特論81.大きな声からのヴォイストレーニング(7807字)
◯声の理想と現実
声の理想から考えてみましょう。
声の音色が、まろやかで、質があり太くて芯があり、かすれたりガラガラしていない、話している声にも、聞き取りにくいことがない、歌う声を聞くだけで心地よく、話す声には説得力があるなどが、求められている要素でしょう。
これには、呼吸と、呼吸を声に確実に変えるという2点が、基本として必要になるのです。その上で、発音や滑舌やイントネーション、メリハリというのは、応用の問題です。
しかし、日本では、こうした目先の問題にとらわれて、練習をしています。それで、その場しのぎの効果を実践の場であげながら、何とかつないでいきます。
結果として、それを長期間、続けると、基本的な問題は片付いていくであろうというようなトレーニングだったのです。
〇トレーニングの不在
確かに稀に自分で判断して修正できる人もいます。しかし、大部分の人は、ある程度、成り行き任せなので、素質や感覚での綱渡りで、残ることのできた人が伸びていく世界だったのです。
必要最低限、せりふが言えたり歌えるところまでしか基準をおかないので、そこで声に関する能力の開発は止まってしまうのです☆
うまくいく人には、早くうまくいく、そうでない人は、いつまでたってもうまくいかないのです。これでは、トレーニングなどとはいえないわけです。
竹内敏晴さんに会ったときに、「声楽というのは、うまく歌える人はどんどんうまくなるが、うまく声の出ない人は、余計にうまくいかなくなる」という話をされていました。
それは、始めるときのスタンスが、違うからです。すでに、それなりに歌えていて、音大に入れるというような自覚のある人は、スタートラインに立っています。
声が出にくいとか、歌うための声も充分に出ないという人は、スタートライン以前の問題です。健康で丈夫な普通の人と、ずっと入院をしていて、ようやく病床から出てきた人が、同じトレーニングで扱えるわけがありません。
◯喉声と生声との違い
喉声や生声というと、よくないイメージがあります。どちらも定義があるわけではありませんし、診断名や専門用語でもありませんから、イメージでの使われ方です。
喉声は、喉が痛いとか喉によくない、喉に力が入っていて詰まったような声、生声というのは、あまり共鳴をさせずに、そのまま出しているような素人の声です。
たとえは悪いですけれど、ビブラートを聞かせる演歌歌手に対して、ジャニーズの歌い手などに見られる声ともいえるかもしれません。田原俊彦さんや中居正広さんの歌う声を思い浮かべてみてください。
◯個性とくせの声
私から見ると、声にはその人の個性や癖が入っていて、それもよいと思うのです。ただし、機能的な面で、障害が起きやすい声であるのなら、お勧めできません。そういう声をくせとして区別、排除するのが、基本のトレーニングです。
つまり、そのまま大きくできないとか小さくできない、高くできない低くできない、長く話していると喉が疲れてくるような声のことです。
ひどいときは、喉が荒れて、声がかすれたり裏返ったり、風邪をひいたときのような声になる、など病的な状態です。
◯声がある程度、出る人のレッスン
役者や声優出身の人で、ある程度、メインのところで仕事をしていると、声量そのものの問題は問われない場合があります。
私は、歌い手ばかり見ているわけではないので、基本的には、声域よりも声量を先にという考えをしています。舞台で、マイクなどに頼らない場合、声量がなければ、声が届かない、届かなければ元も子もないからです。レッスンで、自分なりのイメージを形成していくことが大切です。さらに、そのくらいの声の器をもたないと、加齢とともに使えなくなりかねないからです。
◯歌い手の基準の入力
歌い手の場合、いろんな歌い手の歌唱を心身にたたき込んで、自分なりの音楽観をもち、声の使い方に関する自分なりの処理の仕方、これを自分の理想とする歌い手から学びとっておくことです。
噺家が、自分が惚れたり感動した噺のできる師匠を選ぶように、歌の場合も、誰をサンプルにするかというのは、とても大切です。
ただし、それには2つの条件があります。自分の実力を向上させるのですから、その日にすぐ真似られるような歌い手では、目標にならないわけです。
できるだけ、歌唱に優れたヴォーカリストを知るということになります。
ここまでは、プロになろうと思った人は、おのずとやっていることです。
次に、もっとも大切なことですが、それが自分の持っている資質に合っているのかどうかです。
楽器の場合は、それなりの金銭を出せば、性能が保障された楽器を入手できます。そして、一流の奏者と全く変わらないレベルのコピーができれば、プロの場に立てるでしょう。
