、電磁検出器といった機材を現地に持ち込み、深夜0時に検索を開始。

100万ページビューを目標に掲げるハジュンの演出も功を奏し、サイトへのアクセス数は順調に伸びていく。
しかし院長室、シャワー室と浴室、実験室、集団治療室を探索するうちに、ハジュンの想定を超えた原因不明の怪奇現象が続発。
やがて悪夢の迷宮と化した病院内を泣き叫んで逃げまどうはめになった隊員たちは、世にもおぞましい、402号室の真実に触れることに…。

コンジアム・オフィシャルホームページより

第一章:より臨場を与えるPOV形式の創出

1.新たな表現方法となった「POV」

 ホラー映画において転換期的な表現方法である「POV形式」は、先述の通り「REC」や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」などの有名なホラー映画で登場した新しい表現の先駆けのように言われています。
 この形式のホラー映画は、一種のジャンルにまで成長しており、主観的な表現によって作り出される圧倒的な臨場感がウリの作品群になっています。

 筆者はこの「POV形式」の作品のパイオニア的な作品は知らないのですが、このような作品の世界観に強く没入させる方法は古くから用いられていたように感じます。
 日本のホラー作品でも、ドキュメンタリーのような世界観を意図的に作り出し、気味の悪さを創出していく「モキュメンタリー」というジャンルもあるくらいですので、映像作品としてはかなり昔から、しかも多くの人たちが考えていた方法だったのかもしれません。

 これは映画特有の表現としては突出した視覚的表現であり、従来まで活字が表現していた圧倒的な想像の恐怖とは対極にある表現であると言えるかもしれません。

 「映画・呪怨」のときにも記述していましたが、ホラーというものは作品として絶対的な評価が困難な作品群でもあります。
 特に恐怖は主観的な気持ちであるため、これを意図的に掻き立てるための表現方法として、本来映画という作品群は不向きな部分があります。
 主観的な気持ちを意図して相手に掻き立てさせるには、本来であれば小説の領分であると言えるでしょう。作品が文字でしか表現されていないため、すべての解釈が受け手の知識や気持ちにまとめられてしまうという部分で、小説というものはそれそのものが「主観世界」によって作られると表現することもできるでしょう。

 そんな映像作品の中で、「POV方式」というものは圧倒的な没入感を視覚的表現によって作り出し、かつそれに対して「自分も同じような体験をしている」ということを意図的に追体験させていくような感覚を生み出します。

 これは本来主観的なものであった「恐怖」に対して、「自分の身に危険が生じる」という客観的な解釈を抱かせることが出来ます。

 そのような事を考えて、「POV方式」という映像的な表現は、ある程度の恐怖性を担保する事ができる、噛み合いのよい方式であると言えるでしょう。

2.インカムで作り出す臨場感

 「POV方式」は主観視点による圧倒的な臨場感を与えることに成功しているのですが、今作は「インカムによって主観視点の表情が見える」という特徴があります。
 これは従来までのPOVとは明らかに違った性質を持っており、主観によって「語り手が客観視でいない状態」というものはPOV形式が持つ大きな強みになっていました。しかしそこを捨てて、あえて演者の表情を明確に見せることは、作品において大きな賭けだったのかもしれません。

  しかしながら、本作においてその「表情を見せる」という手法はかなり効果的でした。
 本作の演者はこの手の作品の演者としてはかなりレベルが高い面々が揃っているようで、心霊スポットに慄くキャラクターをしっかりと演じることができているため、「主観視点による没入感」と「実際に恐怖する経験」という、従来までのホラー作品が持っていた恐怖感を煽る形質も持ち合わせています。

 これこそが本作の特徴であり、主観と客観という二つの恐怖感を強く引き立てる特徴を持っています。演者が数々のホラー演出に対して恐れおののく瞬間が「インカムによって表情が撮影される」という部分でかなり具体性を持って表現されることで、没入感と同時に「このように恐れるのか」という客観的な指針になるため、恐ろしさは一入になるでしょう。
 従来までの恐怖演出は圧倒的な主観に頼るものであったことに対して、本作では上手にある程度客観的な指標で恐怖を与えるような対応ができていると言えるのかもしれません。

