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28歳までフリーターだった僕がコンサルタントになるまで④

こんにちは。
「ビジネスを再構築するスペシャリスト(BM設計士)」
熱海隆史(あつみ たかふみ)です!

前回までの記事の続きです。

28歳までフリーターだった僕がコンサルタントになるまで①

28歳までフリーターだった僕がコンサルタントになるまで②

28歳までフリーターだった僕がコンサルタントになるまで③

ブラック企業で事業部内リストラに遭った僕に、
地域活性化の新規事業のアドバイザーであり
コンサルタントであるMさんが救いの手を差し出したところで、

僕のどん底人生は底を打ちました。

「こいつはほんとに何もない。
こいつはほんとに真面目だけど、なにもない。
だからなんとかしてあげたいと思った」

と、Mさんが当時を振り返って言うほど
「なにもない」僕を
気にかけてくれたMさん。

「もう、こんなチャンスはないだろう」

僕の中の「必死」にスイッチがはいり、
猛烈に動き始めました。

コンサルティング業もなにもわからないことだらけです。

実力も能力もなにもない。

それでも必死でくらいついて、
死ぬほど考えて死ぬほど動きまくることは出来る。

「なにもない」から、
全部に対して捨て身になって動きました。

正直、この期間のことは記憶もあいまいで
ほとんど憶えていません。

半年たって、上からの指示により広島に出向することになりました。

といっても、なんの段取りもありません。

なんの伝手もありません。

広島で住む部屋は、広島に到着した日に
不動産屋で下見もしないまま契約しました。

管理する人も、アドバイスもほぼない。

「自分で切り開かない限り、なにも起きない」状況が
そこにはありました。

それで、自分でセミナーを開催してみたり、
いろんな人に会いにいったり、
思いつくあらゆることをやっていきました。

お世話になった人が「仕事で博多にいく」と聞けば、
自腹で広島から会いにいき、

「どうしたら事業がうまくいくか」

相談しに行ったこともありました。

僕が関わっていたのは新規事業。

現時点で儲かってないうえに、人件費もかかる。

経費もあってないようなものだったので、
自分のお金を持ち出して、
考えつくことはなんでもやるしかない状況でしたが、

それでもかまわない、と

突破口を探し出す日々は続きました。

この頃の僕を支えていたのは「必死感」だったように思います。

始めたころはまったく感触のなかったセミナーも、
数をこなしいろんな人のアドバイスを受け入れ
改善を重ねるうちに、
うまくいきはじめ、

案件がとれるようになっていきました。

体一つでいろんな場所に飛び込み、
当初なんの伝手もなかった広島の地ですこしずつ、
地元の人たちと関係ができていきました。

動きながら考えて、考えながら動く。

それを繰り返しているうち、
やたら必死な僕を
面白がってくれる人たちとの出会いにもいきつきました。

この新規事業は、広島以外の地域でも同時進行していました。

会社が想定していたモデルでは10地域。

浅草、小倉、熊本、博多、沖縄など、
いろんなところでプロジェクトが行われましたが、

そのなかで成功したといえるのは、小倉と広島くらいでした。

プロジェクトを総合的にとらえると、
失敗したと言えます。

僕の担当した広島での事業はうまくいっていたけれど、
全体でみるとめちゃくちゃ儲かっていないと採算がとれません。

会社判断で、広島での新規事業は
10ヶ月くらいでやめて引き上げることになり、Mさんに

「うちの事業、なくなることになったんです」

そう伝えると、

「おまえはどうするんだ?」

と訊かれました。

当時の僕は、
広島でネットショップを始めようとしていたクライアントさんがいたので、
広島を離れることに強い抵抗感がありました。

その方は、営業マンとしての僕の、
いちばん最初のお客さんだったんです。

僕と出会ったことをきっかけに

「ネットショップを始めよう!」

と決断してくださった社長だったので、
心情的にどうしても広島を離れたくないと思っていました。

そのことを、正直にMさんに打ち明けました。

「ウチの会社にきたら、その人と仕事できるかもしれないぞ。来るか?」
「行きます」

即答しました。

そこから僕はMさんのカバン持ちになり、
再びMさんの下で働くことに。

秘書。

カバン持ち。

コンサル見習い。

肩書きはともあれ、広島の仕事を続けながら、
Mさんについて全国をまわる生活が始まったのです。

Mさんの会社にはいって、
家族より長い時間一緒に過ごした2年弱。

そこから僕の

「なりゆきじゃない」

人生がスタートしたような気がします。

Mさんの会社は、東京の浜松町にありました。
広島にいったときと同様、身一つで東京へ。

不思議と、なんとかなるだろうという気持ちがありました。

とはいえ、Mさんの会社に入って
周囲の環境はよくなっても、
相変わらず僕のなかでは何の自信はなく、
実績といえるほどのものもない

「ないないづくし」。

だからか、「必死」さはずっと持ち続けていました。

「俺にはなにもない」
「こんなチャンスも、二度とない」

捨て身になって徹底的に、
できないことをできるようになるまで、
積み重ねていきました。

このときの状況は、まさに

「Mさんに拾ってもらった」

感覚に近いです。

あとで知ったのですが、
Mさんの会社は上場会社のグループ会社で、
Mさんひとりの一存で僕の入社を決められる立場ではなかったそうです。

しかも当時の会社の業績は明るくなく、
新しい人材(僕)を入れたり
ましてや新しくコンサルティング事業を
立ち上げるタイミングじゃない、と
Mさん以外の人が反対するなか、

Mさんの熱意で僕が入ることになったとのこと。

ほとんど博打に近い状態のなか、
Mさんと僕だけがコンサルティング事業を立ち上げようとしていました。

まわりは反対していて応援は頼めないなか、
なんとか数字を回そうと2人で全国を奔走する日々が始まりました。

やってみて気づいたのですが、
僕の気質は

「好きな人のためなら徹底的にやる」タイプ。

実力のない僕は、
凄腕コンサルタントのMさんに必死にくらいついていくため、

企画担当であり
秘書であり
営業であり
運転手であり
裏方であり

ありとあらゆる仕事をやりました。

仕事の移動中、
車のなかでいろんな話をしました。

プライベートな話もしたけれど、
ほとんどがクライアントの話、仕事の話。

どうやったらうまくいくんだろうなぁ、
とああでもないこうでもないと
二人で話しながら目的地に向かって車を走らせていました。

当時の僕たち2人を知っている人から、

よく

「あなた達はまるきりタイプが真逆で、いいコンビだね」

と言われていたほどです。

広島での仕事が残っていたので
マンションの一室を残したまま
東京に出てきていたので東京にいる間は、
会社の事務所で椅子を3つ並べて寝ていました。

風呂は近くのカプセルホテルで済ませ、
他の日々は全国の出張についていくような日々。

人生のなかで一番といっていいほど、

「目の前のこと」

に集中していた時期でした。

こちらの記事に続きます。↓


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