これと全く違うのが、歌い手です。変わらないレベルのコピーであれば、存在意味はなくなります。オールディーズのコピーバンドやものまね芸人というジャンルもありますが、ここでは、それを除きます。
〇コピーでの上達
たまたまあこがれたヴォーカルが、自分の喉や資質に合っていたという場合には、結構、コピーで上達していきます。
この場合も、見本は、たった1人ではない方がよいです。1人では、どうしても、その影響を受けすぎてしまいます。その人に追いつくのがやっとで、それを超えるということには、なかなか難しいものです。
プロの歌手が教えている生徒さんをみると、似た歌い方になっていきます。先生がうまいほど、早く教えるのがうまい先生ほど、人は育ちません。
その先生のファンということが大きいのですが、先生と同じような歌い方になることで、まわりもうまいと認めてしまうからです。
〇インプットとオリジナリティ
結果として、その人の最も大切な個性やオリジナリティが全く開発されないまま終わってしまう場合が多いのです。日本のお客も、オリジナリティなどを求めないので、なおさらわからないまま、終わってしまいます。とても、もったいないことです。歌はうまいのに魅力がない、そこから抜け出せないのです。
ミュージシャン、プレイヤーは、おのずと、いろんな一流の人の演奏が異なることを知ることによって、自分の異なるところも発現していきます。そのまえに、その人という人間、個性を超えたところの共通すべき、一流の音楽というのも入れておくことが、大切なのです。
しかし、これを歌で行うことは、とても難しいのです。
しかし、自分のオリジナリティで活躍し続けている歌手は、この条件を備えているのです。
◯喉を酷使しない
若くてトレーニングだけをして、喉をつぶしていったというタイプの人は、ここが欠けています。出したいという声があっても、一体どのように声が養われるのかということがわかってきて、方向が定まっていきます。そこにトレーニングがあるのです。
それがわからないうちは、何でもできるようにできるだけ心身を鍛えておくという考え方もなくはありません。ただし、スポーツなどの筋トレと違って、喉の筋肉はそこまで強くないために、気をつけないとつぶしてしまいます。つぶしながら鍛えていくというような方向は、現在においては、お勧めできません。ただし、100%否定できるものでもないのです。
〇役者の歌
役者の場合、その辺が曖昧なので、歌うときも、自分の雰囲気や個性を最大限活かす方向で対処します。演出に長けているからです。
彼らの歌は、言葉の表現力、感情移入が大きいのです。簡単にいうと1人舞台のように歌ってしまうわけです。すると、カラオケのワンマンショーみたいになります。でも、オーラや雰囲気、存在感があるので、通じます。何かを読んでさえ伝えられる、その力に負っているわけです。
ですから、その人のファンはよいのですが、必ずしも音楽としての完成度があるわけではありません。音楽的になっていないのです。
つまり、その音源をドライブなどで流しっぱなしにして開きたいとは思わない、そういうタイプの歌です。それがダメというわけではないので難しいところですが、ここでは、歌を音楽的に捉え、より向上を目指すということで続けていきます。
役者の一人舞台でなく、歌の場合は、音楽とのセッションです。役者も大半の舞台は、共演相手と呼吸を合わせながら、行っていく仕事なのですが、その相手がプレイヤーとなっているかどうかということです。
〇バンドの添え物としてのヴォーカル
現場では、こういうときも多々あります。バンドの人たちは、皆プロなので、ヴォーカルがいなければとても心地のよい演奏になるケースです。ヴォーカルが、MC役として、あるいは、ビジュアルとして、使われているケースです。言葉で説明するが、音楽の邪魔までしないように、流れる音に合わせて歌うだけというパターンです。
日本では、このほうが多いくらいです。ジャズなどの美人ヴォーカルがブームだった時期がありますが、その典型例でしょう。
役者でなくても、日本の歌手のほとんどは、バンドのプレイヤーほどに音楽を理解していないので、音楽の邪魔をしていることも多いのです。
ただ、本人は気づかないし、バンドも本格的なヴォーカリストとセッションする経験がないと、ヴォーカリストがプレイヤーの一員だというような感覚で演奏することになりません。いわゆるオケになってしまうのです。
◯ヴォーカルの条件
ここは海外との大きな大きな違いだと思います。向こうでは、バンドのメンバーも歌えるので、歌うのに特別に優れた人がヴォーカルということになります。楽器ができないからヴォーカルなどという決め方になりません。