 更に本作では、複数の人間のインカムによる表現がされています。
 それぞれ個性的なキャラクターの面々が、同じようにキャラクター性に則った恐怖感を表現することも相まって、より客観的な恐怖感を体験しつつも、その場でまるで撮影の一員になっているような臨場感につながるわけです。

 本作はPOV方式を取る上で、「ネット配信で収益を獲得しようとして心霊スポットを巡るユーチューバー」という、今までの映像作品の中でも比較的身近な形式の舞台装置が作られています。
 ユーチューバーというコンテンツそのものは比較的近代的ですが、この形式は従来までのホラーバラエティに度々見受けられた、「芸能人が心霊スポットに向かって恐怖体験をする」というものとほとんど同じ図式であると言えるでしょう。

 このように、本作は舞台装置の時点から我々に比較的メジャーなやり方によって作られていると言えるでしょう。それに加えて、「表情を物語に絡めてしっかり見せている」という部分は、演出としてかなり成功していると筆者は感じています。

3.人間性の闇の描写をする意味

 ホラー映画作品というものは、大抵の場合は主役の人物たちがろくな目に合わない作品ジャンルですが、その上で「キャラクターが惨たらしく死んでしまう」ということが頻繁に起こるため、「キャラクターに対してマイナスイメージを付与する」ということが度々行われています。

 従来までのホラー作品にて、冒頭でセンシティブなシーンが挿入されることが多いのはこのためであり、一般的に我々はセンシティブな行動に対してどこか後ろめたさがあり、それが劇場というスクリーンにて大規模に放送されるのは「悪いことをしている」という意識に働きかけるものです。
 それだけではなく、センシティブなシーンの挿入は、心理的な吊り橋効果も恐怖演出の布石として一翼を担っている意味もあるそうです。
 そのため、ホラー映画ではあえてキャラクターの暗澹たる部分を表現したあとで、恐怖を通じてキャラクターを追い込んでいくという形式が多くあります。

 ホラー映画はキャラクターをマイナスに表現するのか、それともプラスの方向に表現していくのかで、ホラー作品の表現したいことがまるっきり違っています。ホラー作品の巨匠と名高いスティーブン・キング氏は、キャラクター性に重きをおいた作品も多く排出しており、映画作品として大ヒットした「IT」はまさにキャラクター性ホラーの金字塔といえるでしょう。

 恐怖という圧倒的な壁を越えて、キャラクターそのものの人格的な成長や人間関係の築きを描写していく成長譚的な側面を持っているものが、キャラクター性ホラーの特徴かもしれません。

 本作はそんなキャラクター性のあるホラーとは真逆であり、「圧倒的な恐怖と臨場感」を与える作品性であると言えるかもしれません。本作は特筆した人間性や物語性を持っているものではありません。あらすじにしても「収益を期待するホラーチャンネルグループが、本当に危険な心霊スポットに足を踏み込んでしまう」というものです。そして物語は、一切の好転をなしに、クルーの全滅を持って作品は終了します。

 本作において、物語性というものはさほど重要ではありません。それはこの映像作品の根底の部分からも透けて見えることで、高いストーリー性を見せてくるというよりも、とにかく怖いものを表現したいという気持ちが強く感じられます。

 その中でも、その恐怖の一つの説明として「人間が持っている利己的な闇」によってされています。クルーには「配信によって稼ぎたい派」と「早く帰りたい派」に分断されます。結果としてこのクルーは凄惨な末路をたどることになるのですが、あえて人間の対峙を描き、最終的には欲望が勝ってしまうという後味の悪さは、実に不快に受け手を感じさせてきます。

 この後味の悪さこそが、本作の表現しようとした根源的な恐怖に繋がってくると筆者は感じています。

第二章:受け手が見ているものは「創作」か?

