52年続いた串かつ屋をやめるにあたって
6年ほど前に51年続いた串かつ屋を閉店した。
57年前、私が生まれた年に両親が京都に開業した店だ。
2004年に父が他界して以来この店を、弟と2人でやってきた。アルバイトは常に5人から8人くらい居た。
私と弟が幼少の頃、昭和40年代は父と母が主体で小さなカウンターだけの店だったのだが、当時京都に串かつ屋はほぼなかった。もちろん飲食店も今ほどない。高度成長期で午後1時に開店するとすぐお客さんが入って、夕方には満席、そんな日が続き、小さかった串かつ屋はみるみる繁盛店になった。はじめはカウンターだけだったのがテーブル席も増やしたいとテーブル席が二つ、その後はカウンター席も増やし、さらに店内も広く改装。社員も数名住み込みで雇うことに。田舎がいやで出て来たどら息子や、ちょっとやんちゃな青年、訳アリそうな中年男性も居たが、昔悪かったという父とみんなうまくやっていたように思う。
店が繁盛するに従って、私たち家族の暮らしもどんどん裕福になっていった。父は何度も外車を乗り換えていた。
今よくある居酒屋みたいにメニューが豊富なわけでもない。飲み物以外、串かつの種類が20種類くらいあるだけだったが、店はいつもお客さんでいっぱいだった。串かつとカウンターに置かれたステンレスのボウルに入った無料のキャベツだけ。それだけよくあれだけお客さんが来てくれたなぁ、と今は不思議に思う。それだけ世の中景気が良かったのだろう。私は私立の大学まで卒業させてもらえたし、友達と比べてもかなり贅沢な子供時代を過ごさせてもらった。「買って」と言ったものはたいてい買ってもらえたし、だだをこねておねだりした記憶もない。
しかし好景気も一生続くわけはない。立地と味で客足が途絶えることなく、特に父が経営に悩むような状態はなかったように思うが昭和61年頃から以前ほど売上げが伸びなくなってきて昭和64年、高校を卒業して店を継ぐ弟の為にも木造だった店を新規一転、3階建てのビルにしようということになった。
それにともなって店も全面改装、以前住み込みの社員が使っていた部屋や倉庫を取り壊してお座敷も作り、50人くらい収容出来る広い店を作ることになった。
メニューも串かつに加えて焼き鳥も増やすことになった。おにぎりやおしんこも。(なんとこの時までうちの店はご飯ものすらおいていなかったのだ)。
2階と3階はテナントに、1階で串かつ屋をやるということになった。すべてを壊して1からスタートするに近いのだから、父にしてみれば大きな決断だったと思う。
この年、私は大学を卒業して他の企業に新入社員として入社して研修やら遊びやらで忙しかったので、ビル建設時の詳しいことは知らないがオープンに際してはどれだけお客さんが来るか分からない、人手が足りないということで、父、母、弟、社員1人。バイト数名に加え、東京の叔母わざわざ数週間手伝いに来てくれた。さぞかし大変だったと思う。
大金をつぎ込んでのビル建設。店も相当広くしたので不安もあったかと思うが、ラッキーなことに平成元年、店をオープンした後にバブルによる好景気がやってきた。当然店のスタッフの人数も足りず、弟の友達にもバイトに来てもらったらしい。バブルがはじけるまでの数年で店には結構貯金が出来た。
バブル崩壊から10年ほどの間に両親の離婚、私の結婚、離婚、と家族の中にはいろいろあった。しかし会社は自社ビルで家族経営だということもあって、バブルがはじけても世間ほどのダメージはなく、そこまで危機感もないまま店は続いていた。売上が落ちてるからといって人件費を減らそうとか、そういう話はなかった。
私はといえば32歳のとき調停離婚が成立し、街中に1人暮らしをしながら店でアルバイトしていた。弟が店を継いでくれるので自分はのほほんと習い事をしたりして気楽にやっていた。ビルの2階が空いたので、もともと調理師の免許を持っていたこともあり2階でイタリア料理店をやりたいなと思ってイタリアに1年ほど留学もした。
いつか再婚して店を出て行くと思っていたのか、私に対しては父も弟も寛容だった。昭和3年生まれの仕事に対しては厳しい父だったので、弟はほとんど店を休めなかったらしい。熱があっても
「とりあえずは店に出て来い、どうしてもしんどかったら途中で帰れ」
と言われてた、と聞いている。
なにか古臭い考えのようだが、自営で商売をしてる人は代わりがいないから、いまだにどこもこんな感じだと思う。
しかしながら私には甘かったので、私は働きやすかった。
