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「純文学」は「娯楽」を超えるか?(9.4メットライフドームの煽りコラム)

いよいよ今日ですね。袂を分かった「元ベストパートナー」のふたりが雌雄を決する一戦。

プロレス界ではこの種の決裂は定番です。ただ従来だと裏切られた方が完全ベビーフェース(善玉)になるのですが、今回はSHO選手に期待する声が大きい。あと「裏切り者をぶちのめせ!」というファンがあまりいなくて「これを機にふたりとも頂点目指して!」みたいな人が多い。昨年EVIL選手がロスインゴを裏切ったときに比べたら、その辺の温度差が歴然としています。

↑の序盤もピンと来ません。YOH選手の発する想いが「怒り」よりも「戸惑い」と「哀しみ」、そして「諦観」だから。もしかしたら彼はもう少し違った形で決別する未来を思い描いていたのかも。

私はでもこの動画、好きです。良くも悪くもプロレスの一般的な文脈とは異なるから。そして彼の怒りのベクトルは、実はSHO選手ではなく新日本に対して向いているのでは、と感じました。「いつからなんだよ?」というのも「俺が怪我から復帰したとき、もう会社は俺たちを引き離すことを考えていたのか?」と解釈できます。

普通こういうケースでは「SHOふざけるな」「あの野郎、絶対に許さない」と罵って期待感を煽るのがこれまでのプロレス界の王道でした。でもYOH選手は安易な道で楽をしない。代わりに選んだワードはこれです。

「SHO君…ケンカしようぜ」

口にした刹那の彼の眼差し(11分50秒ごろ)に注目してください。ゾクッとしました。あれで十分。余計なものは何も要らない。

もしふたりのストーリーが娯楽映画なら、止まらぬ涙や憤怒の叫び、もしくは大袈裟な身振りなど誰にでもすぐ伝わる手法が用いられたはず(「容疑者Xの献身」のラストを思い出してください)。でもリアリティを重視する純文学的な作品だと、そういうのは逆に嘘くさくなる。

プロレスが「娯楽」の範疇に含まれるのはたしかです。でもその枠の中で「純文学」にアクセスするレスラーがいても面白いと思いませんか? 

万人が広く浅く楽しめる「娯楽」と一部の人に深く愛される「純文学」。この違いは絶対というわけではない。夏目漱石みたいな万人から深く愛される「純文学」が現代のファッショナブルな若者から生まれてもいい。いや、むしろ見たい。最大公約数に媚びないと決めた者だけが掴める栄光の形を(この点は対戦相手のSHO選手にも言える)。

「娯楽」側に大きく舵を切った新日本プロレスにあえて「純文学」で挑む。そんな彼らの孤独な戦いを私は全力で推します!!!

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