1.創作が現実に食い込む恐怖

 本作は「コンジアム」というタイトルから分かる通り、実在する精神病院の廃墟であり、作中でも「CNNが選出した世界7大禁足地」と表現されていて、本当にCNNが選出したのかはソース未確認ですが、実際にそれに該当するような記事が複数確認されています。
 その中でも、本作と同名の場所である「昆池岩(コンジアム)精神病院」は実在するようです。

 これは明らかに意図的な表現でしょう。作品として使うのであれば、モデルとしても名称を変えるなどをすることが一般的です。にも関わらず本作はそのまま流用して、実在する「CNN」という単語も出しています。

 本来創作物というものは、「現実と酷似しているがまた違う世界」ということが大前提です。それを上手く表現して作り出していくのが世界観の創出であり、世界が異なっていると思うからこそ、創作は「フィクションだから」という言葉で理解されることになります。

 この現実と創作における概念的な壁を、「第4の壁」として表現されます。

 しかしながら、ホラー作品というものは、この「第4の壁」を打ち破って表現されているものが多々あります。これは映画だけではなく、ホラーゲームなどでも用いられる創作的な手法であり、「創作と現実は違うから」という明確な逃げ道を持っている人間にとって、それを越えて襲いかかってくる現実味のある恐怖を表現するものとして、度々取られています。

 創作における恐怖感が人によってかなり異なるのは、主観的な恐怖のなかで「でもこれは本当ではないから」ということを強く意識するかしないかの違いでしょう。
 受け手は現実という安全圏にいることを実感できるから、我々は「冷静に作品として評価をする」事ができるわけです。もし仮に、映像作品が現実にかなり酷似した内容であったり、世界の凄惨な情勢について訴えるような内容であったら、作品としての評価と、現実としての受け入れとが乖離する結果になるでしょう。

 「第4の壁」は、現実と創作を区別するという意味合い以外にも、作品として一定の評価基準を設けるという意味もあるのかもしれません。

 本作ではあえてそれを曖昧にして、「この作品は現実で起こるかもしれない」ということを都度強調しています。

2.本作は「フィクション」か?

 前項において、「本作があえて現実に近い部分に作品をおいている」という記述をしたのですが、本作を明確に「フィクション」と表現するには実は難しいところがあります。

 本作を見た人はほとんど「怖いけど物語としてはよくわからない」という表現をすると筆者は考えています。実際筆者も同じような反応をしましたし、特にラストシーンの「そもそも配信すらされていなかったのではないか」という可能性を示唆するシーンは一度の作品視聴では理解の難しいところがあります。

 というのも本作ではあえて徹底的に「コンジアムという場所で何があったのか?」ということがほとんど語られません。最低限語られるような場面であっても、クルーが話す「らしい」という噂話ほどでしかなく、具体性を持って記述されるのは殆どありません。
 あえてこのような手法がなされていると思わせるようなストーリーを語らせないやり口は、「第4の壁を越える方法」に思わせます。

 実在する「昆池岩(コンジアム)精神病院」では、実際に何があったのかはよくわかりません。それは現実の世界でも、創作のコンジアムでも変わりないことで、「都市伝説の類」で留めていると言えるでしょう。
 この作品におけるフィクションと現実の境界線を、あえてどちらも揺るがすことで「創作では〜〜だったけれど、実際には〇〇だよ」という、現実的な逃げ道すら潰しています。

 この作品におけるフィクションの要素はかなり曖昧です。あえて作中における「コンジアム精神病院」のバックボーンを語るのではなく、必要最低限の情報のみを提示することで、我々が現実で手に入れていくことになるであろう「昆池岩(コンジアム)精神病院」と混ざり合う余地があるということを本作では意図的に行っています。

 このようにあえて現実とフィクションを混ぜ込むことで、本作は「第4の壁」を曖昧にしている面白い作品です。

3.第4の壁を越える意味

 この「第4の壁」の壁を越える手法というものは、いろいろな作品形態で行われていることです。しかしこれは、本来「観客を意識する」ということでもあり、使い方の難しい技法でもあります。

 いわゆるメタ的な表現がこの「第4の壁」を越えることに準ずることなのですが、これを過剰に盛り込んでしまうといわゆる興ざめてきな事になってしまいがちであり、「第4の壁」を越えることに対してある程度の意味をもたせる必要があります。