私がイタリアから帰って来ると、ビルの2階にはテナントが入っていた。京都市内に当時2店舗あった大衆的なイタリア食堂みたいな店だった。私もまだまだ勉強不足だったので、「まぁもう少し色々食べ歩いたり、料理を勉強してチャンスがあったらイタリア料理店か、創作料理の店でもやれたらいいな。」と思って、また父と弟と一緒にアルバイトとして働くことになった。父も食事の世話などしてもらえるので、私が店にいるのが嬉しそうだった。
平成15年、弟が結婚した。すぐに子供ができ、父も初孫の女の子を見ることが出来た。孫に自分が買ってやったベビー服を着せて抱っこしている父を見て、
「ちょっとした幸せな家族の風景だなぁ。」
と思ったのもつかの間だった。
翌年平成16年2月頃から父が体の調子が悪いと言い出し、主治医が父の持病である糖尿病の薬を変えて様子を見たが一向によくならないまま春が来て、あの「調子が悪くても、とりあえずは店に出て来い。」と言っていた父がソースだけ作って早退する日が増えていった。私と弟が「休んだら?店は
やっとくし大丈夫やで。」と言ったら素直に休んだりして、なんか様子が変だなと思ったが、私にはこの時父が私に普段なら絶対見せないであろう白人女性のガールフレンドの写真を見せたので、「あぁ、もしかしてお父さん死ぬんちゃうかな?この写真の女の人を私が探さないといけないようになるんじゃないだろうか?」と直感がはたらいた。ピンとくる、とはこのことだなと思った。
数ヵ月後実際にそうなったのだが、その時は本当に自分でもびっくりした。その写真を手に、彼女を探すことになろうとは……
そんな中、更にびっくりするような出来事が起こった。5月6日の夜11時頃、その日休みをもらっていた私に弟から電話があった。内容はこうだ。
「今から言うことにびっくりせんといてや。お母さんが亡くなった。今警察から連絡あったし、今から確認に行くけど姉貴も来てくれへんか?」
母は父と離婚後、別の男性と知り合い、その男性とほぼ一緒に住んでいたのだが、その男性宅で急死したというのだ。母と同居していた男性の話によると、お風呂に入ってなかなか出てこないので見に行ったら、母が脱衣場で泡をふいて倒れていたので救急車を呼んだが心臓発作で手遅れだったということだ。その家には警察も来ていて、
「その内容で間違いないと思いますか?」
みたいなことを聞かれて状況と警察の人の話からして嘘ではないだろうと、認めて帰ってきた。
しかし今身体の状態が悪い父に真夜中に電話して言うことではないので、
「親父には明日話そう。」
と言う弟の意見に従い、帰ってきた。
母は父より10才年下で、まだ66歳だった。「母が父より先に亡くなるなんて?!」私も弟もかなりショックだった。血小板減少症と甲状腺の病を患ってはいたが、心臓なんてまったく悪くなかったのに心臓発作で亡くなるとは。それもこんな早くに……。
まったく予想していなかったことだった。
次の日、父に母が亡くなったことを話し、お通夜やお葬式の段取りは喪主である弟と私でやります、という旨の話をした。父もショックは受けていたがそれよりもしんどそうだったので、
「親父はなんにもしんでいいしな。」みたいなことを弟が言っていた。
6月になって母の四十九日の法要のあと、その足で父を大学病院に連れて行った。主治医から
「レントゲンで肺にがんのような影が見られるので大学病院でもう一度精密検査をして下さい。」
と言われて検査をし、検査結果を聞くその予約の日が母の四十九日の日だった。
「もうちょっと後にして下さい。」などと言ってる暇はない。
その日はタイトなスケジュールで、弟と私は喪服を着替える間もなく、そのまま病院へ行った。その日、病院で待ってる間もまともに
座っていられないぐらい父の様態は悪かった。診断結果は肺がんで、がんが肝臓にも転移していた。第4ステージだった。
すぐに入院ということで翌々日くらいに入院したと思うが、あまりに色々なことが重なり、このあたりの正確な日は覚えていない。記録する余裕もなかったように思う。
入院して次の日くらいに担当の先生に呼ばれ、
「手術しても半年も存命出来るかも保障出来ません。それでも手術されるか、痛み止めで痛みを和らげ、このままいかれるかどうしますか?手術しなければこの夏が越せるかどうかです。」みたいなことを言われた。
弟と、一応父の弟である叔父にも相談して、手術はしないことにした。
「ご親戚や親しい方に連絡を。」と言われた。
