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最善の選択

人生は、死ぬまで「選択」の連続である。我々は朝起きて寝る間にどれだけ選択をしているのか?
9000回だそうだ。1日でだ。
2日で、18,000回。3日で27,000回と、我々の選択に終わりがないわけだが、日常のなんでもない選択から人生を左右する重要な選択まで、しっかりと意識をしておこなっているのか甚だ疑問である。
選択を意識的にできるのは1人でいる時が多いだろう。他者が介在すると自分の選択が通らない時があるからで、この時に重要な選択ミスをしてしまったら誰を責めるのか?判断を下した者か?判断に応じた自分か?
いや、その前に。
その時、なぜその人とそのような選択をしなくてはならなくなったのか?
その人となぜその日に会わなければならなかったのか?
その結果は、いつの、どの、選択が招いたことなのだろうか?と、考えずにはいられない。
あれは、3年ほど前のこと。恥ずかしながら私は腸が虚弱だ。飲み過ぎた翌日の大半のほとんどが腹を下し、その直腸の働きがいつ暴れ出すのかは、神のみぞ知るところである。自宅ならいいが、公共の乗物などで不意にアナルが開口してしまうなんてことは想定の範囲内なので、常にポケットティッシュと替えの下着は持ち歩くようにしているが、私と言えばもっぱら神に身を委ね、来たる審判がいつ下されるのかを、ただ待つだけの哀れな仔羊なのである。
ある日、付き合いたての恋人と19時にレストランで待ち合わせをしていた。私は前日に相当量の酒を摂取していたから、当日の昼過ぎに目覚めた時には、酷い二日酔いに見舞われていた。眠る前に飲んでおいた胃薬も、残念ながら思うような効果を発揮してはくれなかった。私は水の入ったペットボトルを抱え風呂に浸かった。身体中から昨日の酒が噴き出していく。汗が幾分粘り気を帯びている。乾いた喉に水を流し込み、15分後に体内で吸収されていくのを待つ。その間も汗は噴出していく。起きた時にあった酷い頭痛もいくらか和らいでいるような気がする。2リットルの水を執拗に体内に推し入れていく。気のせいかもしれないが汗が少しサラサラになる。
いける!
長年の二日酔い対策はこれが1番だ。私の選択に間違いはない。二日酔いの時は、38度くらいの緩いお湯に浸かり、大量の水を飲み、身体中の水分を入れ替えてやる。すると、身体からダルさが抜けて頭痛も軽減できる。夕方には復活を遂げる。これが私のやり方だ。
夕方17時には空腹に苛まれる。腹が減る。いい傾向だ。たまに、自分の身体に騙されることがある。空腹時の気持ち悪さと誤解してラーメンを喰うと、実は二日酔いの気持ち悪さだと気付かされる。無論、喰ったものは見事にカンバックを遂げる。さて、この空腹感に耐えながら待ち合わせ時間まで身体を横にして家をでた。
自宅からレストランまではタクシーで10分程度の時間だったから、私は18時40分にタクシーに乗った。運転手に行き先を伝えた時、いたずらな神の口角が上がった。急激に下腹部に熱いものを感じたのだ。いかん!
私は道路の交通事情と腸の具合を推し量った。答えは考えるまでもなかった。危ない、私の腸は暴れだしている。もって後5分か?
冷静に運転手に行き先変更を指示した。途中にある私の店に方向転換してもらったのだ。携帯を持つ手が震え、彼女にLINEが打てない。よし、ことが終わってから状況説明を電話でしよう。タクシーは一路、店へと向かった。
店の前にタクシーが停車した。震える手で運賃を支払った。アナルはもはや皮一枚の頼りないダムのようで、微細な振動でもパンキス(*パンツにうんこがついてしまうこと)は逃れないところまできていた。ま、まずい。
店の鍵を無駄を省いた最短の動作でカチャリと開ける。チカラは入れられないから、両の手でゆっくりと静かに開ける。こんなに店の扉が重たかったとは気づきもしなかった。
扉を開けると店内は暗闇だ。三歩右に照明のスイッチがあるが、時が惜しい。私はカウンターに鞄と携帯を置き、暗闇の中トイレへと急いだ。慎重かつスピーディーにだ。一歩づつ足を運びながらベルトを緩め、ズボンのボタンを外すことは忘れない。私の選択は完璧だ。
トイレの前に着いた。電気をonにする。ドアを開き、便座を開く。ズボンを下ろしながら、左へと尻を回転させ、便座に座ろうとした刹那。
時限発火装置が起爆した。
左側のタイル張りの壁面に、噴出した私の一部が、前衛的な書家の力強い一筆のような弧を描いた。そして、遠心力に逆えない私の尻は、そのまま便座に着地。
恐る恐る横目で左壁面を見ると、華麗なる一尻書きの見事な作品が完成していた。
落ち着け、落ち着くんだ。私は、そう自分に言い聞かせてみたが、パニックが始まった。
私がパニックに陥って最初にしたことは、残りの腸の中身を排泄することだった。何事もなかったかのように澄まし顔できばったのだ。完全なる現実逃避である。だが、残念なことに正規の便座では何も起こらなかった。もはや、すべてを壁面に出し切ってしまっていたのだ。1分ほど放心したのち、ゆっくりと噛み締めながら尻を洗った。トイレットペーパーをふんだんに回し、壁面の作品の除去に取り掛かる。その時、一瞬写真を撮っておこうかとも思ったが、携帯がないことに気がつき敢なく断念した。
さて、作品の除去に20分を要した。お湯を沸かしている間に、彼女に電話をかけて事情を説明した。本当に理解してくれているかわからなかったが、私が45歳で脱糞したことを包み隠さずに話した。とにかく急ぎます!と言って電話を切った。お湯が沸騰して5度の煮沸消毒を行った。そのあとは洗剤でデッキブラシもかけた。まさにプロの清掃業者の仕事だった。併せて約1時間のロスタイムになってしまった。
幸いなことに、衣類や靴には一切のハネやトビが確認出来なかったので、着替えには帰らずにレストランへ向かった。
タクシーの中で、彼女のことを考えた。この哀れなお漏らし野郎が、どの面をさげて現れるのかと思っているに違いないと。
私は、レストランへ入り彼女の待つテーブルへ急いだ。彼女は携帯をいじっていたが、私に気づき一言いった。
「お前!クソ漏らしてんじゃねーよ!」
気持ちのいい叱責がありがたかった。おかげさまで、あれ以来、そのような事件は勃発していない。
だが、もしも、あれがタクシーの中だったら。レストランのトイレだったら、と考えるだけで、震えがくるほと恐ろしい。
自分の店だったことは、あらゆる選択肢の中できわめてベストだったのではないかと、今では自分が誇らしいのである。









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