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ハードボイルド書店員日記㊽

レジ外の時間。品出しが全て終わったので残りは巡回に充てる。「いらっしゃいませ」と言いながら店内を巡り、乱れている棚を整える。平積みの上に違う本が載っているだけで嘘みたいに売り上げが落ちる。特に児童書と実用書は注意が必要だ。

「あの、すいません」年配の女性が検索機の前で骨張った首を傾げている。タッチパネルの端末を使って在庫を調べてくれていた。「いらっしゃいませ」「芥川龍之介で海のなんとかって話があると思うんだけど、調べても見つけられなくて」短編作家あるあるだ。本のタイトルになっていなければヒットしない。「芥川で『海』ですか」「そういうの知らない? 友達に勧められたんだけど」

芥川で海。組み合わせに思い当たる節があった。「よろしければこちらへどうぞ」女性にサービスカウンターの椅子を勧め、私は新潮文庫の棚へ向かう。「河童・或阿呆の一生」を見つけてすぐ戻った。「あら、その中に入ってるの?」「いえ」目次を見て「蜃気楼」のページを捲った。題の横に「或は『続海のほとり』という副題が記されている。

「お探しの作品は『海のほとり』ではないでしょうか?」「あ、そうそう。そんな名前だった」「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」たしか新潮文庫の芥川の本には収録されていない。岩波はどうだろう? でもいちばん確実なのは、と考えを巡らせてPCのキーを叩く。

「お待たせ致しました。こちらの本に収録されていますが、申し訳ございません、当店には在庫がございませんのでお取り寄せになります」ちくま文庫の「芥川龍之介全集6」を提示した。「あら残念。じゃあお取り寄せしてもらおうかしら?」「かしこまりました」「でもよくわかったわね。さすが店員さん、ありがとうございます」「いえいえ。たまたまです」見つけられたのは書店員だからではなく、芥川龍之介のファンだからだ。あとは彼女が一生懸命自分で探していたから何とかしてあげたかった。横柄な態度で「これ全部」と十冊ぐらい題の書かれたメモを渡してくる人は少なくない。

休憩を挟んだ数時間後。閉店までもうすぐ。閑散とした店内を歩いていると新書コーナーの前で若い男性に声を掛けられた。「『江夏の21球』という本がこの棚にあるらしいんですが見つけられなくて」持っていたプリントアウトを見せてもらう。棚番号の下に「在庫有り」と印字されている。棚にも下のストックにも見当たらない。仕入れ室に向かい、スチールに積まれた新書のタイトルを全て確かめ、また売り場に戻った。

「申し訳ございません。データが間違っているようで当店には」「そうですか、ありがとうございます」男性はにこやかに頭を下げてくれた。

瞬間閃いた。「あの『江夏の21球』自体は短い作品なのですが、よろしければ他の本にも収録されています」「え、そうなんですか?」「こちらです」角川文庫の棚へ案内する。積まれていた。見慣れたイラストの表紙。山際淳司「スローカーブを、もう一球」だ。

男性が手に取って中をパラパラと確認する。「これで大丈夫です。助かりました、ありがとうございます」律儀に頭を下げ、足早にレジへ向かった。閉店5分前を告げるアナウンスが流れるのとほぼ同時だった。

マスクの下の顔が緩んでいるのが自分でもわかる。去り行く背中に対してこちらも静かに会釈した。いい仕事をさせてもらいました、ありがとうございます。週末特有の疲労感は微塵もなかった。

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