父が最後に一番今会いたいのは例の外国人のガールフレンドだろうと思い、親戚への連絡を済ませてすぐ、父に見せてもらったあの写真を持って、父に聞いた話を手掛かりに実際に写真の女性を探すことになった。父から聞いていた彼女が乗り降りする地下鉄の駅の職員さんに彼女の写真を見せて事情を話し、父のことと私の携帯の番号を書いた手紙を言付けた。一応英語と日本語で書いた。彼女は私にすぐ電話をくれて、その次の日に病院に父に会いに来てくれた。彼女に会えて父は嬉しそうだった。
彼女はしばらく祖国に里帰りしていたらしく、たまたま日本に帰ってきた日が私が駅員さんに手紙を言付けた日だったらしい。ラッキーなことにその日、改札でその駅員さんが彼女が通るのを見つけて手紙を渡してくれたのだ。「駅員さんが帰ったあとに彼女が通っていたら?」、「彼女の帰国が数日遅れていたら?」、「改札を何日も通らなかったら?」という可能性もあった。すべてがうまく行って手紙が彼女の手にすぐ渡った。奇跡みたいな話だが、人が1人死ぬ時って不思議な力が動くのかなぁ、と思う。父が私に話してくれた、この女性と父との出会いの話も偶然の重なりのような話だった。
父が亡くなる1年ほど前の出会い。人生最後の神様から父へのプレゼント、みたいな出会いだったのかもしれない。彼女は偶然父の亡くなる前の日にももう一度面会に来てくれている。
彼女と私は今は友達だ。
結局父は医者が言っていた夏も越せず、入院してから11日目の7月6日に亡くなった。76歳で、ちょうど母の2ヶ月後の死だった。だいぶ前に離婚していた両親だが、平成16年5月6日と7月6日、母のあとを追うように父が亡くなるなんて100パーセント想像もしていなかったし、いまだに信じられない気がする。その時のショックがまだ私には残っていて、思い出すとちょっと苦しくなる。何がなんだか分からない2ヶ月間だった。この年は私の大切な友人が40歳という若さで急死したり、弟の家庭も色々あって後に離婚。
本当に大変な年だった。
父が亡くなって会社(店は株式会社だったので)の名義を変更したり、家の片づけをしたり、しばらくは大変だったが、弟と私の関係は
お互いがいなくては困るので最初のうちはうまくいっていた。
しかし父、弟、私でやっていた時のトライアングルの関係性はなくなり、
私も社員となったので、だんだん弟が私に求める仕事の量と内容が重くなってきた。社長は弟なのだが、あくまでも彼は小学生の時いじめられて「おねえちゃんに言いつけてやるー。」と言ってた私の2才年下の弟、という思いが私の心の中にあって、ちょっとばかにしている部分もあった。しかも彼は高校を卒業してすぐに店を継いでいるので、外に出たことがない。店の従業員やアルバイトからしても、常に「大将の息子」なので彼に対して本気で怒ったりするのは父しかいなかった。要するに世間知らずのボンボンだった。たいていの場面で私に偉そうにするけど、変なところでは「姉貴、これやってくれへん?」みたいに頼ってくる。2人の性格がまったく逆なので、店のことでも、働き方に関しても、お客さんに対する考え方もことごとく意見が異なり喧嘩ばかりしていたように思う。
でもそれはちょっとした小さな喧嘩だった。この頃はアルバイトの人数も多く、父が生前とっていた非常に多い金額の給料がなくなったので、会社にお金もたまっていって私にも肉体的、精神的余裕があった。店の帰りに仲の良いバイトの子と飲みに行ったり、習い事もしていた。
すべてが悪くなっていったのは、2008年のリーマンショック後だった。
お金というのは貯めるのには時間がかかるが、なくなり始めるとあっという間だというのをこの時身をもって知った。
父が亡くなって、新しい体制になってから会社に毎月30万円づつ積み立てて定期にしていた分約800万円がリーマンショック後の売上げ低下による赤字で、2年くらいでなくなってしまった。人件費を減らすためにアルバイトの数も最小減におさえ、自分たちの給料も減らさなければならなくなった。それで経済的にはなんとかなっていたが、アルバイトの数が減ったので仕事量が増え、肉体的に私はきつかった。習い事なんてしてる余裕はなくなった。スポーツジムに在籍はしていたが、店が暇なシーズンの体が楽な時だけしか行けなかった。弟は40歳代なかばの働き盛りだが、50歳を目前にひかえ更年期障害の始まった私は繁忙日が続く年末年始、ゴールデンウィーク、花見、紅葉シーズンのような繁忙日が続く時は本当にしんどかった。午後2時頃に店に入って仕込み、3時に開店してから23時頃に閉店。帰ったらぐったりだった。店の売上下が悪いから、なにか新メニューや新しいことを考えよう、という気力がなかった。税理士からは
