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【フォーマルな場では自分を演じる】詩人・韋応物が爪を隠して伝えたかった事とは?
本当の自分を隠したことはありますか?
私は、自分を演じてばかりだったと思います。
両親の前・友達・同僚…それぞれに対するのは、
それぞれ別の私です。
そしてどの私も、好きになれませんでした。
複数の人格があることが異常なこと、
良くないことだと思いながらも
やはりいくつかの私を使い分ける日々。
どうして私を使い分けてしまうのか。
誰に対しても、
同じように接することはできないのか。
今回紹介する漢詩は、
自然の描写に長けていると有名な
詩人・韋応物が、宴の席で詠んだ政治的な詩です。
彼はどうして、
自分が好きな自然の美しさではなく
政治的な思想の詩を披露したのでしょうか。
詩の日本語訳から、
彼の真意を読み解きます。
韋応物:郡斎中の雨、諸文士と燕集す
郡斋雨中与诸文士燕集
韦应物
兵卫森画戟,燕寝凝清香。
海上风雨至,逍遥池阁凉。
烦疴近消散,嘉宾复满堂。
自惭居处崇,未瞻斯民康。
理会是非遣,性达形迹忘。
鲜肥属时禁,蔬果幸见尝。
俯饮一杯酒,仰聆金玉章。
神欢体自轻,意欲凌风翔。
吴中盛文史,群彦今汪洋。
方知大藩地,岂曰财赋强。
【書き下し文】
兵衛 画戟森たり
宴寝 清香を凝らす
海上より風雨至り
逍遙すれば池閣涼し
煩痾 近く消散し
嘉賓 復堂に満る
自ら慚づ 居る処の崇きを
未だ斯の民の康きを瞻ず
理 会して 是非を遣り
性 達して形迹を忘る
鮮肥 時の禁に属すれども
蔬果 幸いに嘗められよ
俯して一杯の酒を飲み
仰いで金玉の章を聆く
神 歓んで 体 自ずから軽く
意 風を凌いで翔けらむと欲す
呉中 文史盛んに
羣彦 今汪洋たり
方に知る 大藩の地
豈 財賦の強るとのみ曰わむや
【日本語訳】
おもてには衛士の武器がおごそかに列んでいるが
奥の座敷には清香がたきこめてある
海上からあめかぜが訪れて
池辺のやかたはのどかに涼しい
病いもやっと癒えて
こよいは嘉き客がまた堂に満ちた
顧みれば高い地位を汚している我身こそ愧しい
民はいまなお安らぎを得ていないのだ
ああ それを思えば
自然の理を会得して人の世の是非をなげうち心に達観して物我の形迹を忘れたい
暑熱の今とて鮮魚と肥肉は用いられぬが
幸いに野菜や果物を味わいたまえ
俯して一杯の酒をくみ
仰いで諸君の名作を聴こう
心たのしめば身体も軽く
風に乗って空かけるような気持だ
蘇州はがんらい文化の地
多くの文士がここに集まる
されば知るこの大城市は
財が豊かなばかりではないことを
【解説】
当時、韋応物は蘇州の刺史でした。
ある雨の日に、刺史の官舎に蘇州の文士たちを招いて宴を開いたときの詩です。
詩のはじめは郡斎に嘉客を招いたこと、
次に刺史として、未だ民に平穏な生活を与えることができていない自分を恥じ、
最後に嘉客に対する謙虚な言葉で終えています。
高い志を持つ韋応物の詩ですが、
本来、彼は『春眠暁を覚えず』の孟浩然と並び
自然の美しさを歌う詩風の人です。
【考察】得意分野を封印した理由
自然派の詩人・韋応物は、
どうして自分が得意としている詩風ではなく
やや政治的な内容の歌を詠んだのか。
詩末の2句から、考察してみます。
吴中盛文史,群彦今汪洋。
水が湧き出るように才能のある者で溢れている。
方知大藩地,岂曰财赋强。
この時の宴に招いた文士とは、
官僚ではなく、文筆家や文書家の人たちです。
決して裕福とはいえない人もいます。
宴の中では、文士たちも詩を披露するでしょう。
彼らの詩は必ずしも雅な自然を歌うだけではなく、
生活の苦しみを織り交ぜた内容もあるはずです。
韋応物は、そんな彼らに寄り添いたい、
刺史として民の暮らしが良くなるよう努力したい、
という気持ちで詩を詠んだのではないかと
私は考えました。
文士たちはもちろん、
韋応物がどんな詩を詠むのか知っているはずです。
しかし韋応物は、自分の詠みたい詩ではなく
文士たちの気持ちに寄り添った詩を披露します。
韋応物の詩風を知っている文士たちは、
きっと心を動かされたでしょう。
滲み出る澄淡精緻
澄淡精緻は、澄み切っていて繊細という意味です。
客人の文士たちに寄り添った詩を披露した
韋応物ですが、やはり澄淡精緻と評される
詩風が垣間見える表現があります。
海上风雨至,逍遥池阁凉。
視覚で認識できない風の様子が、
まるで目に浮かぶような、美しい表現です。
さらに館に流れる、涼しくのんびりとした風を
感じることができます。
演じた自分も、自分自身。
自分を演じることと、
自分を偽ることは少し違うと思っています。
「演じた」自分は
自分自身の優しさや思いやりが生み出したものです。
たとえそれが
「自分が好きになれない私」だとしても。
私が韋応物の詩から伝わったのは、
どんな自分も自分であり
それは相手を思う気持ちから
くるものだということ。
詩風を変えてまで、韋応物は
刺史としての気持ちを伝えたかったのです。
決して「良い」「悪い」というモノサシで
判断することはできません。
ひとつ言えることは、
自然の美しさを歌うのも、
民を思いやる気持ちを詠うのも、
韋応物自身だということです。
様々な私を使い分けるのは、
決して悪いことではないのかもしれません。
両親・友達・同僚…それぞれ性格が違うのだから、
それぞれに適した対応をするのは当然です。
韋応物の漢詩から気づいたことは
あまり悩まずに、様々な私を認めてあげること。
演じた自分も、自分自身なのだから。
それが私の、優しさなのだから。
参考書籍 中华书局经典教育研究中心:唐诗三百首诵读本(插图版) (Chinese Edition)
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