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かげみぼう(第1話)

■あらすじ

大学時代の後輩、砂川楓に招かれて栃木県日光市にやってきた水瀬。彼女は「白い街路」と呼ばれる土地に何やら恐怖感をもっているようだが、相談にのっていると、行く先行く先で水瀬は「広小路」という人物に間違われ、広小路を追うも捕まえられず、泊まった旅館で出会った一ノ瀬という男から、それは「かげみぼう」と呼ばれる怪異だと教えられる。
かげみぼうの謎は残る中、水瀬は「白い街路」の調査に乗り出す。その最中、夜間に砂川が白い街路に向かうことを不審に思い、後をつけると、二十五年前に姿を消した少女、真理乃の幻影が現れる。少女の幻影と白い街路との関係は。そして白い街路で姿を消した砂川の行方は。

■本編

 ばさり、と私の意識と一緒に本が落ちた。
 下降する感覚。それでいて意識が浮かび上がっていくような感覚。うとうととしていた私は首がかくんと折れて頬杖を突いていた掌から滑ると同時に、手に持った文庫本を落としていた。
 はっとして顔を上げると、車内の電光掲示板に目的地へ着く旨の案内が記され、無機質な女性のアナウンスが英語でその内容を読み上げていた。
 車窓の景色はすっかり田園というよりも鬱蒼とした緑、といった雰囲気に変わっていた。民家はまばらで、草木が破裂したように繁茂し、溢れている。
 ホラーミステリなど読んでいたせいか、頭にぼんやりと霞がかかってはっきりしない感覚だった。茂る草木にもどこか暗い想像をして不穏なものを感じてしまう。
 私はいつもそうだ。旅だ、となると心が躍って出発の前日もよく眠れなくなってしまうのに、いざ出発と出だしてみると、旅に黒雲がかかって今にも嵐がやってきそうな不吉な予感ばかり覚える。
 今回は特にだ。それは行き先が日光だからかもしれない。修学旅行で訪れて以来、何年ぶりになるだろうか。
 栃木県日光市。日光東照宮を始めとする世界遺産、文化遺産を数多く有し、広大な面積と豊かな自然を誇る一大観光地。かつては五つに分かれていた市町村が一つになったことで、面積は栃木県の約四分の一を誇っている。だが、その広さに比べ住民の数は少なく、近年流出に頭を悩ませている。また、財政状況も芳しくなく、消滅可能性のある都市、として名前が挙がってしまった不名誉な一面もある。
 私が知っているのはそれくらいだ。修学旅行で世界遺産を巡ったものの、記憶は忘却の彼方で覚えていない。覚えているのは、街中の古そうな旅館に押し込められ、夜枕投げをしていたら障子を派手に破ってしまい、担任や旅館の人からこっぴどく怒られたことだけだ。
 私は文庫本や水筒をリュックの中にしまい込み、背負って立ち上がる。振り返って後方まで眺めると、外国人の観光客が多い。車内で交わされる会話の言語もばらばらで、チャンネルが壊れたテレビを見ているかのようだ。
 乗降口の付近に立って外を眺めると、暴虐な緑に飲み込まれたような景色から、街中の景色へと変わって行く。遠くには川が流れている。確か、大谷川という川だ。響きだけ聞けば、ダイヤ、と景気のよさそうな川だが、無論ダイヤモンドが採れるわけではない。
 特急はゆっくりと停車し、一息つくように空気を吐き出すと、扉を開いた。終点の「日光駅」だけあって、車内に残っていた乗客がみな降り、そして朝にも関わらず特急に乗り込もうとする乗客も一定数いた。
 私はホームから改札を出て、駅の入り口に立った。乗り換えの時、東京で感じた七月の熱気はなく、清涼な空気が流れているように感じた。日差しこそ眩しいものの、じりじりと照りつけるような嫌らしい暑さではなく、どこかからっとして爽やかな日差しだった。
「水瀬さん」
 横断歩道の先から手を振って駆け寄ってくるのが、私の大学時代の後輩で、今回私を日光に招いた張本人、砂川楓だった。
