2.人生と文体について 飼育 爪と目 カーヴァー村上春樹訳より

 村上春樹と「私」の大学での関わりを描いたノート記事を読んだ。非常に完成度が高く、同じ大学生として誇りに思う。僕も影響を受けたので、忙しい中だけれどまた記事を書こうと思う。
 僕の読書がどのようなルールに則って行われているかというと、1週間に一つの芥川賞受賞作品の読書、大学の作家先生や編集先生に勧められた本の読書、自身の原稿に使うであろう読書、1週間に一度ある講読演習の読書、海外文学などの名著を読む。を挙げた順の優先順位で日々の隙間を縫って実行している。僕は今図書館で借りた大江健三郎の初期短編集と、蔭の棲みか、佐伯一麦の川端康成論の3つを締切前に読まねばならない。
 脱線したが、小説とは極論を言えば語りである。つまりあなたがどのような語り方をして、何を語って語らないのかが文体という事になる。勿論、それは小手先の技術の前に、あなたという人格と感性に大きく影響される。僕の大学に文体がない!文体を身につけよう!などとほざく人間がいたが、川端康成なんかは文体のない作家などと言われた訳だし、文体とはそもそも身につけるものではないのである。そういう人間は、他者とのコミュニケーションをもっと大切にした方がいい。他者と交流する機会がなければ、他人に語る機会などない。けれど、読書は文体の奥深さと可能性を教えてくれる。

 さてさて、ここで例を見ていきたい。

 僕らは≪採集≫を諦め、茂った夏草の深みへ木片を投げ捨て、肩を組み合って村の細道を上った。僕らは火葬場へ死者の骨の残り、胸にかざる記章に使える形のいい骨を探しに来たのだったが、村の子供たちがすっかりそれを採集しつくしていて、僕らには何ひとつ手に入らなかった。僕は二日前、その火葬場で焼かれた村の女の死者が炎の明るみのなかで、小さい丘のように腫れた裸の腹をあおむけ、哀しみにみちた表情で横たわっているのを、黒ぐろと立ちならぶ大人たちの腰の間から覗き見たことを思い出した。僕は恐かった。 

大江健三郎 「飼育」

 言わずと知れた名文な気がするが、これを僕ができるだけ普通に直してみる。もちろん僕の考える普通であるし、やってみるとこれが案外骨の折れる行為なので粗には目を瞑っていただきたい。

 僕らは採集を諦め、村の細道を上った。僕らは火葬場へ記章に使える骨を探しにきたのだったが、村の子どもたちによって既に全て採られていて残っていなかった。僕は二日前に村の女の死者が、哀しみを携えて横たわっているのを見たことを思い出した。僕は怖かった。
 なるたけ簡素に書いたつもりだが、アゴタクリストフのように簡素すぎるように書いたつもりもない。比べてみるとわかるのだが、これが文体の違いである。
 同じ着想の元で、何を書いて何を書かないのか。僕が習っている先生もよく言っている話だ。人生が選択の連続であるように、芸術は人生を模倣していて、その人生の根底には通念がある。これがそのまま文体になっているのだ。だから、文体をつけようではなく、文体を他者からの鑑賞に耐えれる強靭なものにしよう、が正しい答えだと僕は思う。大江健三郎の場合、修飾の長さであったり、連用中止法の頻発だったりがスタイルとして出てきている。
 何を書いて何を書かないのかという問題は、文法以外の場面でも文体を変える。

 はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。あなたは驚いて「はあ」と返した。父は心底すまなそうに、自分には妻子がいることを明かした。あなたはまた「はあ」と言った。そんなことはあなたにはどうでもいいことだった。ちょうど、睫毛から落ちたマスカラの粉が目に入り込み、コンタクトレンズに接触したところだった。あなたはぐっとまぶたに力を入れて目を見開いてから、うつむいて何度もまばたきをした。それでも痛みが取れないので、しかたなく右目のコンタクトレンズを外した。あなたは中学生のころからハードレンズを愛用していた。慣れた動作で照明にレンズを透かし、舌の先で一舐めして装着し直すあいだ、父は謝り続けていた。子どもがいるんだ、まだちいさい子どもなんだ、と父は繰り返した。

藤野可織「爪と目」

 何を書いて何を書かないかが文体に与える例として、お手本のような作品である。僕はこの作品を読みこんで自分の文体を修練させてきた。 視点、人称、関係値、目のマスカラの描写、主人公の観察だけを描き、極力主人公の感情などを描写しない。何を書いて何を書かないかを鮮やかに実現している作家だと思う。僕は内向的な作家であると自負しているが、「あなた」の観察を続ける文体が最後に自画像としての意味を持ち始める構成には鳥肌が立つ。文体は、作品のアイデンティティの核にすらなりうる。

 僕が講評などで聞いていて辟易するのが、語尾を変えろ!という指摘である。別に文末がだで終わろうがすで終わろうがなんだっていい。大事なことは、言語の持つ力が読者にどのようにアプローチするかそれ一点である。勿論、文体もそのアプローチに影響していく。ノートの中で村上春樹は無意識によってものを書くと言われていたが、これもある種の文体であろう。彼はおそらく言葉の持つ力というものに非常に自覚的であると僕は考えるし、彼の創作論の中でも言及されていたと思う。勿論、きっと翻訳前のカーヴァーもそうなのだろう。

 妻の指の感触は彼を緊張させた。それから彼は少し体の力を抜いた。体の力を抜くと楽になった。彼女の手はラルフの腰から腹の上へと動いた。そして今では彼の体に自分の体をぴたりと押しつけ、上にのしかかり、前後に往復させていた。俺はあのとき、ぎりぎりまで自分を抑えていたんだ、とあとになって彼は思った。それから彼はくるりと彼女の方を向いた。ぐっすりと眠り込んでいる人が寝返りを打つみたいに、彼はごろりと転がった。そしてなおも体を回転させつづけながら、彼は今、自分を捉えている信じられないような変化に対して脅威の目を見張るのだった。

レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 「頼むから静かにしてくれ」

 カーヴァー作品の持つ変容の力がよく表されている文体だと僕は思う。
 人生が芸術を模倣するのか、芸術が人生を模倣するのか。僕の考えは後者に傾きつつある。作家として、どのような人生を送るかは作品と密接に結びつく。先人達の歩みに感謝と尊敬の念を込めて、僕は自分の作品とまた向き合っていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?