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「生きたい」と「死にたい」の狭間で


「死にたい」と思ったことはあるだろうか。
逆に「生きたい」と思ったことはあるだろうか。
僕は多分、ほぼ同時にそれらを思ったことがある。
なぜなら表裏一体だったから。


僕が本気でそれを思ったのは思春期真っ只中、中学生2~3年らへん。
所謂中二病ってやつか。

多分、はたから見たらそういう風に見えたともう。
僕がこうして懐古していても、多少はそういう風に思うところはある。
だけど当時は本気でいろんなことがあって、
本気で嫌になっちゃったんだと思う。
人の目を気にしないと、模範でいないと、〇〇できるようになっていないと…。イメージやレッテルが一人歩きして、息が詰まって仕方がない。

たかだか14~15歳で社会の厳しさも知らずに、健康で文化的な生活を送っている一般市民が何を言ってんだろうと思う大人もいることでしょう。
でも自分と相手って違う人間で、そこに大人も子供もないと思うから。その子にとってはしんどいのは本当なんだよね。
そう言う大人が作った社会の中で生きてんだから、大人も子供も大して差はないとも。

クソみたいな理不尽に晒されてたと思うし、空気読めちゃういい子ちゃんだった当時の自分は、そういうのに呆れちゃったんだと思うし、期待しなくなっちゃったんだと思う。
んで、諸々の出来事と重なって、「あ、無理だ。」って思った。

いろんなことを考えた。
行動してしまったこともあった。

そして思ったことだ、それでも生きていたいんだなと。

そして「HAPPY」という曲に出逢った。



悲しみは消えると言うなら 喜びだってそういうものだろう 
           BUMP OF CHICKEN「HAPPY」作詞:藤原 基央

どんな感情も、思い出も、忘れてしまうことがある。
忘れたくないと思っていても、そのままを残しておくことは難しい。
無くしてしまうことを憂うのではなく、「あったんだよ」「ここにいたんだよ」と君のそばにいて、いつかの必要な時までずっと寄り添ってくれる。


終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる
             BUMP OF CHICKEN「HAPPY」作詞:藤原 基央
続きをすすむ恐怖の途中 続きがくれる勇気にも出会う
             BUMP OF CHICKEN「HAPPY」作詞:藤原 基央

ものすごく残酷で、ものすごく愛に溢れた言葉だと思う。
「生」や「死」は誰が、何が、そうであるのかと言うのは誰にもわからない。
お互いに「未知」であることの恐怖や希望を包含していることへの気づきだ。


消えない悲しみがあるなら 生き続ける意味だってあるだろう
             BUMP OF CHICKEN「HAPPY」作詞:藤原 基央

「消えない悲しみ」残った傷で思い出されることはそれだけじゃない。
きっとそれを塞いでくれた、愛や温もりや思い出だって、消えないまま残るんだろう。
そしてそれを抱えることが、「生きる」ってことなんじゃないか。
あったかいことだけじゃないし、冷たいことだけでもない。


どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう
             BUMP OF CHICKEN「HAPPY」作詞:藤原 基央

「生まれた」ものは、もれなく「終わり」が付けられる。
"Happy Birthday" 疑いもなく、僕らはセットで使うけど、どうだろう。
終わる運命を抱えていて、それ自体は残酷で、怖くて、立ち止まってしまうこともある。
だけど、そうして感じることができること、また逆に出会える喜びや笑顔や勇気や出来事だって疑いようなく存在する。
だからこそ、今この瞬間だけでも、一呼吸だけでも、「一緒にいたよね」「君はちゃんといたよ」っていう、いつでもそばにいてくれる思いを歌ってくれているんだと思う。
それに対する"HAPPY"であると願いたい。


なんか考察の記事みたいになってしまったけど、そんなつもりはなくて。
死生観的な話をする機会があったので、思い出したらこんなことになってしまって。笑



綺麗事も詰まっているように感じれるけど、
自分の「生」も「死」も自分のものだ。
あなたの人生はあなただけのもので、僕の人生は僕だけのものだ。
その時までを如何にするかは、自由だ。
物事には表裏があること、それを見失わないように
君だけの、僕だけの1日,1時間,1分,1秒を愛おしいと思える存在であるように、願うばかりだ。




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