 砂川とは大学時代、サークルが一緒だった。私はバレーボールの同好会のようなサークルに入っていたのだが、その実態は酒飲みの集まりのようなものだった。バレーボールもやりはするのだが、ほどほどのところで切り上げて、じゃあ、ということで飲み屋に雪崩れ込み、一晩飲み明かすか、カラオケに転がり込むか、という大学生生活の淀みを掬って集めたようなサークルだった。
 私と砂川はそのノリにあまり積極的についていける方ではなく、頃合いを見計らっては抜け出し、二人で静かに飲み直す、という具合だった。
「やあ、楓。久しぶりだね」
 ご無沙汰しています、と頭を下げた彼女の装いは、薄青のブラウスに白いスカートと、目にも涼しいものだった。つば広の麦わら帽子を被った彼女の顔は、以前会ったときよりも大人びて見えた。
 最後に砂川と会ったのはいつだっただろう。あれは、確か東京に『椿姫』のオペラを見に行ったときだった。閉演してから、足を伸ばして神保町の古本街に行き、目ぼしい古本はないかと物色していたとき、後ろから声をかけられ、いたのだ。彼女、砂川が。
 そのときは立ち話だけして別れたのだが、彼女は何か本を買っていた。あれは、フォースターの何かではなかったか。彼女と会った、そのことは明確な輪郭をもって思い出せるのに、あの日のことを思い出そうとするとひどくぼやけているように思える。オペラがどんなだったか、それさえ、朧げな雲の中に手を突っ込んで探すような覚束なさを感じる。
「水瀬さんは、来てくれないと思っていました」
 静かにそう言う彼女の顔ははっきりと見えず、口元の紅だけがいやに浮かび上がって見えた。彼女は笑みを浮かべていた。言葉や調子とは裏腹に。
「後輩の頼みだ、来るよ」
 ありがとうございます、と頭を下げると、「この近くに美味しいチーズケーキが食べられるお店があるんです、まずは一息、どうですか」と訊ねるので、正直私は特急電車に揺られてくるだけで疲労を感じていたので、まずはコーヒーでも飲んでひと心地つけたいところだった。
 先に立って歩く砂川の背を追いかける。学生時代は肩口くらいまでしかなかった髪が、今は腰にも届きそうなほど長かった。私は目の前を行く砂川が本当に砂川なのか、今一つ確信をもてない、あやふやな感覚を捨てきれなかった。もちろん見た目は砂川なのだが、彼女の纏っている雰囲気のようなものが、大学の頃までとはまったく異質のものになっているように思えてならない。それが大人になったということなのか、そうでないのか、今の私には判断できない。
 ふと、すーっと視界の先、交差点を横切るように一人の少女が走って行く。あ、と思ったときには少女の姿は大きな牛乳瓶と牛の絵が描かれた建物の死角へと入り込み、私の視界からは消えてしまったのだが、私は疲れもものともせず、一目散に走ってその交差点に出た。
 少女が姿を消した左方向を見ても誰もおらず、牛の絵の建物のドアを引いてみるが、鍵がかかっていた。
「どうしたんです、水瀬さん」
 砂川が追ってきて私の肩に手を置いて心配そうにのぞき込んだ。砂川の手はひやりと冷たい。湿り気を帯びた陶器のような冷たさだ。
「いや、なんでもない」
 私は冷や汗をかきながら首を振った。砂川はしばらく覗き込んでいたが、とりあえず休もうと私の手を引いて歩き出した。
 私はいるはずもない少女の幻影を見て、必死になっていた。馬鹿馬鹿しいと思った。彼女が、もし真理乃だったとしても、少女の姿であるはずがない。私と同い年なのだから。そう、真理乃であるはずはないのだ。彼女は二十五年前、私たちの前から忽然と姿を消したのだから。
 駅前のカフェに入り、チーズケーキとコーヒーを注文する。チーズケーキは砂川が言うだけあり、とろけるような甘さとほのかなチーズの芳醇さが相まってなかなかのものだった。
