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【エッセイ】たません。

#忘れられない先生

 という公募を見つけて、ふと考えた。正直なところ、学校や先生と呼ばれる場所や人に良い思い出があまりない。なくはないが、少ない。忘れようと努めてきた、そんなことばかりだ。おそらく、良い思い出を数えようとしても、片手に、いや、ピースサインをつくれば椅子が埋まってしまえるほどにしかない。
 玉村先生は僕が小6のときの担任の先生だった。あのころの僕には、まだ子供だった僕にはずいぶん大人に見えたけれど、そのとき、先生はまだ20代の半ばだった。いまになれば、まだ若い女性だった。おそらく、経験を積むほどの時間もなく担任になったはずだ。先生は「初めて担任になった」と笑っていたから。
 玉村先生はひまわりのように明るい、前向きな先生だった、癖毛なのかパーマなのか、いまになってはどちらであったかわからないが、肩に届くくらいの茶色い髪は毛先がゆるくカールし、風が吹けば、その曲線が揺れていた。身長も高いし(先生より小柄な男性教師も多かった)、失礼ながら、なかなかふくよかな、大きな人だった。豪快に笑って、豪快に僕たち生徒を叱咤激励し、そして、生徒たちと一緒に本気で泣いてしまう人だった。
 僕たち6年3組の生徒たちは、きっと、全員が先生のことを大好きだった。僕たち子供と同じ視点に立って、一生懸命に1年間を過ごしていたとよく憶えている。

 僕はいつも登校日数に問題を抱える子供だった。冬になれば風邪をこじらせて十日ほど休んだし、そもそも、そんな不都合がなくても、気分次第で欠席していた。集団生活に慣れることができなかったし、学校そのものが好きではなかった。なので、理由がなくても平気で休んでいた。
「出て行け」などと怒鳴ろうものなら、本当にどこか遠くへ行ってしまうような子供だったので(このころ、高速道路を自転車で移動したこともある)、少しずつ、僕の不登校は黙認されつつあった。それはそのクラスにいたときでもそれほど変化なかったが、玉村先生は僕の成績に「5」をつけてくれていた。出席日数に問題があると言われ、僕はいつも「4」しかつけてもらえなかったが、玉村先生は「いちばんできる子が5」と言って笑っていた。出席日数は出席日数として、別の評価にはなるけどね。そうも言っていた。
 しかし、通知簿が向上したから、その先生を思い出にしているわけではない。僕は成績には何の関心もなかったし、塾にも行かない、家庭教師も必要なかった。なるべく早く、お金を貯めて、海外を放浪したい。世界中を旅して回りたい。そう思っていたので、高校にも大学にも行くつもりがなかったのだ。人目にはつきにくいが、様々な角度で問題児だった。

 玉村先生は、一番になることを好む人だった。テストだけではない。体育会やマラソン大会などスポーツ、音楽会など文化系行事。修学旅行でさえ、最も統率の取れたクラスにしようと躍起になっていた。あの熱意がどこから発生していたのかはわからない。すでに醒めた子供であった僕だったが、あの情熱の在処だけは理解できない。ふつふつと燃え盛る火の玉のようであり、そして、そこから生まれた種火を僕たちに手渡した。
 そういう人なのだろう。
「一番になれなくてもいい。でも、それを目指して努力する、頑張れる人間になって欲しい」
 いつの日か、先生は僕たちの前で涙を流した。
「一番はたった一人だけ。頑張ってもなれるかどうかはわからない。でも、一番になりたいって頑張らないと、すぐに最下位になってしまうのがこの世界なの。そこで、生きて行かなきゃならないんだから」
 いつもなら鼻白んでいただろうに、そのときは、僕もその訴えに、なぜか胸を痛めたことをよく覚えている。必死だった。切迫していた。教えようとはしていなかった。知っていることを伝えようとしていたからだ。そんな先生の気持ちはいつだって、僕たち6年3組を一致団結させた。
 他のどのクラスよりも練習してリレーに勝ち、球技大会でも勝利をおさめ、体育会では一位になり、音楽会でも好成績を収めた。テストや読書感想文、作文などでも(ここは僕が頑張りました)、6年3組は表彰される、ひとつのチームにまで成長していた。
「なぜ、6の3はそんなに一生懸命なの?」
 他クラスの生徒にそう訊かれた女の子はこう答えたという。
「私たちが頑張っていたら、玉村先生が喜んでくれるから」
 それを聞いた先生は、「私たちのクラスは最高なんです」と泣き、大笑いしたと言う。
 僕たちは誰かの笑顔のために必死になることの素晴らしさを学んでいた。そういう先生で、そういうクラスだったのだ。卒業式の日ですら、全員で同時に起立し、礼をして、誰よりも笑顔で、どのクラスよりも別れを惜しんだと思う。

 見抜かれていたことがある。
 僕はリレー大会に選出されないように、手を抜いて走っていたし(遅くまで練習したくなかった)、勉強もそこそこにして(やりたくなかった)、目立たないように努めていた。音楽会では主旋律を弾く楽器は選ばず、練習が少なくて済む楽器を選択した。
「思い切り目立って、本当の一番になればいいのに」
 先生は笑っていたが、あのときの厳しい眼差しは忘れない。君に学級委員になって欲しかった。すべての教科で一番になって欲しかった。それができるのに、君はそうしなかった。順位としては一番だけど、もっとできるのにね。
 僕は努力を怠る、だめな子供だった。

「君には芸術的な才能がある。会社に行かなくても、その世界で生きていける。そのときは、一番になりなさい」
 21歳になっていた。立ち寄ったスーパーで僕は先生と偶然、再会した。玉村先生は僕たちのことを忘れていなかったのだ。
「最初の担任でしょう。やっぱり、一番、楽しかったし、必死だった。なかなか、やる気を出してくれない優秀な生徒もいたしね」
 僕たちは先生の思い出のなかでも一番になっていたのだ。その記憶のなかの、かつて優秀であった、芸才のある、元少年はいま、自分の方向をようやく見定め、あるいはあきらめ、芸術の世界に向かおうとしている。
 かつての教え子は、いまからでも一番になることができるだろうと、ようやく進み始めたのだ。
 それはきっと、あの6年3組の一員であったからに違いない。

artwork and words by billy.

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