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せりと鶏の鍋と、怒りを忘れる方法

いいことがあった時も、いやなことがあった時も、お酒を飲みに行く。

その日の私は、後者であった。しかも、落ち込むというよりは、かなりの怒りモードであった。仕事の相手から、理不尽なことを言われたからだ。

「お~!いらっしゃい。今日は、なに食べる?」

店に入った私の機嫌がよくないのを知ってか知らずか、なじみの居酒屋の店主がそう言った。そう言われて、私はちょっと迷った。

いやなことがあった時、特に怒っている時には、あたたかいもの、できればアツアツのものを食べた方がいいと、私は思っている。なぜなら、怒っている時には、なんでも勢いで食べてしまうからだ。アツアツのものならば、フーフーと冷ましながら食べなくてはいけないから、一気に食べることはない。

「ええっと…。それじゃ、お鍋をお願いします」

「鍋ね。魚介?それとも、肉?」

「う~ん…。今日は、お肉かな」

「よし、それじゃ、せりと鶏の鍋は?」

「うん、それにする」

「はいよ~」

店主にうながされるまま、「せりと鶏の鍋」を注文した。具材が用意される間に、グラスに入った冷たい日本酒を1杯、ちびちびと飲んだ。

「あ~、おいしい」

せっかくおいしい日本酒を飲みながらも、私の怒りはまだおさまっていなかった。

「はいよ~。お待たせ」

店主が、鶏肉や豆腐、ねぎなどの具材が満載された小さな鍋をカウンター越しに差し出した。それを受け取って、すでに用意してある小型のカセットコンロに乗せ、火にかける。

「はい、これも」

鍋とは別の皿に、たっぷり盛られたせりも差し出された。この店の「せりと鶏の鍋」は、東北の仙台では「せり鍋」といわれるもので、せりの葉やくきだけではなく、根っこまで食べるのが特徴だ。だから、鍋には一度に入りきらず、いつもせりだけは別皿で用意されている。

「ありがとう」

私は別皿のせりを受け取ると、早速、根っこの部分を鍋に入れた。せりの葉やくきは、煮込みすぎずに食べる方がおいしい。だが、根っこだけは火が通りにくく、また火を通した方がいい味が出るので、葉やくきよりも先に鍋に入れるのである。

しばらくすると、火にかけられた鍋がグツグツと音を立て始めた。それとほぼ同時に、鶏肉の脂身から少しずつ、脂分がお出汁に溶け出してくる。お出汁に丸く円を描きながら浮き上がってくる鶏の脂を見ながら、「鍋は、こうやって少しずつおいしくなっていくんだな」と私は思った。

「おい、びんこ。今日、なんだか元気ないんじゃないか?」

鍋がグツグツいう様子をボーっと眺めていた私に、店主が声をかけてきた。「そうなのよ、ちょっと聞いてよ」と言いたいところだったが、なぜか私はガマンした。その日の私の怒りは、自分の仕事に関することだったから、この店でぶっちゃけてもしょうがないと思ったのである。

「え?うん…、ちょっと、いろいろあってね」

そうやってはぐらかしている間に、グツグツいっていた鍋の中では、豆腐がいい感じになってきた。私は、左手に取り皿を持ち、右手に小さなれんげを持って、豆腐をよそった。そして、右手のれんげを箸に持ち替え、薄い茶色になった豆腐を食べやすく切り、口元へ運んだ。

ハフハフ、アチチ…。

この店特製のお出汁と、具材の鶏肉から出た脂で味のついた豆腐は、食感はやさしく、味はおいしく、するりと私の胃に入り、お腹と心をあたためた。

「あ~、おいしい~」

そう言いながら、2杯目の日本酒を頼んだ。お鍋だから、次は熱燗である。

さて、豆腐の次は、なにを食べよう…。鶏肉が煮えるまでは、もう少し時間がかかりそうだ。それならば、ねぎか、はたまた、せりの根っこか…。

そうやって順番に食べごろになる具材を食べていると、ほどなくしてスタッフが熱燗を持ってきてくれた。冷たい日本酒はグラスに入って提供されるが、熱燗はもちろん、おちょこである。

「最初の1杯は、私が注ぎますよ~」

スタッフがそう言ってくれるので、あら、そう、ありがとう、と素直に応じる。おちょこから日本酒がこぼれそうになって、「おっとっと…」などと言いながら、「私はオヤジか!」と自分にツッコミを入れる。

そうこうしているうちに、鶏肉がいい感じになったので、取り皿に取り上げ、かぶりつきそうになるが、めちゃくちゃ熱い。

フーフー、アチチ、モグモグ…。

「あ~!うまい!やっぱり、この店の鍋はサイコーだね」

おいしいお出汁でよく煮こまれた鶏肉のおいしさと、熱燗の酔いもあいまって、私はカウンター越しに、店主に向かってそう言った。

「な、サイコーだろ?せりと鶏の鍋、うまいんだよ」

店主は一瞬だけ顔を上げてニコニコとそう言うと、すぐに料理人の顔になり、忙しそうに働いていた。私がこの店に入った時間よりも、かなりお客が増えて、料理の注文がひっきりなしに入っていた。

うん、うまいよ、サイコーだよ。そう思いながら、どんどん箸はすすむ。鍋にたっぷり入っていた具材と、別皿にたっぷり入っていたせりは、あっという間に、鶏肉2切れだけになった。

「すみませ~ん!例のヤツ、お願いします」

「例のヤツね。はいよ~」

またも、忙しい手を一瞬だけ休めて、店主が顔を上げた。そして、手早く生卵をお椀に割り入れ、薬味を用意し、小ぶりの丼にご飯を盛って、私に差し出した。

私は、店主が生卵やご飯を用意している間に、一度は冷めてしまったお出汁に再び火を入れ、あたためた。鶏の脂をたっぷりと吸ったお出汁が、グツグツといいはじめる。

グツグツといっているお出汁の中には、残った鶏肉2切れが入っている。そこに、店主から手渡された薬味を散らし、生卵をシャカシャカと溶いて、流し入れる。金色の溶き卵が、ほんのりかたまるのを待って、火を止める。

そうして、卵とじとなった鶏肉を、れんげですくって、小ぶりの丼に入ったご飯の上に、そ~っと乗せた。

この店の「せりと鶏の鍋」のシメ、親子丼の完成である。

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トロリとかたまりかけた卵と、白いご飯を一緒にかきこむ。そこに時々、鶏肉が入る。卵には、鍋の具材として入っていた豆腐やせりなどのうまみがギュッとつまったお出汁がからまっている。私はそれを、ほとんど一気に食べた。アツアツのまま、かきこみたかった。

「ああ~!おいしかった!」

「なんだ、例のヤツ、もう食べたのか。速いな~」

「うん。だって、おいしかったんだもん」

私はニッコリ笑って、店主にそう言った。

むろん、その時には、店に来た時に抱えていた仕事に関する怒りは、もうすっかり忘れていた。


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