「それで、今回僕を呼んだのには何かわけがあるんだろう」
「……敵いませんね。水瀬さんには」
「久闊を叙するのなら、楓の方が遊びに来るだろう。君はそういう性格だ。わざわざ日光まで呼びつけるということは、この場所で何かのっぴきならならない事情が発生していると見るべきだ」
 砂川はカップをソーサーに置き、ため息を吐く。
「小説家である水瀬さんなら、話を聞いて、何か打開策をくれるかもしれない、と思ったんです」
 私もカップを置いて、テーブルの上に肘を突いて手を組み、その上に顎を乗せて「特殊な話なのかい」と彼女の目を覗き込んで訊いた。
 砂川は視線を逸らさず、真っ直ぐに受け止めて返しながらおもむろに頷き、「荒唐無稽だと思われるかもしれませんが」と自嘲気味に笑った。
「わたしはここからさらに山の方に、群馬方面に向かったところに住んでいます。その地域には『白い街路』と呼ばれる立ち入りを禁じられたエリアがあるんです」
「白い街路?」
 道が一面白ペンキで塗りたくられている様を想像する。
「はい。街の再開発プロジェクトで建てられた住宅地らしいのですが、今では打ち捨てられて、廃墟となっています」
「危険だから、という理由で立ち入りが禁止されているのかな」
 表向きは、と砂川は言って、声を潜める。
「『白い街路』が廃墟になったのは、そこに住んでいたり、足を踏み入れたりする人間に次々と異常が起こったからです」
 異常、という言葉を口の中で転がしながら、これはきな臭い話になってきたぞ、と考えて身を乗り出す。
「はい。温厚だった人が突然狂暴になったり、妄想にとらわれて危害を加えたり。最も多かったのが、窓からじっと見られているという幻覚です」
「それは本当に幻覚だったのかな」
 ええ、と砂川は頷く。「そのように記録されています」
「記録か。伝聞ではなく記録ということは、文書として残されていて、君はそれを知る立場にあるということかい」
 私の問いにほんの僅かに逡巡したものの、砂川は頷いた。
「記録……『ホワイト・レポート』は市役所の中にあります。廃棄される寸前だったのをわたしが抜き取ったんです」
「ということは、君は市の職員なのか」
「そうです。言ってませんでしたか」
 聞いてないよ、と私は言って苦笑すると、どうしたものかな、と腕を組んで考え込む。市の職員が一介の物書きに過ぎない小説家に助力を求める、というちょっとなんだこれは、と言いたくなるような構図になってきていた。
「その、『ホワイト・レポート』に何か問題でもあるのかい」
 砂川は首を横に振って、「『ホワイト・レポート』は単なる記録です。これ自体に力はありません。しかし……」と言い淀む。
「『白い街路』が、君にとって、何か厄介な存在になっているのか」
 砂川ははっと顔を上げ、涙ぐんで頷いた。今日初めて、彼女のはっきりとした感情の発露を目にしたような気がする。昔はもっと表情が目まぐるしく変わる可愛らしい表情の子だった。
「夢を見るんです」
「夢?」
「はい。繰り返し同じ夢を見るんです」
 私は砂糖壺から角砂糖を一つ取り出すと、ぬるくなったコーヒーに浸けて湿らせ、よくコーヒーを吸ったところで砂糖を口の中に放り込む。ほのかなコーヒーの苦みがまずやってきて、そのすぐ後で砂糖の甘さが大挙して押し寄せ、苦みをどこか彼方へと追いやってしまう。
「わたしは目覚めると『白い街路』の中のある一軒の家にいて、ベッドに座っているんです。そこへ男の人がやってきて、わたしの服を脱がせて、新しい服を着させて。わたしはまるで人形のように動くこともできず、なされるがままで。そして着替えが済むと男は部屋を去って行くんです。わたしはそこで初めて動くことができるようになって、部屋の外に出るのですが、二階のその場所は暗くて、階段の下の一階は闇の淵に飲み込まれてしまったようで見えません。でも、階段の踊り場に男の首が転がって、こちらを向いて微笑んでいるんです。まるでこっちへこいと言うように。わたしは恐ろしくなって泣き叫んで、そこで夢が覚めます」
