今からだって僕は言うかな
こんばんは、Kodaiです。
早いもので、昨日から5月に入ってしまいました。
大学卒業をして、刺激的な東京での日々。
あっという間の一ヶ月でした。
僕は来週、また一つ歳を取ります。
「何者かになりたい」
これは、高校生ぐらいの頃から、漠然と胸に抱えていた思いです。
山田邦明さんの以下の文章に触れ、感じることがいくつかあったので、少し文字にしています。(数少ない好きなnoteのひとつなので、お時間ある時にぜひ👍)
自分は何者なのか。
何がしたいのか。どんなふうに生きたいのか。
それらの問いが重荷のように、常に自分の中にあります。
時として、僕らを規定してくれるものを、
”学歴”や”社歴”、”年収”や”周囲の人々のレベル”、
または、”見た目”、”フォロワー”、”自分を慕ってくれる人の数”、
そんなものに縋ることがあると思います。
けど、どこか満たされない気持ちになる。
目標を高く掲げ、以前は腹の底から欲しがっていた”社会的権威”のようなものも、一度手にしてしまえば、満足感は継続できない。
むしろ、自分よりもさらに「何者か」になっている人々の存在を知れてしまうことで、さらに満たされない気持ちになってしまうのです。
僕の好きなドイツの哲学者、エーリッヒ・フロムは、人間が持つ、この病理を危険なものであると忠告しています。以下は、岸見一郎による解説です。
普通でいたくない。
けど、普通から逸脱しすぎてしまえば、「何者か」にはなれない。
「何者かになりたい」と思い立っていたあの時は、自分というものを見つけたくて、周囲に見てもらいたくて、一生懸命であったはずなのに。
ふと、自分を見失うことが多々ある。
そして、また一年歳をとっていく。
同級生の多くは社会人として働き始め、先月、幼馴染は婚約をしたそうだ。
自分はまだ何者にもなれていないのに。
こんなことを悶々と考えていると、マトリックスの例の問いがよく頭によぎる。
もちろん、モーフィアスによる究極の選択を迫るものだ。
ありふれた、現状の世界(青い薬)を選ぶのか、
そもそも非日常的であり、人によってはみつけることさえできない挑戦の世界(赤い薬)を選ぶのか。
(マトリックスは神作品なので、まだちゃんと見ていない人はぜひ4作品全て見てください。現在、新作も撮影中らしいです!楽しみ!)
きっと、僕の人生はこんなものだろうと、
青い薬を選んで、「何者かになりたい」欲求に蓋をするのは楽であろう。
それはもちろん悪いことではないし、それが社会的権威の呪縛を解いた、自分の人生を生きる、ということなのかもしれない。
けど、そうしたくない自分がちゃんとここにいる。
だって、まだ22歳だよ?
焦りや不安、そして最近は、責任なんてものも、ひしひしと感じてしまう。
23歳になる手前、しかし僕はまだ「青い薬」を選ぼうと思える。
最近、2年先に社会人として、既に働いていた地元の友人が体調を崩して、会社を退職した。彼女は、専門学校で国家資格を取得していたが、もう同じ職種に就くつもりはないらしい。
彼女の人生は、ここで終わりなのだろうか?
いやいや、まだ22歳だよ?
そんな友人を見た時、今からだって僕は言うかな。
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