 つまり、「第4の壁」を越えるということは、ある程度の作品的な意味がなければいけないわけです。
 例えばエンターテイメント作品では、メタ表現によって「このキャラクターが観客を意識した発言をすることが面白い」という一種のオチが生まれているわけなのですが、それもまた使いようによっては難しい技法であると言えます。

 ホラーという媒体は「第4の壁」を越える意味を比較的容易に理由づけすることが出来ます。それは「逃れられなかった恐怖演出」を行うためです。
 我々がホラー映画というもの、ひいては恐怖というものをコンテンツとして楽しむことができるのは、「自分が安全圏いるという確信」があるからです。ホラー映画における「第4の壁」は、言い換えれば「凄惨な舞台装置から観客を守る壁」でもあるわけです。

 ホラー映画において「第4の壁を越える」ということは、観客をホラーの世界に引きずり込む意味や、作中で描写される恐怖から逃れられない意味をもつといえるでしょう。
 逃れることのできない恐怖感を与えるということは、例えば「呪われれば死ぬ」という題材を持った呪怨では、「第4の壁」があるからこそ、そのままエンターテイメントとして楽しむことがはっきりとできるわけです。

 本作では最初から実在する場所を用いているところから、「第4の壁」を既に跨いでいる状態になるわけです。そのような意味では、これまで作品として明確な線引がなされていたホラー映画という媒体において、はじめから境界線が曖昧になっているというものは、これまで取られていた「第4の壁を越える」というものとは一線を画する表現方法であると言えるのかもしれません。

第三章:本作が表現した恐怖

1.「恐怖」と「不快さ」の取り合わせ

 本作「コンジアム」にて表現されている恐怖の前に、この物語が持っているいいしれぬ「不快さ」について考えていきましょう。
 ホラー映画という作品は基本的に後味の悪いものや、そもそも登場人物が不快であることがしばしばあります。これは「不快」という気持ちの部分に、「恐怖」というマイナスな感情を乗せることが比較的容易であるからだと筆者は考えています。また、キャラクターそのものを不愉快な人物にしていくことで、恐怖の舞台装置として凄惨な目に合わせやすいということもあります。

 キャラクターの伴う物語作品は、「感情移入」によって人気のバロメータが図られると言っても過言ではないでしょう。その人物についてより現実的に、精緻に描写していくことで我々は彼らに一定の寄り添う感情を向けさせます。
 そのような「感情移入」があるからこそ、我々は作品を見たいと思い、よりこの先の展開に対して思いを馳せることにつながるわけです。人気の作品というものは「人気のキャラクター」というものが常につきまといますし、それらキャラクターの関わりというものも見どころの一つであると言えるでしょう。

 逆にこのキャラクターに寄らない、もしくは寄りづらい作品形式が「ミステリー」や「ホラー」というジャンルになります。
 「ミステリー」はキャラクター性もそうなのですが、命題とされる事件に対して「どうしてそのようなことが行われたのか?」という探究的な側面をもたせることで面白さを表現しています。
 「ホラー」はこれまでも語らせてもらった通り「恐怖」という本来であればネガティブなイメージを意図的に感じることで、エンターテイメントとして昇華させています。

 この二つはそれぞれ「命題に対しての探求」と「恐怖を感じること」という明確な目的が存在しており、その中のディティールの一つとしてキャラクター性や物語などがあるわけです。当然ながらこれらの要素を包括的かつ調和的に盛り込んだ作品が、名作として多くの人からの評価を得るわけです。
 いわば名作として語られる作品は、「評価の窓口が広い作品」でもあるわけです。
 精緻でレベルの高い物語性があるけれど、キャラクター性は乏しい作品であれば「物語に精通した人のみが評価できる」のですが、どちらもほどほどのレベルにある作品は「キャラクターを重視する人も、物語を重視する人も一定の評価をする」ため、名作として広く知れ渡ることになると考えることも出来ます。

 そんな作品のテーマ性の中で、本作「コンジアム」は圧倒的な恐怖性を表現する方向の作品であると言えるでしょう。キャラクターだけではなく、本来この映画の主役である「コンジアム精神病院」という舞台のバックボーンすら、表面を浚う程度の描写にとどめて、生き残りは一切いないという、ともすれば身も蓋もない末路、それらはすべて「観客を恐怖させる」ために存在しているわけです。

