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株式会社ReNARIO UTUWA 写真を撮る BUMP OF CHICKENが好き。

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最近の記事

何かを変えるということ

あっという間に1月も終わりましたね。 なんて前回の投稿から約1年近く経ってしまいました。 2月の頭に書きはじめて、今日は既にバレンタインです。(1年前も似たようなことを言っていた気が…) お風呂に浸かりながら、「あぁ1日が終わるなぁ」と思うことが日に日に増えた気がします。時間の惜しさに改めて気づいたのかもしれません。 それと同時に、何かを為せた実感のない、漠然とした焦燥感にかられることも増えました。おそらく自分に対するハードル、要求が高すぎるのが原因だとは思います。自分

    • 久しさ。愛おしさ。

      これを書き始めたのはバレンタインである2月14日。 「また月曜日が始まってしまう」と、少し陰鬱になりながらも、 生きていくためには仕方がないと、犬歯がすり減るくらい歯を食いしばってやっている。(実際すり減っている。涙) 別に仕事が嫌いなわけでもないし、人間関係的にしんどいとかってわけでもないと思う。(たぶん。) ただ言葉に敏感だから、なんてことない一言とかに良くも悪くも左右されるところで、メンタル的にくることはある。 リアルガチで6年ぶりくらいに、中学時代からの友人とご飯

      • ファスト化の良し悪し

        食べ物や衣服だけでなく、いろんなものがファスト化している気がする。 ずっと昔から言われているのかもしれないけれど、 このままでだいじょうぶなのかなぁ、と漠然とした不安にかられる時がままある。 なぜこんな事を思うのかというと、 ある写真家さんがコメントと共に写真を現像してくれる企画の中で、 「写真家さんの写真集や映画を見てみて」というコメントが多かったから。 まぁその中にも良し悪しはあるのだと思うけれど、 「好きなものをじっくりと味わい尽くして」という意味だと思っている。

        • ありのままの君でいて

          どこかのアーティストが歌っていそうなタイトルだ。 なんでそういて欲しいのか、そこでのその人の意図は量りかねるが、 ここ数年、特にここ数ヶ月でその意味をよく考えて、 行動変容までに至っている(完全とは言えないが)ので、 きっと今の時点での(絶対的な正解は無く、変容し得るから)、正しい理解ができていると思っている。 僕たちは大人も子供も須く、他人の「驚き」を楽しむ傾向にある。 篠原 信さんのnoteを見ていて、また自分の経験からしてもそうであるように思う。 人間というものは根

        何かを変えるということ

          とんでもないことが起きた話。

          2022年1月30日(日)、朝起きて、とんでもないことが起きた。 ここで書いたのだけど、写真家の幡野広志さんに、ダメ元で写真を送らせていただいた。 アクションをすることで、やらない後悔を生みたくなかったから。 そしてなんとなくいつも通り開いたTwitter。 DMに1件の通知。 心拍数がありえないくらいに上がる。 「現像の色のトーンはいいんじゃないですかね。」 そう始まった幡野さんのコメント。とんでもないことが起きてしまった。 一行一行、一言一言を噛み締めるように読ん

          とんでもないことが起きた話。

          「生きたい」と「死にたい」の狭間で

          「死にたい」と思ったことはあるだろうか。 逆に「生きたい」と思ったことはあるだろうか。 僕は多分、ほぼ同時にそれらを思ったことがある。 なぜなら表裏一体だったから。 僕が本気でそれを思ったのは思春期真っ只中、中学生2~3年らへん。 所謂中二病ってやつか。 多分、はたから見たらそういう風に見えたともう。 僕がこうして懐古していても、多少はそういう風に思うところはある。 だけど当時は本気でいろんなことがあって、 本気で嫌になっちゃったんだと思う。 人の目を気にしないと、模範で

