見出し画像

「夜叉神峠の亡霊」〜撤退〜8

村田は男の忠告を聞かなかった。
「今すぐ静かに山を下りなさい……」
結果的に私も村田と同じ行動をしているから、村田ばかりを責められないが。
村田の「忠告はありがたいが先に向かおう」と言った真剣な表情に気押されてしまった私に、反論の余地などなかった。
だが私は、村田と同じ意見ではなかった。
白い靄の男は、私たちになにを伝えたかったのだろう。山に棲む悪霊なら、あの時点でとっくに生きてはいまい。
ならば、あれは悪霊ではないのかもしれない。
山の神かなにかが、私たちを生かすために現れたのか。もしそうだとしたら、私たちは山神の救済を無碍にしたと言うことになる。
そんな懸念が頭から離れないでいた。
選択は限りなく存在するが、この状況下では、ただの一つの選択ミスも許されない。
判断を誤れば、命を捧げなければならない。
左手に懐中電灯を握り、右手は村田の木刀を握っている。そこにはしっかりと紐でぐるぐる巻にして腕と木刀が外れないように固定した。
村田も同様で、右手が紐でしっかり固定されている。どちらかが崖に転落したら一連托生、生きるも死ぬも一緒だ。
あれから1時間ほど歩いている。
向かうは鳳凰三山、のはずだった。
だが、おかしなことがまた起きた。
鳳凰三山へ繋がる登山道を歩いていたはずが、突然、道幅が狭くなり始めた。
そうしているうちに、道らしきものも怪しくなり、今は道幅40センチほどの崖の斜面を伝いながら慎重に歩く羽目になっていた。
辺りは暗闇というだけでなく、獣や蟲たちの呻き声が耳を裂いている。
ラジオは沈黙していたから、周囲の音に過敏になってしまう。後ろを歩く村田の吐く息が聞こえる。息が荒いのは、体力もさることながら精神的な緊張が大きいはずだ。
緊張が爪先に走る。
だが、この困難な状況でも自らをコントロールしなければならない。
私が足を踏み誤った時点で、村田も谷底に真っ逆さまだ。
その緊張がもう1時間も続いていた。
時計はは25時を回るころ、考えうる最も絶望的な現実を目の当たりにした私は足を止めた。
村田は、急に静止した私につんのめり、危うく崖下に転落しかけた。
「あぶね!急に止まるなや!」
村田の口調は荒かったが、私はそれを受けずに口を開いた。
「村田?見て、この先、道がない……」
進行方向に懐中電灯を照らした私は、息を切らせながら言った。
下にも上にも道は繋がっておらず、無情にもそこで道は終わっていた。
村田は絶句し、暗い空を見上げた。
私も言葉を喪失したが、立ち止まると崖の上から「シャー、シャー」と、蛇の威嚇音が聞こえだすから、我々に考える時間さえ与えてはくれなかった。
40センチの足場では、私が前に代わることも出来ないから、そのまま村田が前を歩き出した。
懐中電灯を村田に渡すと、私は後方を擦り足で歩いた。
いつ村田がバランスを崩すかわからないから、前を歩く以上に集中が必要になった。
そうして私たちは来た道を戻ることになった。

水場に戻った時、時間は午前2時を少し回っていた。深夜2時に南アルプスで遭難している2人の16歳は、大量に水を飲んで体力を回復させた。脚全体が激痛に襲われていたが、具体的にどこが痛いのかわからなかった。
毒蛇に噛まれたわけではないから、ただの疲労だろう。
水場で15分ほど休憩した時、私は村田にずっと考えていたことを口にした。
あの白い靄の男の正体がもし山の神だったら、
大人しく下山するべきだと。
しばらく押し黙った村田が、ニコリと笑って「わかった、撤退しよう」と言うと、ペットボトルをリュックにしまい、我々はまた立ち上がった。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?