メンバーが誰も歌えないから、歌える人にヴォーカルをお願いするという感じの日本では、ハンドのメンバーとして、ヴォーカルがセッションしている感覚に乏しいのです。
ホテルなどで、ピアニストが、個性を消し、オリジナルの表現も入れずに、自動伴奏ピアノのBGMのようにスタンダード曲を耳障りにならないように弾くことが求められる日本では、こんなことを期待する方が難しいのかもしれません。
〇出口から考える
トレーニングにおいては、出口はどこかというのを定めなくては収拾がつかないのです。声を出したいとか歌がうまくなりたいとかいう人でも、この出口が定まっているケースなどは、なかなかいません。もちろん、2年、3年、5年続けていくうちに、それが絞られてくればよいと思っています。
なぜなら、それには、自分の声や感覚を知り尽くしていかなければいけないからです。自分の音楽感や世界観がつかめて、それを表現に結びつける、そこに声を介在させるというところにならなければ無理だからです。
それには、声域だけでなく、声量、音色、リズム、音感、あらゆる要素の限界から、可能性、オリジナリティを常に追い続けなくてはならないのです。
どちらにしろ、特別な事情がない限り、まず、声量をつけていくことが、基本です。
ですから、50人に1人くらいですが、声量に関して、あまり問題がないという人は、いろんな音楽のシミュレーションとして課題をこなしまくることです。声に頼ってはなりません。
◯ステージのシミュレーション
声優や役者のように、歌唱経験の少ない人、あるいはカラオケなどでしか歌ってない人の場合は、ステージの経験をつむことでしょう。お客さんを入れなくてもシミュレーションでもよいのです。そこが本番で、そのまま放映されるくらいの意識が保てる場として臨むなら充分でしょう。
声の仕事をしている人であれば、そこで、いろんなことに気づくはずです。呼吸や発声のトレーニングはとても大切ですが、それができたところで表現が出てくるわけではありません。あくまで、ツール、道具作り、楽器作りです。
◯声の使い道
私のところのトレーナーは、ほぼ8割が、オペラ歌手、声楽家です。ゆうに10年以上かかって、自分の声をきちんとつくってきています。
ですから、トレーニングをする人たちには、10年経って、そうした声が手に入ったところで、どうするのか、を問うていくようにしています。
それよりも、そういう声が必要なのか、音大を出て大学院や留学先で学んでいる人は、毎年何千人もいるわけです。それと同等のことができたところで、仕事になるとかプロになれるとは限らないのです。そのような仕事でしたら、うちのトレーナーが行えばよいのです。
ヴォイストレーニングで、あなたの理想の声とは何か、それが手に入ったところで、どのように使うのかということです。
◯ハイレベルからみる
声というのはとても漠然としています。
ですから、褒めようと思えば、ヴォイストレーニングを全くしてない人でも、あるいは、話すことも歌うことも全然、得意でないと思っている人でも、その人の声によいところはいくらでも見つけられます。
だからこそ、レベルを高めておき、そことのギャップから不足しているところを補えるようにアドバイスしていかなければ、何ともならないのです。
◯声の必要性
だれでも、声をよくしたいと思っているものです。何かしら自分の声に問題があるとか不安を抱えている人も多いはずです。ですから、声の話というのは、多くの人に関心がもたれます。
では、声のトレーニングをするのかというと、そこまでは考えないのです。声が変えられないと思っている人も多いようです。その必要性を本当には感じていないからです。
よほど、声のことで痛い目に合わなければ、習いに行こうとは思わないのでしょう。
ですから、レッスンに来るのは、とても困っている人と、声を武器にすれば自分の価値がもっと高まるという向上心を持っている人に限られるわけです。
◯ヴォイストレーナーの資格
ヴォイストレーニングが普及して、声で困っている人の問題は、いろんなトレーナーが解決しているものと思います。ヴォイストレーナーには免許も試験もありませんから、カウンセラーでもコーチの人でも、コミュニケーションについてよく知っている人であれば、いろんなアドバイスができます。必ずしも、歌手とかアナウンサーとか、声で仕事をした人が適任とは限りません。
しかし、プロや芸人と仕事をしていくのであれば、なかなか難しいのです。トレーナーの価値観や方法というのが、10人10色なので、自分に適任と思う人を見つけるのにも大変でしょう。
私は誰よりも多くのトレーナーと仕事をしてきました。ですから、誰に対しても自分が最もよいトレーナーだとは思いません。世の中には、必ず、その人にとって自分よりも適切な人がいるということも常に考えています。
