メランジェ・アンサンブル【短編小説】
私は料理するのが大嫌いだ。
料理をするくらいなら、UberEATSのような宅配を頼みたいと思うし、なんなら家政婦を雇って料理を作ってもらいたいとも考える。
でも、周りにはそれが理解しがたいらしい。
料理というのは、素晴らしいものである。
私も食べるのが大好きだし、美味しいものを食べたときは幸せを感じる。
それに、毎日のように美味しいものを食べたいと感じるし、好みではないものは、もちろん食べたくない。
自分が好きなものは、タン塩やハンバーグ。
嫌いなものは、ピーマンやナス。そして野菜類。
子どもっぽいと言われるが、どうも野菜を好きになれない。
なんなら、中学生までは野菜のことを「雑草」とまで呼んでいた時期があった。
ただ、キャベツは嫌いだがレタスは好きだった。
そして、なにより私はマヨネーズが好きで、大学にも小さなマヨネーズを持っていくほどだ。(いわゆるマヨラー)
そんな話はさておき。
料理というものは芸術作品とも呼ばれている。
いまは、ゆうに1000円を超えるパフェもあるし
なんなら1万円近いパフェも存在する。
それに、有名シェフの料理コースだって
一瞬迷ってしまうほど値が張るものが多い。
ビジネスの世界に足を踏み入れると、経営者は口を揃えて必ず「価値あるものにお金をだすべきだ」と言う。
しかし、価値あるのものの「価値」は千差満別だ。
それなのにも関わらず、SNSを見てみると
『なぜ、その価値に気が付かないんだ』
『この価値に、なぜ魅力を感じないのか』
と、言わんばかりに同じような写真が並んでいる。(別に、どうでもいいことだが。)
このような「価値の押しつけ」は、毎日のように行われている。
それこそ、料理を作ることに価値があるように。
別に「食べる専門でも構わない」という人もたくさんいる。
しかし、心のどこかでは「手料理を食べたい」という人が多いのではないだろうか。
究極を言ってしまうと
いつでも、誰かしらの手料理を食べたい
というものだ。
だからこそ、結婚をしたら「手料理を食べられる」と思っている人が多いし、料理を家で作ることが当たり前となっている。
また、どこかに食べに行くのも
料理人の手料理を食べたいという心理が働いているのだ。
ここまで読んだ方は、こいつ何を言っているんだ。
そう感じたに違いない。
料理というのは、誰かが作るからこそ完成するものであり、今のところ料理人か友人・知り合い・家族のどれかであろう。
それなのにも関わらず、私は永遠と「手料理を食べたい心理が働くから、料理を作ることが当たり前になっている」と言っているのだ。
さぞ、それが当たり前のように。
では、話を戻そう。
私は料理がすることが嫌い。
もちろん、自分で作ったことはあるが、不味すぎて食べられたものではない。
それに、小さい頃に目玉焼きを作って弟たちに食べさせたら、お腹を下させて泣かせるほど才能がない。
また、その後の皿洗いや皿拭きも面倒臭くて嫌いだ。
これを言うと、相手に嫌な顔をされる。
もしくは「大丈夫、俺が作るから」と、保証もされない言葉が届けられる。
正直に言ったことで、こちらが嫌な想いをするくらいならお金を払った方がいいに決まっている。
だが、この言葉も相手を不快にするらしい。
「そのような考えに至るのは、お金持ちの発想だね」
いつから、家では料理を作らないといけなくなったのだ。
学生の頃、このイライラを料理というジャンルを生み出した縄文時代の人々にぶつけていた。
もちろん、料理というジャンルができたのが縄文時代かどうかは分からないし、本人がいないのに(いたら怖いが)イライラをぶつけることもできない。
しかし、あの頃は。
自分の中にフツフツと湧き出てくるイライラを縄文時代の人たちにぶつけることしかできなかったのだ。(明らかに八つ当たりなのだが)
あなたは、これを読んで何を感じ、何を思う。
読んだ時間が無駄になったと憤慨する人もいる中で
この文章に少しの同意を抱いた方もいるのではないだろうか。
あなたのその思いは、今後何かに生かされることはないだろう。
ただ、きっとその経験と想いは
あなたの人生とともに混ざりあっていくだろう。
この小説は、村上春樹さんよ『一人称単数』を読んだ後に執筆しました。
めちゃオススメなので、読んでみてください。
特に、p23の歌集が好きです。
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