 砂糖壺から白い角砂糖を二つ取り出して、ソーサーの上に並べる。それが白い家を連想するのか、彼女は額に手を当てて、「お願いです。砂糖を、砂糖を」と喘ぐように言うので、わたしはコーヒーの中にぼとぼとと砂糖を落とし入れる。
「『白い街路』がわたしを呼んでいるような、そんな気がするんです。でも、足を踏み入れたら無事には帰って来れない。それも分かっているんです」
 彼女は憔悴しきっていた。だからといって、私に何かできるとも思えなかった。私は神通力をもっているわけでもなければ、修行を修めた僧でもない。悪霊を払うことなんかできやしない。だが、後輩がここまで追い込まれていて、何もせずに手ぶらで帰るほどの薄情さもまた、もちあわせてはいなかった。
「一緒に行ってみるかい。それも不安なら、僕がこっそり様子を見てこようか」
 おずおずと顔を上げて、上目遣いに私を眺めて、「お願いできますか」と弱弱しく言う。水臭いな、と笑い飛ばしてコーヒーを啜っていると、水差しを抱えた店員がやってきて、グラスに水を注いでいく。
「広小路さんは、輪王寺は見てこられたんですか」
 店員は私に向かってにこにこと愛想よく笑いかけながらそう言った。私と砂川は顔を見合わせてふっと笑って、「すみません、僕は広小路さんではありませんよ」と手を振って否定した。
 すると、店員の方が怪訝そうな表情になって、「だって、え、広小路さんですよね」と当惑して言うので、私は再度否定する。
「ほんの十数分前までいらっしゃったじゃないですか。わたしに輪王寺の本堂の仏像を見るのが楽しみだっておっしゃっていて。そんな方のこと、見間違えたりしませんよ」
「いや、十数分前と言えば、まだ電車から降りてきたか来ないかという頃です。人違いですよ」
 店員は首を傾げながら私をじろじろと眺め、「そんなはずない」と意固地になってしまったのか、他の店員も呼んで、「広小路さんだよね」と確認すると、もう一人の店員も「そうだね、間違いないよ」と頷く。「でも、違うって言い張るんだよ」「ええ? なんでそんな」
 居心地が悪くなってしまったので、私は砂川の手を引いて店を出る。お釣りはいいですから、とお金を置いて逃げるようにして立ち去った。
「何だっていうんだよ。広小路って誰だ。そんなに僕に似てるっていうのか」
 砂川は私に手を引かれるままに歩いていた。何かをぶつぶつと呟いていたが、聞き取れたのは「……かげみぼう」という謎の呟きだけだった。
 世界遺産や文化財には今回立ち寄るつもりはなかったのだが、先ほどの広小路が輪王寺に行く、という言葉を聞いて、何となく足を向けてしまっていた。
 砂川は『白い街路』に私が行くということで気持ちを持ち直したのか、先に立って建ち並ぶ店のことなどを説明してくれた。
 その中の一軒に、見事な木彫りの装飾がなされた皿を飾っている店を見かけたので、入ってみることにした。
「へえ、見事なものだね」
 様々な花や鳥の図柄が刻み込まれている彫り物だった。皿や器のようなものから、手鏡のようなものまである。その中で私が気になったのが、ヤシオツツジとカワセミが戯れている図柄の手鏡だった。
 これは日光彫という装飾で、江戸時代に職工たちが寺社の建立などに集められたのをきっかけにして広まったものだという。また、浮かし彫りという模様を浮き出させる彫り方が特徴的で、表面の鮮やかな朱塗りも特徴的なのだそうだ。
 私は手鏡を持ち、裏面に彫られた見事な図柄に見とれつつ、返して鏡面を見ると、自分の顔と、店の外の通りが映っていた。そこをすうっと一人の男が横切り、私はぎょっとする。その横切った男は私だった。いや、私に酷似した男と言うべきか。顔や背丈だけではなく、服装までそっくりだった。手鏡を砂川に押しつけ、店の外に飛び出して見回すが、件の男の姿はどこにも見当たらなかった。