「店を今風に改装して、新しい調理師を雇ってその人に任せて一新したらいいのじゃないですか?」みたいなことを言われたが、弟は体制を変えてまでやりたくないという考えだった。私も同感だった。さらに人件費や経費を切り詰める日が続いた。
「まかないも質素なものにしてくれ。」と弟に言われた。ここまで来たか、と私は思っていた。
アルバイトの大学生も昔のように遊ぶお金が欲しい、というガツガツしたタイプはいなくなった。お小遣いはちょっと欲しいけど、自分の都合の良い日だけ入りたい、基本あんまりシフトに入りたくない、というタイプがほとんどとなった。ゆとり世代というやつだ。ちょっと怒ったらすぐ辞めてしまう。毎日アルバイトの子に気を遣いながら、弟と喧嘩しながら、売上げのことも考え、自分の体も年々しんどくなってきて、「いつまで店を続けなければいけないのか?」
と思い始めた。父が亡くなって弟と「2人で出来るところまで頑張ろう、せっかくお父さんがここまで大きくしてくれたんやし。」と決めてやってきた串かつ屋だった。それまでも弟と大喧嘩したとき「もうやめよう」と何度か思ったことはあった。客商売も最初から私は好きではなくて、絡んでくるお客がいたりするとうまくかわせず、そのお客がいる間はずーっと気分が落ち込んだ。しかし自分の好きなお客さんだけで店はなりたたないし、色々なお客が来るのが店というものである。そういうことは百も承知していた。
私は「いややなぁ、やめたい。」としょっちゅう思っていた。
でも私がやめたら弟1人では店をやっていけないことは分かっていたし、自分がやめたいからといって親が長年やってきた店をやめる、ということに対して申し訳なさと迷いがあったので踏みとどまってきた。
しかし平成29年、結局店を閉店した。上に書いたような私個人の理由もあるが、会社のお金が減り続けて来て、これ以上やっていたら残金がなくなってしまうだろうと予測がついた。私たちに店を昔のような繁盛店に立て直す手腕もなかった。
年中人手が足りない、という問題もあった。
それとやはり弟と私の仲が険悪になりすぎて、お互い一緒に働いてるのが苦痛になってきていた。
「2人きりの姉弟がこんなにまで仲が悪くなってまでやる必要あるのかな?」と私が言ったら、
「ないやろうな。」と弟が言った。
今思うと、私がもっと引いて弟をたてるべきだったなと思う。しかしその頃は「腹立つ!」としか思えなかった。本当にあの頃は余裕がなかったし、辛かった。
幸い、ビルのテナント代で2人がなんとか暮らせるくらいの給料をとれるということは数年前に税理士に試算してもらって分かっていた。これが借金でもあれば、店をやめたくてもやめられなかっただろう。やめても暮らしていける。それが前提としてあったからやめられた。すごく恵まれた境遇だが、全部親のおかげだ。私は特に苦労はせず、親が作ってくれた土台を元に店をやっていたに過ぎなかった。だからこそ親がせっかく大きくしてくれた店を私のせいで(弟はもっと長く店をやっていたかったと思う)やめるのは本当に迷った。でも自分としてはもう限界だった。
店を閉店したのは平成29年3月19日。4月からテナントが入って賃料をもらうことになっていたので、大急ぎで店の後片付けをやった。
それから5年と4ヶ月ほどたった今、私はちょっと後悔している。あの時いくらしんどくても、もうちょっとあと2、3年頑張って続けていたらよかったと…。
あんなに嫌いだと思っていた客商売だったが、忙しい時にお客さんをさばくのも案外自分の生き甲斐だったのかもなぁ、と今は思ったりもする。自分のことながら本当にないものねだりの天邪鬼でいやになってくる。
私とは逆に弟は何の後悔もないらしい。「俺はやり切ったし。」と言っている。なんだかすがすがしくて羨ましい。両親が亡くなるまでのほほんとお気楽に生きてきた自分にとって、京都のど真ん中の繁華街で店を弟と仕切ってきた13年間は、良いも悪いも本当に人生勉強の場となった。1965年の創業から2017年の閉店までの52年間、店に関わったすべての人とお客さん、両親と弟には感謝しかない。
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