 ここで冒頭に立ち戻るのですが、本作のキャラクターはできるだけ観客にとって不快に作られていると筆者は考えています。
 金目当てに撮影の続行を継続しようとするリーダー格のハジュンを筆頭に、ヤラセを仕込んだ上で危機感を懐きつつも、報酬を上げてくれるのであれば続行すると語りだす他のクルーメンバー、心霊スポット巡りを趣味としている女性メンバーなど、意図的とも言えるほど本作ではキャラクターへの共感性を排除しています。
 尤もこれは、第四章にて考察するのですが「現代的な闇」を恐怖を下地に表現しようと解釈する事もできます。こちらについては後述させていただきます。

 そして本作は、そんなキャラクターたちを逃すことなく、コンジアムの禁忌に触れたものとして恐怖へ引きずり込んでいます。彼らは最終的に、物語においてそのまま「死者」として扱われることは描写からみてもはっきり分かります。

 重要な点は本作が、「彼らが体感した恐怖に酷似したものを感じる事ができる」ように作られているということです。
 これはインカムを利用した表情を見せる新しい演出と、全編ほとんどを演者が持った視点で見せるというPOV方式の圧倒的な臨場感によってなされています。
 POV方式は、キャラクターが見ている「視点」を映し出す表現です。これは人間が視覚に情報の殆どを頼っているということもあり、非常に絶大な効果があり、また映像媒体においては強力な表現であると言えるでしょう。

 故に本作は、映像媒体によって、コンジアムでの彼らの恐怖をともに体感する事ができる、映像作品をより体感的なものとして「恐怖」を表現した作品であると言えるのかもしれません。

2.「逃れられない恐怖」と「変質の恐怖」

 本作における恐怖の要素を分解すると、「逃れられない恐怖」と「変質の恐怖」の2つに分ける事ができると筆者は考えています。
 勿論これは、基本的な恐怖の演出とは異なるもので、本作の特徴的な恐怖演出のことです。根本的な恐怖の表現というものは、殆どが「危機感」に還元されるものだと考えられますので、そこをどのようにして表現していくのかが、ホラー映画の重要な点であると言えるかもしれません。

 特に「逃れられない恐怖」というものはホラー作品においてしばしば見られる作品がよく見られるのですが、本作でもその代表的な恐怖は美しく描写されています。
 コンジアムに足を踏み入れた人間は、最終的に逃れられることもなく、凄惨な末路を辿ることになりました。

 本作で面白い表現がなされているのは、逃れられなかったという結果が「死」ではなく、「コンジアムに引きずり込まれる」という結果になっている点です。
 日本を代表するホラー作品である「呪怨」は、基本的に逃れることができない恐怖が語られていたのですが、これは絶対的な「死」を最終的な結果として据えているものです。

 しかし本作では「死」というものを結果として据えていません。あるのは「コンジアム」という謎めいた領域に引きずり込まれるという、結果すらも曖昧で要領を得ないものでしかありません。勿論、引きずり込まれた彼らがどうなったかわかりませんし、劇中でも描写されていません。
 コンジアムにおいて、「逃れられない感覚」を描写するうえで、逃げ道を与えるような作りになっているのがこの「逃れられない恐怖」を克明に表現していると言えるでしょう。

 その最大の演出が、女性陣ふたりがコンジアムから逃げ出そうとする場面です。ふたりはあまりの恐怖感に、道中で残した目印を頼りにコンジアムから逃げ出そうとします。
 しかし彼女らが逃れられることはなく、ひとりは異形の姿に変貌してしまい、更にもう一人は再びコンジアムへと引きずり込まれてしまいます。
 この時の気味の悪いシーンは本作を象徴する場面であり、「コンジアムの黒目女」として絶大なインパクトを残すことになります。

 この場面が「変質の恐怖」に当たります。今まで安全地帯であった友達や同じ立場の人間が、偉業の存在へと姿を変えるということは、我々が経験する恐怖の中でもかなり異質なものであると言えるかもしれません。

 この「身近なものが変質する」という恐怖感は、ホラー映画においては比較的メジャーなものではあるのですが、本作ではインカム撮影によって表情を見せるという特性上、極端に変質したキャラクターを長時間見せるという思い切った手法によって、実際の映画ではより異常性を掻き立てられる映像になっています。

 このときの変質の恐怖は、本作の最も強烈なインパクトを残すに至っています。この時のインパクトを十二分に引き立てているのがインカムを利用した新しい表現の賜物かもしれません。

第四章:ラストシーンが意味するもの

1.ラストシーンはなんだったのか?