 悄然として店の中に戻ると、店主が奥から出てきて、砂川と会話していた。そして私が入ってくるとちょっとぎょっとした顔をして、「あれ、広小路さん、どうしたの」と面長で人の好さそうな老翁といった店主は訊いた。
「いや、僕は広小路という人ではないんです」
 うんざりとした気持ちで否定すると、店主は腕を組んで老眼鏡をかけ、体を前後に揺さぶって近づいたり離れたりしながら、睨むように見つめた後で、「顔も服装も広小路さんとしか思えんがなあ」と顎を擦った。
「どうやら僕のそっくりさんが悪さをしているようで」
 肩を竦めておどけてみせると、店主は怪訝そうな顔をしながら、「まあ、構わんが」と腕を解いて立った。
 私は手鏡の装飾があんまりに見事だったので、それを買いたいと申し出ると店主は複雑そうな顔をして、「広小路さんもそれを気に入っておったよ。買ってはいかなかったが」と古めかしいレジスターをたどたどしい手つきで押していき、がちゃんと金具が下りる音が響いてレジが開く。
「広小路さんとやらは、どこへ行くか行っていましたか」
 私は気色悪さを感じながらも、そう訊ねると、「二荒山神社に行くというとったよ」と答えて釣りを私の手の中に落とした。
「楓。悪いけどちょっと気になるから追ってみてもいいかな、広小路とやらを」
 物思いに耽っていたらしい砂川は「え」と虚を突かれて顔を上げ、表情を曇らせて「やめておいた方がいいと思います」と疲れたように首を振った。
「ドッペルゲンガー」と彼女は言った。
「もう一人の自分に会っても、いい結果にはならないです」
 まさか、と私は笑い飛ばしたが、砂川は本気で信じているようだった。彼女はこんなに迷信深い質だったろうか、と疑問に思いつつ、「大丈夫さ」と肩を叩いて先に歩き出す。もし砂川がついてこないようなら、ここで待っていてもらおうと思ったが、彼女は渋々ながらついてきた。
 日光彫の店からだらだらと伸びる坂道を上って行くと、左手に神橋が見える。
「神橋は、元は蛇だったと言われています。日光山開祖の勝道上人が川を渡る際、神仏に祈りを捧げたところ、巨大な二対の大蛇が橋となり、上人を対岸まで運んだのだと伝わっています」
 蛇、つまり龍神と川とは密接な関係があるな、と思って、確か日光二荒山神社に納められている祢々切丸という大刀、それも人の身では振り回せないほど巨大な刀が退治した祢々という妖怪も、水に関わる災いをもたらす妖怪だった。その人の振り回せない大刀をいかにして振るったのかというと、勝手に鞘から抜けて妖怪を斬ったのだそうだ。
 神橋を横目に過ぎて丁字路を渡り、階段を上って行く。石段を上りきると、広い場所に出て、その先に石畳の道が広がっている。
 その石畳の道を歩いていると、前方から修学旅行生らしい一群が密集してやってきて、道の真ん中から逸れる気配を見せなかった。そのため、私と砂川は避けようとして左右に分かれて避けてしまった。あっと思ったときには砂川の姿は高校生の波に飲み込まれて見えなくなってしまった。彼らが通り過ぎるのを待ってみると、そこに砂川の姿はなかった。
 あれっと、慌てて道に出て、高校生たちの後ろ姿を見やったが、そこには彼ら以外の影はなかった。砂川はどこに消えたのか、とスマホにかけてみても、電話は通じない。
 どこかで合流できるだろう、と私は気を取り直して広小路を追う。今のところそれらしい姿はなかった。
 石畳から、アスファルトへ、アスファルトから砂利敷きへと道が変わりながら歩いて行く。いくら爽やかな陽気とは言え、太陽を背にしてこうも歩き通しでは汗もかく。リュックから水筒を取り出して喉を鳴らして飲み、一息ついたところで再び追跡を始める。
