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ハードボイルド書店員日記㊿

日曜日の夕方。

無限に続くレジ業務からようやく抜けられた。事務所でPCの前に座り、取次の専用サイトを介して前週に売れた本の補充をする。他の店舗でよく動いたのにウチに入っていない商品を見つけて注文する。オンラインでできなければ月曜に出版社へTELする。本当はウチ担当の営業マンに直電するのがいちばん早い。彼らも数字を作るのに必死だから、品薄の売れ筋をどうにかかき集めてくれる。ただし繋がらないケースが多いので、私はあまり活用しない。

ひと段落。横にいた店長から「今いい?」と声を掛けられた。

「東京五輪で活躍したアスリートの愛読書でミニフェアをやろうと思うんだ。5~6冊ぐらいで」「いいですね」「思い当たる本、ある?」「ええ」

致知出版社から昨年出た「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」のデータを呼び出す。ずっと売れているロングセラーだ。

「柔道の阿部詩選手の愛読書だな。それは知ってる。他は?」「どこかのサイトで卓球の水谷隼選手が『アカギ』を愛読しているという記事を」福本伸行の麻雀漫画である。「全部で何巻?」「たしか36巻です」「最初の何巻かだけ置いてみよう」「注文しますか?」「明日コミック担当に話しておく」「了解です」

「あ、見つけました」アマゾンで五輪関係の本を検索すると「よく一緒に購入されている商品」欄に「ピンポンさん」という文庫本が出てきた。「水谷隼選手、激賞!」という帯が付いている。「小説?」「ノンフィクションです。荻村伊智朗(おぎむら いちろう)という卓球選手の生涯を」「それは自分が注文しておく」「はい」

PCの前で考える。何かが頭の片隅に引っ掛かっている。やがて記憶と記憶が重なってひとつの像を結んだ。「これはどうですか?」角川つばさ文庫「難民選手団 オリンピックを目指した7人のストーリー」を見せた。「選手の愛読書ではないし児童書ですが、こういう内容は大人も興味ありますよね」「たしかに」店長はオンラインで即注文した。「自分も読みたい」彼の一人称は常に「自分」だ。私よりも少し年上だから「西部警察」直撃世代である。髪型は角刈りだし車は中古のスカイラインと聞いている。

「思い出した。これも置こう」店長が無骨なリズムでキーを叩く。出て来たのは「バタフライ 17歳のシリア難民少女がリオ五輪で泳ぐまで」だ。「このユスラ・マルディニという選手は東京五輪でも女子100mバタフライに出場した。難民選手団の旗手も務めた」「興味深い本ですね」「読書メーターで見掛けた」「店長、読書メーターやってるんですか?」「一応」「レビューも?」「いやほとんど書いてない。自分は読む専門」「ハンドルネームは『大門』とか」「違う」それ以上は訊かなかった。SNSはプライベートの領域だ。

「大体こんな感じだな」「すいません、もう一冊だけ」アンドレ・アガシの自伝「OPEN」を紹介した。「大坂なおみ選手の愛読書です」そして私の愛読書でもある。「置こう」あっさりOKが出た。思わず「本当にいいんですか?」と尋ねた。「なんで?」「いや、メダル獲れなかったし」「出るだけでも偉業だ。そもそも参加することに意義がある。それが大会本来の趣旨だろ」「たしかに」「さっきのユスラ・マルディニだって予選落ちだ。でも彼女たちは目の前の相手だけではなく様々なものと戦っている。この世界に巣食う悪意を代表する何かと。だから応援するし勝って欲しい。少なくとも自分はそう考えている」「自分もです」口癖が移ってしまった。

レジに戻る時間だ。立ち上がりかけたところで「大事なのは」と店長がつぶやく。「オリンピックが話題になっている時に、ちゃんと関連書を各ジャンルで用意しておくことだ。当たり前のようで難しい。これができてないと『何か本ないかな?』と来店したお客さんをガッカリさせてしまう」「そうですね」「ただ入って来た本を置くだけじゃなく、常にアンテナを張り、今どういうものが求められているかに敏感でいないとな」「覚えておきます」

こういう時に実感する。自分は、いや私はこの店を職場に選んで正解だったと。

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