 本作における最大の謎はラストシーンで明らかになった「真っ暗な画面の中でヤラセを疑うコメントと五百程度しかないレビューが残された配信サイト」です。

 本作では「ライブ配信」がメインの舞台装置になっており、コンジアムで起こる様々な出来事が「中継」によってライブ配信されている事になっています。物語の中でところどころで、現在のライブ視聴者数を演者が語り、「100万人の視聴者を目指す」という触れ込みでコンジアムでの配信を行っていました。

 しかしラストシーンでは「中継そのものが行われていなかったのではないか」ということを示唆するところが描かれています。
 コンジアムという作品は、基本的にストーリーを語らない、恐怖を表現することに力を入れた作品であるため、物語の考察の余地がかなり少ない作品性をしています。
 その中でも数少ない考察要素がこのラストシーンになります。

 率直にこのシーンはどのような意味なのでしょうか。彼らが中継したものは一体なんだったのでしょうか。

 まずこの物語において最も信用できるのは、ラストシーンに映し出された「中継そのものが行われなかった」ということです。本編にて「コンジアムで行われた撮影」が仮に中継されていたのであれば、ラストシーンは中盤にて行われたヤラセの降霊術をコメントで触れていても良いでしょう。
 ラストシーンが本作において唯一のコンジアムに関わらない場所によって発信された情報であれば、このコメントが最も信用できるものです。
 そのため、中継自体が行われていなかったと結論づけたわけです。

 一方で本編で何度も行われていた「中継の状況説明」ですが、こちらはすべてコンジアムの敷地内によって行われており、物語中盤から続々と怪奇現象が襲うようになっていきます。その中には当然、電子機器にも影響が生じながら、それでもなお中継は続きます。
 このときの中継は、まるでクルーを中継へと導くように異常な視聴数の伸びを記録していきます。それは事実を疑うほどの件数で伸びていき、クルーらはそれにのめり込むように危険を顧みることもなく中継を続けて、最終的にすべての人間がコンジアムに引きずり込まれてしまいます。

 これは明らかに、コンジアム自身の意図によって「中継を続けるように仕向けている」ように思えます。結果としてコンジアムにクルーは居続ける選択をしました。
 「中継」を通じて、クルーが意図的に留まるように仕向け続けた結果、あのラストシーンに繋がったということになります。

2.被害者たちの「欲望」の刺激

 バックボーンの解説が極めて少ない本作ではあるのですが、本作はこの「欲望」が一つのテーマ性として語られているのかもしれません。この部分についての掘り下げは次章にてさせていただきますが、本作ではほとんどのキャラクターが「欲望」を強く持っていたことを暗示させるよう描写されています。

 本作のメインの登場人物は皆、各々の欲望を持っています。クルーのリーダーは自身が運営するチャンネルに対しての野望というわかりやすい目的を持っており、その下についているクルーらは金銭を要求し異常な中継を続けようとしていました。女性クルーらは、各々有名なチャンネルの中継に参加できるということで、同じように「欲望」にいざなわれる形であの舞台にいました。

 物語において、キャラクターの描写が徹底的に省かれているためわかりにくいのですが、彼らの共通点は「欲望を持ってコンジアムに来た」ということであり、更に「その欲望でコンジアムにとどまり続けるきっかけになった」ということです。

 この「欲望を刺激する」という部分はホラー映画においてはやや珍しい手法になるかも知れません。欲に溺れた人間が後味の悪さに繋がって来る事はあるかも知れませんが、人を恐怖させることを目的とした作品において、このような社会風刺的要素はむしろマイナスに働いてしまうことがあります。