 また前方から修学旅行生がやってくるが、セーラー服の女子高生数人組だ。私はさっと道の端に避けると、彼女たちをやり過ごす。そのとき、後方を歩いていた一人の女子生徒が私の顔をじっと見つめて、変な顔をした。驚きと悲しみと喜びが均等に混ぜ合わせられたような、そんな顔を。
 彼女は一人飛び出して、私の肩を掴むと「広小路さんですよね!」と鬼気迫るような剣幕で訊ねた。
 呆気にとられながらも、私は「い、いや、違います」と否定する。だが彼女はそれを信じず、「ううん、絶対に広小路さん。広小路さんなんでしょ、ねえ」と頑なに私が広小路だと主張した。
 私は彼女の圧力にたじろいでいたが、こうも広小路という男と間違われることに怒り心頭に発し、「いい加減にしてくれ」と声を荒げてしまった。
 すると彼女は顔をくしゃくしゃにして泣き出し、「どうしてそんなこと言うの、広小路さん」と私のシャツにすがりついた。
「広小路という男じゃないんだ」、私が絞り出すように言うと、周りで戸惑って見ていた彼女の同級生たちが、「すみません」と頭を下げながら彼女を引きずって行った。そして彼女は去り際に捨て台詞のように「あなたが広小路さんじゃないなら、誰が広小路さんなの」と血が滲むような擦り切れた声で叫んだ。
 広小路は結局見つからなかった。二荒山神社まで行ったところで手がかりが途絶え、周辺を歩き回って探したものの、誰もが私を広小路さんと呼び、本物の広小路は見つからず仕舞いだった。
 途方に暮れていると、消えてしまった砂川から電話があり、『白い街路』のことは明日また話すから、今日のところは用意した宿でゆっくり休んでほしいとのことだったので、お言葉に甘えて宿に向かうことにした。
 紫雲館というのが宿の名前で、街中に下りていったところにある小さな宿だった。砂川の名前で予約していることを伝えると、愛想のいい女将が出てきて、あれこれと宿の説明をしながら部屋へ案内してくれた。
 年季が入っている部屋だが、一人で寝る分には過不足なく、清掃が行き届いていて清潔感もあり、好印象な宿だった。しかも内風呂もあるが、大浴場もあるということで、私は早速荷解きをすると、着替えを持ち、大浴場へと向かった。
 大浴場は別館の方にあるらしく、臙脂のカーペット敷きの廊下をすたすたと歩きながら、別館の方へと渡って行く。廊下は薄暗く、ところどころ電球が切れているのか、間引いてあるのか、点いていなかった。薄い影が私について歩いてくるように感じた。
 脱衣所に着くと外光を取り入れているのか、廊下よりは明るくなった。さっさと脱いで浴場に向かい、掛け湯をして体を洗ってさあ、湯に浸かろうとしたところで、湯気の向こうに先客がいることに初めて気づいてぎょっとし、一瞬たじろいだものの構わず湯船に浸かる。
「ご旅行ですか」
 湯気の向こうから現れたのは長身の青年だった。私よりも一回りほど若そうだった。よく鍛え上げられているのか、水気を弾く肌は色つやがよく、腕や肩は細身ながら隆々として見えた。
「失礼。僕は一ノ瀬です。まあ、あてどもなくふらふらとする旅人みたいなものです」
 そう言って一ノ瀬は私の隣に腰を下ろした。
「水瀬です。ご推察のとおり旅行で」
「ははあ。お仕事は何を」
 私は本当のことを言うか悩んだが、「しがない物書き、小説家です」と白状することにした。この一ノ瀬という青年の胸襟を開いて何でもどうぞ、と言わんばかりの雰囲気に飲み込まれたということもあるし、また行きずりの青年に打ち明けてもなににもなるまいと思ったからでもある。
 打ち明けついでに、私はこの青年に広小路にまつわる気味の悪い今日一日の出来事を聞いてみようかしら、と思った。青年が答えを知っているとは思えないが、私は誰かに話したかった。砂川は何か思い当たることがある風だったが教えてはくれないし、他の地元の人間に言っても私を広小路だと指摘するだけで、何の指針にもならないだろう。同じ旅人である気安さが青年にはあった、それは否めない。