ずっと他のトレーナーと研究所という組織として行っているのは、そのためです。長年、運営してきて、さらにそう思うようになりました。
そのことによって、自分ができないことも苦手なことも、より適切なトレーナーや専門家に任せる方がよいことが何なのかもわかっています。逆にいうと、自分の役割や自分しかできないことも明確になるのです。
◯トレーナーの偏向
この研究所は、窓口や入り口として、「自分にふさわしいトレーナーを見つけてください」というスタンスで運営しています。それは研究所のなかだけに限っているわけではありません。
トレーニングを受ける人にとっては、それこそが大切なことだと思うのです。
「何でもできますよ」というトレーナーではなく、このことに関しては、自分ができるが、他のことに関しては、この人がふさわしいと、そうしたことが見極められるトレーナーです。しかし、そういう人は、経験しにくいものなので、私以外に、あまりいないと思うのです。
なぜなら、曖昧な声ということを扱い続けていくと、どのトレーナーも自分についている人だけを見て、その成功体験から、どんどん自信を持っていくからです。
これは、私が研究所の中のトレーナーを見ていても、よく起きていました。2年、3年と慣れてくるうちに、そのトレーナーに合った人だけが残っていくので、どんどんと自己流に偏向していくのです。
◯研究所での対策
ここの場合は、そのトレーナーだけでなく、必ず他のトレーナーにもつけるので、自分と違うやり方やその生徒が自分よりも違うトレーナーを好んだりすることを突き付けられます。そうした刺激から、慢心できない状況、環境を保つのが、この研究所の体制です。
もちろん、生徒がトレーナーを変更したいというのであれば、それは本人の人生ですから尊重します。どうしてこのような制度にしているのか、本人にとって、つけているトレーナーにどういう意味があるのかを理解していただければありがたいと思い、進めてきたのです。
〇歌唱の世界観
楽器プレイヤーの音楽観よりも、歌い手の歌唱の世界観というのは、複雑です。論理的に説明するという形では出せず、感想のようになってしまいがちです。それをなんとか、ことばを駆使して誰よりも説明してきたつもりです。
もちろん私の感性や判断が絶対ということでなく、何かしら体系だったものを1本、通して、比較することによって、上位の価値観も組み立てやすくなるのです。そうであればよいということです。
どの歌でも、プロレベルなら、それだけを聞くと、うまいと思います。しかし、その歌をもっとすごいレベルで歌っている歌を聞くと、初めていろんなことが見えてくるのです。そこに至るのに、すぐにわかるわけではなく、耳のできる時間、違って聞こえるようになる期間がいるのです。
◯差別化できる声
ボケ防止や健康のために、ヴォイストレーニングを行う人も増えてきたので、表現という所で出口を1つに定められなくはなってきました。しかし、どんな人でも、 「アー」と声を出すだけでよいわけではないのです。
それだけでも差別化できる声でありたいと思っていますが、声というのは、人に対して使うものですので、そうしたきっかけを大きく実践に使えるように広げていくようにお勧めしています。
◯大きな声、きれいな声で歌う
大きな声の出る人の場合に、その発声そのものをきちんと整えていく方向が1つです。芯のある声で通るようにする。大きな声の出る人は、それで認められてしまうので、声に頼りがちです。大きく声を出せば、感情が伝わるように思ってしまうのです。
そのために、長期的に見ると、声の出ないことで苦労して、声の使い方そのものに磨きをかけてきた人に、負けてしまう場合があります。
〇統一音声
今は、生で声を聞かせるような舞台は少なく、マイクがあり音響の演出効果がフォローしてくれます。映像系の仕事などになると、大きな声でも緻密にコントロールされてないものは、ただのノイズになってしまうからです。レコーディングも同様です。
素人のなかでは、大きな声で押し切れてしまいますが、それは、感動させ、アンコールを求められるような歌にはなりません。
その辺を、きちんと、発声と共鳴のコントロールから、統一させていきます。統一音声という考え方です。
合唱団や日本のミュージカルの人のように、きれいに共鳴させた声で歌をきちんと音楽的に歌い上げてみましょう。できますか。難しいとなると、それも1つの、技術であり、習得目標となります。
この場合、イタリア歌曲やカンツォーネなどの大曲、あるいは、コンコーネ50など発声教本を使って、音楽の持つリズム感や音感なども同時に磨いていくとよいでしょう。