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子供達の呪縛を解く

僕は地元茨城で小さな学習塾の講師をしている。

「塾」という呼び名は相応しくないかもしれない。
「講師」というのも適切な表現ではない。
所謂「塾」が行うような授業なんかはないし、「教える」という行為を嫌う。
何をサービスとして売っているのかと言われると、確かに難しい。「対話」だろうか。

とはいえ、高校・大学受験生もしっかり通っている。実績も規模を考えれば相当なものだと思う。
だが公表していない。なぜか。

その実績は塾のものではない。その子のものだから。
あとは、結果にあまり拘っていない、というのもある。
子供達が自ら選択し、その責任を負ったことの方が、その先の人生を考えた時に遥かに重要な学びになると考えているから。


僕らの理念は、「子供達が幸せな人生を生きること」だ。

幸せの定義は子供達自身で行う。


だけど、子供達は自分自身でそれを決めることが難しい。
幸せどころか、明日の計画、今何をしたいのか、自分の食べたいものすら決めるのが難しいことだってある。

彼ら彼女らに干渉する人間、親や先生が選択肢を押し付ける。
社会全体が「普通」を作り出し、「普通」を定義する。

そうしていつの間にかそうすることが当たり前となって。
自らの意志と洗脳ブレインコントロールの区別がつかなくなる。
そしていざ生の選択肢が置かれると、何もできなくなる。


かくいう僕も、そんな受動人間の一人だ。学校教育の賜。
それがようやくイルミの針みたいな呪縛から解き放たれそうな感じ。



もっと自分のしたいことに貪欲でいい。
そのために動くことができる主体性の中に、未来があると信じている。



血が繋がっていたって、何百時間一緒にいたって、あなたと私は違う人間だ。生きてる時代も環境も違う。あなたのやり方が、私のやり方が、今この時代に、他人で効果を発揮する保証はどこにもない。

また「一般的」や「普通」とはそもそもなんだろうか?
それこそ時代や環境によって大きく変わり得るものだし、仮に多数派というものがあったとして、完全に同じ思考でいることはあり得ない。



だから、主体的な活動をするためのステップとして、自分で何をやりたいのかを決めて、その活動をする。

そのために、たくさん話をする。今の、その時のその子から始める。

ゲームでも、寝ることでも、資格の勉強でも、その子が決めたことなら。
そして、その選択と責任を子供自身が負う。
その選択の結果は紛れもなく、自分のものである。

そうした主体的な経験にこそ学びがあって、改善点を見つけ、計画し、実行することで、彼ら彼女らの身になっていくんだと思う。



理想だろうか。
絵空事だろうか。
逃げだろうか。



子供達はあなたたちのペットではない。人形でもない。アクセサリーでもない。上下もない。対等な「人」として、等しく存在している。



そう思って、今日も君と対話する。

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