 実は、と切り出すと、青年はふんふんと聞いていたが、やがて話を聞き終わると腕を組んで、「それはかげみぼうですね」と言った。
「かげみぼう?」
「そうです。この地域に伝わる存在で、まあ、ドッペルゲンガーみたいなものですね。遭遇しなければ悪さはしませんが、かげみぼうと目が合った人間は死ぬと言われています」
 そう言えば、砂川もドッペルゲンガーだと口にしていた。
「なぜ私だったのでしょう?」
 青年はうーんと首を捻って考え込み、「これは憶測ですが」と前置きをして言う。
「かげみぼうは影の存在です。あなたの心に眠る、何か暗く濃い影のような思いに引き寄せられた、と考えることはできませんかね」
 私の脳裏に真理乃の姿が思い浮かんだ。だが私はそれを打ち消して、青年には「覚えがありませんね」と答えた。
 そうですか、と青年は肩を落としたが、湯を掬って顔をごしごしと洗い始めた。青年の腕の動きに伴って筋肉が密やかな躍動をしていた。濡れた髪が額に張り付き、湯をこぼす左手には指輪が見えた。
「奥様はご一緒ではないのですか」
 私がそう訊ねると、一ノ瀬は意外そうに顔を上げて、やがて思い至ったのか合点して、「ええ、一人旅です」と答えた。
「僕は仕事で心が破壊されちまいましたので、こうやって旅をしながら壊れた欠片を繋ぎ合わせて、修復している途中で。でも、別に不自然なことじゃないでしょう。ここ日光の文化財だって、何度も修繕されて今の姿を保っているんです。人間だって修繕する時間が必要なんだ」
 そうかもしれませんね、と私は頷く。一ノ瀬には彼にとっての広小路はいないようだ。話していてなんとなく分かる。あの付き纏われて抱く、ぬるりとした嫌悪感を覚えている様子が彼にはない。だがなぜだろう。一ノ瀬にはなくて、私にはある。
 白い服を着た少女が脳裏を行き過ぎる。そんな馬鹿な、と私は頭を振って打ち消す。
「そうだ。もしあなたの周りにいるのがかげみぼうだとしたら、絶対にかげみぼうを探してはだめです。それから、もしあなたを広小路か、と訊ねる質問をしてくる存在がいたとしたら、その質問に『はい』と答えてはだめです。嘘をつくことになっても『いいえ』と答えてください」
 湯でぐっしょりと濡れたハンドタオルで顔を拭きながら、一ノ瀬は湯から上がる。「それじゃあ、また」と微笑んで背を向けると、彼は浴場から出て行った。
 一ノ瀬を追うように私も湯から上がって出たが、そのときにはもう脱衣所に誰の姿もなかった。
 部屋に戻って間もなく夕食の時間となり、山菜や川魚に舌鼓を打って、酒も入ってほのかに気分よくなってきて、窓辺に立って夜の景色を眺めてみると、ごうごうと川が音をたてて流れるのは聞こえるのだが、肝心の川の姿は闇に飲まれてまるで見えないのだった。その音だけを聞いていると巨大な蛇、竜神が蠢きながら這い進んでいるように思えて、ぶるっと震えると寝床を整えて、さっさと布団に入ってしまった。
 一日中歩き回っていたからか、川の音は気になれど、眠気には抗えずに眠りに落ちていった。そして、体感では一、二時間くらいしか眠っていないようだったが、外が闇に沈んでいたため、あながちでたらめな時間でもないだろう。はっと目が覚めた。汗をびっしょりかいていて、部屋の中が異様に蒸し暑かった。エアコンは動いている音がするものの、温風が出ているのでは、と思うほどに暑かった。
 するとふと廊下の外に人の気配を感じた。板張りの廊下が、ぎ、ぎっと軋むのだ。軋んで、そして衣擦れの音がする。誰かがこの部屋の前を歩いている。しかも、歩いて通り過ぎるのではなく、行ったり来たりを繰り返しているのだ。私は汗でぐっしょりと濡れ、息苦しいほどに暑かったが布団の中に潜り込み、じっと息を殺した。