 ホラー映画は、実際の現実を意識させる意図として「現実に起こりうる恐怖」をメインとして描写し、現実を意識させる意味があります。
 そんな中で、本作に取り入れられているような欲望に溺れた人間の悲劇というような描写は、中途半端に現実感が生じる上、本作のようなオカルティックな作品では微妙に噛み合わせが悪い印象があります。

 本作ではその社会風刺的な要素を舞台装置に組み込んでいます。あえて「動画配信サービスの中継」に動機づけを持っていったところはなんとも現代的であり、現実では「YouTuber」という職業が時代を牽引するほどの活躍を見せているところからも、それに対しての憧憬や渇望を嘲笑するような舞台装置が作り出されています。

 本作がどのような背景を持って作成されたのかはわかりませんが、この現代の若者に対しての一種の「痛々しさ」を全面に押し出したことで、キャラクター描写を省くという大胆な選択を上手く噛み合わせています。
 現代的な若者というイメージを一色に受け手へ想像させることで、マイナスなイメージをキャラクターに結びつける形になったといえるかもしれません。

 あえてキャラクターの欲望を描写したのは、本作のバックボーンをあやふやにすることで恐怖演出に時間を割くための、一つの采配であると言えるのかも知れません。結果としてそれは、キャラクター描写の欠如という、物語としては厄介な部分をカバーしていると言えるでしょう。

第五章:限りないリアルが描写される世界

1.異様にリアルな世界を作り出した作品

 本作が「昆池岩(コンジアム)精神病院」という実在する場所がテーマになった作品なのですが、本作はあたかも現実で行われているかのような感覚というものを意識して作られています。

 この記事では度々「現実混合」というような言葉として出しているのですが、これが第4の壁を越えているということです。いわば、「この映画は現実の何処かで実際に起きているんですよ」ということを受け手に宣言しているようなものです。
 もちろん実際にはそういうわけではなく、本作はあくまでも創作の一つであり、非現実の社会を舞台としています。

 しかしながら、この作品は「実際の世界」を極めて的確に描写していると言えます。
 いわばモキュメンタリー的な手法を採用しているといえ、実際に動画配信サービスに流れてきそうな怪異として映画を作成したのは新しいフォーマットの開拓をしたということもあるのかも知れません。

 それ以上に本作は、現実の世界を舞台として展開されるというフォーマットの開拓以上に、「現実をどの程度まで創作に盛り込むべきか」という幅広い創作の観点からの議論への問いかけとなりました。

 従来までの「第4の壁を越える意味」に比べると、今作は「この世界の何処かで不思議なことが起こっているかも知れない」という非常に簡素な問いかけになったかも知れません。
 それは今までの作品の中でもより都市伝説的で、ホラー映画という映像作品の中ではかなりインターネット的に踏み込んだ作品でもあるかもしれません。

 本来創作というものは、「非現実な出来事をリアルに作り出す」というものです。それに対してあえて圧倒的なリアルを作り出すということは、下手をすれば興ざめ感を作り出す危険な橋でもあります。
 それを本作では真っ向から挑み、それでいて成功を収めたアイデアの勝利であると言えるかも知れません。

2.痛烈な現代風刺と恐怖

 本作はホラー映画として圧倒的な完成度を保ちながらも、それぞれの強烈な欲望が作り出す後味の悪い展開も相まって、恐怖と同時に「共感性羞恥」のようなものを感じる人もいるかも知れません。

 この作品においての「恐怖感」は前述の通り、技巧に富んだ面白い作品性から繰り出される不快感があります。
 それは恐らく見ているであろう「現代人」にもろに刺さるであろう社会風刺的な作品は、不快感に対して「人間が上手く理由づけすることができない」という構造上、社会風刺と恐怖の親和性の高さを上手く突いた作品性をしているのかも知れません。

 本作は「欲望まみれの配信者が心霊スポットにおいて悲惨な目に遭う」というプロットという都合、真正面からホラー演出を描いています。
 POV形式に加えて、インカムによる表情を見せる演出など、とにかく臨場感に振り切れた表現が多く見られます。本作の後半では、動的なシーンもかなり取り入れられており、視点が大きく動かされる場面も多々あります。
 異界に飲み込まれていくシーンや、化け物に追い詰められるシーン、ポルターガイストに襲われるシーン、それらすべてが恐怖演出して成立しています。

