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今からだって僕は言うかな

こんばんは、Kodaiです。

早いもので、昨日から5月に入ってしまいました。
大学卒業をして、刺激的な東京での日々。
あっという間の一ヶ月でした。
僕は来週、また一つ歳を取ります。


「何者かになりたい」

これは、高校生ぐらいの頃から、漠然と胸に抱えていた思いです。
山田邦明さんの以下の文章に触れ、感じることがいくつかあったので、少し文字にしています。(数少ない好きなnoteのひとつなので、お時間ある時にぜひ👍)


自分は何者なのか。

何がしたいのか。どんなふうに生きたいのか。

それらの問いが重荷のように、常に自分の中にあります。

時として、僕らを規定してくれるものを、
”学歴”や”社歴”、”年収”や”周囲の人々のレベル”、
または、”見た目”、”フォロワー”、”自分を慕ってくれる人の数”、
そんなものに縋ることがあると思います。

けど、どこか満たされない気持ちになる。

目標を高く掲げ、以前は腹の底から欲しがっていた”社会的権威”のようなものも、一度手にしてしまえば、満足感は継続できない。

むしろ、自分よりもさらに「何者か」になっている人々の存在を知れてしまうことで、さらに満たされない気持ちになってしまうのです。

僕の好きなドイツの哲学者、エーリッヒ・フロムは、人間が持つ、この病理を危険なものであると忠告しています。以下は、岸見一郎による解説です。

人間は資本主義社会の中で、「消費人」、「組織人」として目に見えるものであれ見えないものであれ、あらゆる種類の権威に従い、それどころか自らがそのような権威に従っていること自体にすら気づいていない。本当の「自分」を持たず、「ひと」の顔色を窺い「ひと」の意見に従い、「自分」の人生を生きられなくなってしまっている。戦争による人類滅亡の危機もいよいよその度を増している。

岸見一郎(2022)『エーリッヒ・フロム─孤独を恐れずに自由に生きる』講談社現代新書(p.7)


普通でいたくない。

けど、普通から逸脱しすぎてしまえば、「何者か」にはなれない。

「何者かになりたい」と思い立っていたあの時は、自分というものを見つけたくて、周囲に見てもらいたくて、一生懸命であったはずなのに。

ふと、自分を見失うことが多々ある。

そして、また一年歳をとっていく。

同級生の多くは社会人として働き始め、先月、幼馴染は婚約をしたそうだ。

自分はまだ何者にもなれていないのに。


こんなことを悶々と考えていると、マトリックスの例の問いがよく頭によぎる。
もちろん、モーフィアスによる究極の選択を迫るものだ。

ありふれた、現状の世界(青い薬)を選ぶのか、
そもそも非日常的であり、人によってはみつけることさえできない挑戦の世界(赤い薬)を選ぶのか。

(マトリックスは神作品なので、まだちゃんと見ていない人はぜひ4作品全て見てください。現在、新作も撮影中らしいです!楽しみ!)

きっと、僕の人生はこんなものだろうと、
青い薬を選んで、「何者かになりたい」欲求に蓋をするのは楽であろう。

それはもちろん悪いことではないし、それが社会的権威の呪縛を解いた、自分の人生を生きる、ということなのかもしれない。

けど、そうしたくない自分がちゃんとここにいる。

だって、まだ22歳だよ?


焦りや不安、そして最近は、責任なんてものも、ひしひしと感じてしまう。
23歳になる手前、しかし僕はまだ「青い薬」を選ぼうと思える。


最近、2年先に社会人として、既に働いていた地元の友人が体調を崩して、会社を退職した。彼女は、専門学校で国家資格を取得していたが、もう同じ職種に就くつもりはないらしい。


彼女の人生は、ここで終わりなのだろうか?

いやいや、まだ22歳だよ?

そんな友人を見た時、今からだって僕は言うかな。


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