 こんな夜更けに誰であろうかと思ったが、宿の者の動きにしては不審である。ならば、きっとよからぬものに違いない、と思った。部屋には鍵がかかっている。心配はない、と思えど、本当に危険な存在だったとしたら、鍵の有無など物ともしないのでは、とも思った。
 やがてぴたり、と足音が止むと、ひどく遠慮深いささやかな強さで、扉をこん、こんと叩く。私は声を上げたくなるのを、手で押さえて押し留め、早く去ってくれるように願った。
「起きていらっしゃいますか、広小路さん」
 声は砂川のものだった。穏やかで、ごくさりげない風に装っているが、その声の響きに禍々しいものを私は感じた。それに、彼女が私を「広小路さん」などと呼ぶわけはない。
 私は無視を決め込むことにした。寝たふりをすればきっと諦めて立ち去ってくれるだろうと思ったのだ。
 ところが声の主は立ち去る素振りも見せず、鍵のかかった扉をがたがたと揺さぶり始めた。
「起きているのは分かっていますよ、広小路さん」
 がたがた、がたがた。扉が激しく揺れる。だがその騒々しさに反して、誰かがやってくるような雰囲気はない。まるでこの宿の中には私と、扉の外の怪異しかいないかのように。
「広小路さん、あなたは広小路さんでしょう」
 声が私に向かって広小路だと叫んだ、昼間の女子高生の声になる。
「どうして、あなたが広小路だと認めないの」
 真理乃の声だった。二十五年経っても忘れようものか。紛れもない真理乃の声だった。彼女の声で言われると、そうだったのかもしれないという気になってくる。誰もが私を広小路だと言う。つまり私が水瀬であるという認識の方が間違っていて、彼らの方が正しいのだとしたら。そうしたら辻褄があってくるのではないか。
 ふっと気が緩んで、「はい」と答えそうになって慌てて口を噤む。たとえどんなに小さな声であったとしても、怪異は聞きとがめて欣喜雀躍するだろう。そうはさせるものか。
 大浴場で会った一ノ瀬の言葉を思い出す。必ず「いいえ」と答えろと言っていた。つまり沈黙もまた正解ではないということだ。
「あなたが広小路なのよ」
 悲しむような真理乃の声に、胸を締め付けられる思いをしながらも、私ははっきりと「いいえ」と答える。
 すると扉の外の怪異が怯んだのが分かる。口調を和らげながら、「あなたは広小路さんよね?」と断定する口調から疑問形に変化する。そこへも即座に「いいえ」と答える。
 がたがたと揺らしていた扉の音が静かになる。
「あなたは広小路さんではないのね?」
 思わず「はい」と答えそうになって口を押える。扉が再びがたがたと音をたてる。一ノ瀬は言っていた。嘘を吐くことになっても「いいえ」だと。
「いいえ」と私がはっきりと答えると、扉の外がしんと静まり返る。怪異は去ったか、と思い安堵していると、私の声音で「お前は水瀬だな?」と訊くので、「いいえ!」と斬り捨てるように言い放つと、それっきり外は静かになった。
 安堵したと思ったら翌朝になっていた。
 正直寝た気はしなくて、朝から欠伸だらけだったが、旅装を整えてロビーに下りていくと、女将が出迎えてくれるのでチェックアウトの手続きをする。そこで昨晩一ノ瀬の助言のおかげで命拾いしたことを思い出し、女将に一ノ瀬はもう出発したか訊くと怪訝そうに首を傾げるので、こちらも疑問に思って首を傾げる。
「一ノ瀬という若い男が一人で泊まっていませんか」
「いいえ。お一人様のお客様は水瀬様だけですよ。一ノ瀬という方には覚えがありませんねえ」
 何かぞっとしないものを感じて私は手早くチェックアウトを済ませると宿を出た。
 広小路という私そっくりな男とかげみぼう。そして一ノ瀬という助言者。これがどう関わってくるのか、考えるだけで気分に暗雲が立ち込めそうなので、首を振って考えを振り払い、待ち合わせをするべく、砂川へと電話をかける。

〈続く〉

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