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自己紹介:詳しい病歴③

文章を書く能力が全然無い私ですが、、自分の病歴を語り始めると無駄に長くなってしまいます。。
そのうち文章を上手くまとめきれるようになりたいな…。


頭が働かなくて研究職の仕事ができない

10か月の休職の後に生物系研究職の仕事に復帰しましたが、従前出来ていたはずの業務が全然できなくなっていて、自分のあまりの無力さに絶望してしまいました。
研究の立案ができない、実験の手順書が理解できない、データの解析もどうやったら良いのか悩むばかりでパソコン作業の手が進まない、とりわけひどかったのが研究報告書が何も書けない…。

加えて、私の休職中にとても優秀な後輩が入社してきてくれてその人が私の担当するはずの業務を代わりにこなしてくれていたので、もう職場には私はいないほうが良いんじゃないかな、私にいる価値は無いんじゃないかなと激しく気分が落ち込んで、仕事への自信だけでなく生きる希望も見失いつつありました。

I病院での通院は続けていたものの、頭が働かず仕事ができない状況はなかなか改善されず、先生も困り果てているようでした。
薬の処方は新薬のレキサルティ(抗精神病薬)と以前から続けていたデパケン(気分安定薬)に変わりましたが、それでも状況は何も変わらないどころかむしろ悪化していきました。

ついには業界の新聞や普通の新聞を読んでも何も理解できず頭に入ってこないようになってしまい、もう自分の変わりようが信じられない、何もできない自分が嫌で仕方ないと泣きながらI病院の先生に訴えました。
そこで先生は、そこまで頭が働かないのは薬の副作用かもしれないと思い、その受診の日からデパケンを中止する事になりました。

再び躁転し2回目の休職へ

デパケンを中止した夜、私は自分が生まれた瞬間を追体験するような、もう1度生まれ変わるような、不思議な夢を見ました。
その日を境に私は夢と現実の区別がつかなくなり、あの夢はもしかしたら受胎告知かもしれないと思い込んで催奇形性のある薬の服用を拒否したり、自分が通勤しているはずの会社はもしかしたら無いのかもしれないと思って夜中に家を抜け出して会社の拠点にタクシーで行ってみたりと、説明のつかない奇怪な行動を繰り返すようになりました。

産業医の面談ではもう仕事が出来る状態ではないとのことで再び休職する事になりました。
しかし休職後も何故か突然仕事中の夫を探しに自分の会社の診療所に行って、夫がいないと分かると夫に二度と会えないのではないかと思い込んで錯乱状態になったりと、休職中にも関わらず会社には随分と迷惑をかけてしまいました。

私の場合、このような異常行動は1週間で収まりましたが、その後はI病院の先生の指示する薬の服用が怖くなってしまい、先生の指示通りに服薬していたのにこのような状況になってしまった現実が許せず、全ての服薬を中止してI病院から大学病院のF病院に転院する事になりました。

「あなたは一生服薬を続けないといけない。薬がなければ普通の生活を送る事はできない。」

最後にI病院の先生にはこのように言われ、結果としてこの言葉は正しかったと今となっては思いますが、当時は先生に対する怒りでいっぱいで受け入れることは到底出来ませんでした。

服薬を中止して3週間は、異常な行動は見られなくなり、気分の浮き沈みもそれほどなく、安定して自宅療養を続けることができました。
その後に受診したF病院ではこれまでの経過を話し、家族と共に服薬無しで様子を見てもらう事を訴えて理解してもらい、そのまま服薬無しで休職後2か月で復職する事になりました。

ちなみにF病院の通院は主治医の先生が外来を離れる事になったので一旦中止となり、また体調が悪くなったら通院を再開するので良いとのことでした。

2回目の復職~研究職を諦めて社内異動

2回目の休職期間は2か月と比較的短かったものの、会社の中で迷惑行為をかけてしまったことをまずは誠心誠意謝罪した上で、リハビリ勤務から開始する事になりました。
リハビリ勤務中は、まず毎日決まった時間に会社に来れるよう練習することと、業界の新聞を読んで興味深い記事を自分なりにまとめて上司に報告する仕事を行いました。

休職直前にはあれほど読めなかった業界新聞が少しは読めるようになっており、ほんの少しずつですが仕事に対する自信を取り戻していきました。
それでも研究職を続ける自信までは取り戻すことが出来ず、悩みに悩んだ末、研究職以外の職種への異動希望を出すことにしました。

私は中学生の頃からいつか人の役に立つ研究がしたいと思い、人一倍勉強して第1志望の大学・大学院へ入学を決め、就活も頑張ってやっとの思いで生物系研究職の内定を勝ち取り、これまで、1人目の産休に入るまでは研究成果を上げて英語の論文を書いてと充実した毎日を送ってきました。
そんな私が、自分から研究職を続ける道を諦め、後輩に自分の業務を譲る。

辛くて辛くて仕方ありませんでした。
なかなか自分の現実を受け入れることができませんでした。

それでも、今の自分でもできることをコツコツ積み重ねていって、研究職でなくても何か人の役に立てたらとの一心でした。
こんなに頭の働かない役に立たない自分に何ができるのか、研究職以外に会社の中でできる仕事があるのか全然分かりませんでしたが、とにかく家族や会社の皆といった周囲の支えてくれる人に何でも良いから恩返しがしたくて必死でした。

そんな折、私の第2子の妊娠が発覚しました。
正直これで産前産後休業・育児休業に入ることができて仕事を離れて一旦心も体も休むことが出来るとホッとしたのを今でも覚えています。

2人目出産後の再発~2回目の医療保護入院

第2子出産後しばらくは、第1子の時と同様に家事も育児も楽しんでやっていました。
しかし産後6か月目に急に体調を崩し、「私は頭がおかしいので今から病院に行きます」と実母に言わされ、入院施設のあるW病院に2回目の医療保護入院となりました。

この入院のきっかけについては、実は自分でも良く覚えていません。
W病院では鍵を掛けられての隔離生活の中で、病院から逃げ出したくて病室を抜け出そうとして身体拘束された事もあります。
結局また退院請求をして1か月半で退院できましたが、なぜ入院したのか、なぜ退院できたのか、自分でも良く分からないままいろいろな精神疾患の症状に悩むようになっていきます。

やっぱり今回も長くなったので今回はこれで終わります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

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