          「生きたい」と「死にたい」の狭間で

          「自分本位」であることのハードルと一歩踏み出す勇気

          本当につい昨日、僕はある決断と行動をした。 僕は性格というか性質上、人の目とか人の状況(表情、雰囲気、関係性)とかをすごく気にしてしまう。 多分察する能力値はそこそこに高い。 だからこそ困る場面はままある。 例えば職場で、すぐに伝えた方がいい情報があったとして、「でも今あの人忙しそうだし、良いタイミングで…」といった感じで。 そのタイムラグのせいで、プラスにできたものがゼロもしくはマイナスになってしまうことがあった。 企業というグループのプラスを考えれば、僕は圧倒的に使

          「自分本位」であることのハードルと一歩踏み出す勇気

          逃げた記憶

          学生時代、それが楽しくて仕方がなかった。 音楽活動、バンド活動。 初めはただの憧れだった。 物心ついた時から好きだったBUMP OF CHICKENに影響され、 中学1年生の誕生日に、これが最後という制約と誓約から、 アコースティックギターを買ってもらった。 ギターコードのサイトを調べ、YouTubeでMVとか音源を探して、 それに合わせて弾き語りするのが、どんなゲームより楽しかった。 学校の理不尽さをそこにのせた日もあった。うるさいと親に怒られもした。 厨二病。それで

          逃げた記憶

          「つながり」という光

          「私は一人では生きていけない。」 得てして生き物というのは、他の存在との関係性の中でしか 自らの存在を確立し得ないと思っている。 人間という生き物は、特に「自己」「自我」というものの認識が大きい。 それはつまり、社会的な存在、他者との関係性が色濃いものであるという側面を持ち合わせているということだと思う。 親子、友人、先生、職場、趣味。これらは、あなたを、僕を形成する比較的わかりやすいコミュニティだ。 ただ、関係性というのは目に見えるものだけではない。 僕が、あなたが

          「つながり」という光

          「先生」なんて要らない

          僕たちが「講師」を嫌う理由。 「先生」や「講師」と言った言葉は危うさを持つ。 その言葉は絶大な力を持つ。 その人から発せられる言葉によって、盲目になり得る。 「これは、あの先生が言っているから正しい。」 「あの人が言うのだから間違いない。」 疑問が消えていってしまう要因の一つだと思う。 「これはまだ習っていないから使っちゃいけません。」 「模範解答とは違うので減点です。」 「言った通りにやりなさい。」 「こんなものもわからないのか。」…etc 先生の威厳は保たれ

          「先生」なんて要らない

          子供達の呪縛を解く

          僕は地元茨城で小さな学習塾の講師をしている。 「塾」という呼び名は相応しくないかもしれない。 「講師」というのも適切な表現ではない。 所謂「塾」が行うような授業なんかはないし、「教える」という行為を嫌う。 何をサービスとして売っているのかと言われると、確かに難しい。「対話」だろうか。 とはいえ、高校・大学受験生もしっかり通っている。実績も規模を考えれば相当なものだと思う。 だが公表していない。なぜか。 その実績は塾のものではない。その子のものだから。 あとは、結果にあま

          子供達の呪縛を解く

          「自分と相手は違う」という認識

          前回に引き続き、2021年の振り返り、思い出しを。 2020年の年末頃に結婚をした。1年間過ごしてみて。 学生時代に考えた所謂「結婚生活」とは多少イメージは違うものの、 カルチャーショックを受けるほどでもなく、あっさりとした感じだ。 書類を出したら、婚姻契約が結ばれるんだもん。 責任がどうとか、あるかもしれないけれど、子供もまだだから実感は薄いかもしれない。「俺が食わしていくんだ!」ってほどの活力に至っていない。(一般的には一緒になりたくない類の人間かもしれない。笑)

          「自分と相手は違う」という認識

          当たり前を愛おしく

          2022年もすでに2週目である。 何か新しいことを始めるにしては少しばかり出遅れた感は否めないが、 特に昨年から色々と考えることや深さが増したような気もする(一般的には「今更気付くのソレ!?」となるかもしれないが)ので、 自分の思考を整理すること、軌跡を残しておくという自分勝手な日記、それこそ"notebook"として置いておこう。 2021年を1つの記事で振り返ろうと思うと、思うところが多すぎて結局何を言いたいのかわからなくなりそうなので、数回・エピソードごとに分けてい

          当たり前を愛おしく