 本作の恐怖シーンはPOV形式ということもあり、かなりの臨場感が存在します。そのため肉体的な興奮を促すにはもってこいの作品であるとも言えます。
 更に本作では主観視点により没入感も相まって、映像作品というよりもゲームなどの体感作品に近いものがあるかもしれません。

 体感演出はより「キャラクター」に対して受け手が感情を向けるものです。
 従来までのホラー映画であれば、そこを恐怖で満たした上でエンターテイメントとして昇華させているわけですが、そこにあえて「社会風刺」という、ともすればエンターテイメントとは乖離する性質をもたせたのが面白いところがあります。

 キャラクターに対して共感性を高くもたせるということは、それだけ喪失感も生じることになるために、ホラー映画という部分には後味の悪さを残すディティールとして使用されることがあります。
 しかしキャラクターそのものに不快感を抱かせるという手法もある中で、それを「現代社会の良くない部分を付与する」というものは思い切った手法かもしれません。

 ある意味では、本作の作り手は「恐怖」と「社会風刺」というものを近い感情として認識しているのかも知れません。
 これは本作が拓いた新しい恐怖の要素だったのかも知れません。

3.社会そのものの悪意

 本作では「社会風刺的な側面がある」ということは前述の通りなのですが、元を辿っていくと本作は「目立つことがそのまま収益につながる」という、人の悪意によって伝播しやすい危険な世界であるということも表現しているのかも知れません。

 本作の舞台となるコンジアムは、存在そのものは多くの人間に知れ渡るほど有名であり、足を踏み入れることがなければ、そこに取り込まれることもないと考えられます。
 そんな中で、映画のような悲劇が生じたのは、率直に「コンジアムに入って皆の目を引くような中継を行って一山当てたい」という欲望からスタートしました。

 本作では「金銭」という部分がクローズアップされていることが多くあるのですが、本質を辿ると「目立つ映像を撮影したい」ということが動機の根底にあるのかも知れません。
 現在の情報化社会では、「ネットでバズる」というようにとにかく目立つことで、「いいね」や「リポスト」などというようにどの程度社会的に好意的な意見であるかを示された定量的な指標が存在していることになります。

 人間の社会性と呼ぶには、現代社会はあまりにも広く、どんな人間に対しても関わりを持つことができるという幅広さがあります。それは素晴らしいことかも知れませんが、もちろんそれには負の側面も存在しています。誹謗中傷や過剰な世論の力動など、本作ではそんな二律背反な現代社会の負の側面こそが物事の発端であり、コンジアムはあくまでも天災的な扱いをされているように筆者は感じています。

 この物語において「コンジアム」というものは超常的な現象が存在していることについては、描写から見ても明らかなのですが、本作では舞台である「コンジアムについてほとんどバックボーンが語られない」という部分がより天災的な役割を醸し出しています。

 これにはこの記事でも何度も語らせてもらっている通り、「実在のコンジアムに対しての不安感や現実性を促すため」であるという意見が筆者の主な考え方なのですが、本作が一定の社会風刺であることを考えると、天災としてのコンジアムという描かれ方でもあるのかも知れないと感じています。

 社会に潜む「匿名性の邪悪さ」ということは昨今の作品の中でも度々語られているのですが、本作は従来までの作品と比べるとその表現方法が明らかにバラエティに富んでおり、興味深い表現であると言えます。

 それらを含めて本作をもう一度見てみるのも良いのではないでしょうか?

・終わりに

 今回は映画作品「コンジアム」についての感想文を書かせていただきました。
 本作は昨今公開されたホラー映画の中でもかなりインパクトの強い作品として人気があり、多くの配信サービスでも視聴する事ができます。

 このような考察はさせていただいておりますが、全体を通して一定の恐怖感や、みやすさを踏まえた素晴らしい作品であると筆者は感じています。

 この記事を見て「コンジアムに興味が出た、見てみたい」という人が少しでも増えることを心より願っています。
 それでは本作の記事はここまでになります。ここまで御覧いただきありがとうございました。

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