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【大人に目覚めた頃】

私は
どうしようもなく
勉強が大嫌いだった。

もう学校へ行かなくて済む。
無意味で理不尽で
退屈な教室よさようなら!
人生の15年間で3年間も
無駄に過ごしたのだ。
清々した気分であった。

そのころに始まった中学の教育方針の、理解するしないを無視した、ただ高校入試のためだけの、詰め込み主義とやらが、勉強に楽しみの欠片もなく、嫌であった。

勉強に付いて行く気には到底なれず、集中力には全く欠け、いつも居眠りであった。
それでも、
中学1年の最初のテストは
(多分、小学6年のおさらい)
学年250人中で
20番以内の成績だったが
期末テストでは100番前後。
2年、3年、200番前後
定位置の落伍者となった。

劣等生のレッテルを貼られ
周囲から見下されて
苦痛の中学3年間は過ぎて、
就職した。

わずかでも現金が稼げる。
自分の金で、噂のあの店の
うどんが食える。
他にも好きな物を
色々いっぱい買える。
その一心で、
中学を出て就職したのだ。
学校の就職担当の教師が、
適当にだとは思わないが、
働き場を斡旋したので、
自転車で10分のバス停から乗って、約1時間の街の靴工場で働いた。通勤は長く、仕事は辛かったが、
学歴はないので、
贅沢は言えなかった。
体が潰れるか、
気持ちが嫌になるか、
金はもらえるので、
がんばるしかないと思った。

福岡県南部の片田舎の
当時で人口が20万位の街であったが、まだ子供で世間知らずの私には、それなりに大きくて、きらびやかな都会であった。

夜勤を終えて、
評判のうどん屋ではなかったが、朝帰り者向けのトタン貼りの店で、素うどんと稲荷を食って、バスで帰るのが日課だった。牛馬のように使われた躰は鉛になったみたいに重く、元々がよく機能しない脳裏は、いよいよ睡魔に襲われっちまうのに、ああっ、朝日はギラギラ目に痛かった。
バスに乗ると、硬い座席に座って直ぐに寝入り、気持ちが良くて度々乗り越した。酷い時には、目覚めると、県境の寂しい杉林の峠を越えて、熊本県まで行っていた。峠越えの路だから、福岡県へ行く折り返しのバス便は少なくて、家にたどり着いたころは、もう、陽は傾きかけていた。ばたばた3~4時間ばかり眠って、親が床に入ろうとする頃に、月夜であれば、いくらか慰めもあるが、夜闇の中を最終のバスに乗り、また、仕事に出て行った。

セブンイレブンは、まだ、花の都の東京にもなかった。マクドナルドは太平洋の向こうのアメリカンドリーム。
そういう時代であった。

半年ばかり過ぎた秋のこと。
その日は現金払いの給料日で、金曜日の朝帰りであった。確か記憶では、奮発して、肉うどんにゴボウ天を追加した。当時はトッピングとは言わずに、「〇〇を追加!」と言うのが羽振りがいい注文であった。それを月一で言うのが、満たされた気分の朝飯であった。

たかがうどん屋ではあったけど、その店のおっちゃんが「おっ、今日は給料日たいね!」と童顔の私に微笑んだ。「あっ、はい!」そう返事した私に、水を持ってきたおばちゃんが「〇〇君、もう半年も頑張ったやん、貯金もせやんよ」その太った姿の優しい皺皺の顔は、今も忘れていない。

ようやく開き始めた商店街をきょろきょろ見て歩き、Gパンを買うはずだった。途中に洋画専門の映画館があった。その直ぐ横にも映画館があって、そっちは、日活の成人映画専門であった。

16歳の私は、女性のヌードに興味を持ちはじめた年頃になっていたが、清純な役どころの吉永小百合さんが大好きで、真逆な裸の女性の看板は、まともには見れなかった。異様でさえあった。見ちゃいかん、と思いつつ、つい、目に入り、どぎまぎして動揺し、心臓が早鐘を打った。なによりも、その手の映画を観ることを許されない未成年であったのだ。

卒倒しそうでふらふらと、二歩三歩、後ろへよろめくと・・


洋画館の方から、英語の意味が解らない曲が流れていた。耳に入る明るい軽快なメロディは
夜勤明けの疲れた体と
高鳴りが静まらない胸に
心地よく響いた。
歌がポスターの前を漂い
私を安らかに包んでくれた。
【明日に向かって撃て】
なんと洒落た題名だろう。
Gパンはすっかり忘れて
導かれるように入場券を買い
暗い館内へ入って行った。

銀行強盗、拳銃の撃ち合い。
荒野と馬の旅。
哀愁とユーモア、夢と悲壮。
そして流れる主題歌。
『雨にぬれても』

END

銀幕からぷつんと映像が消え
黄色い薄明りがふっと点き
砂塵の荒野の余韻が残るなか
外へはじき出された。
現実の真昼の街は眩しくて
めまいがした。

それから
Gパンを買いに行った。
映画に触発されて
革ベルトに革のスニーカーも
買ってしまった。

そして、その日の夜は
ヒーロー気分で
始めて無断で
仕事をさぼった。

新しいカパカパなGパンをはき
ベルトを締め、靴を履き
電車に乗って
博多へ行った。

(博多の話しは後述)

さぼった土曜日と日曜日の
二連休をして、
しらっと仕事へ行くと
職長からこっぴどく叱られた。
でも、少し横着にも
大人になった気分だった。

叱った職長は、この私を、
それまで一日も休まず文句も言わず、頑張ったこと。もう、二度と来ないのではと心配したこと。同期入社の高卒の奴より高く評価してくれていたこと。
それから、半年後には私を夜間高校に行かせようと、日勤の別部署への変更手続きを進めていた。

私は、この職場で
少年から大人へ
育っていった。
いや、育ててもらった。
もちろん、クソやかましい
職長の言うことを聞き、
夜間高校へ行った。そして、
初めて、少しはまともに
勉強をして、登山同好会や美術部を創設したり、生徒会にも顔を出し貴重な学生生活を経験した。それからおまけが付いている。3~4人の不良グループがいて、私はそいつらが大嫌いな田舎者だったので、目を付けられて体育館の裏に呼び出され、リンチされてしまった。私はこの仕打ちを受け入れたり我慢してしまうほどには、まだ人間が出来ていなかったので、一人ずつ呼び出してお返しを企んだ。一人目を呼び出して、渾身の力を込めてボディに一発パンチをお見舞いし地面にダウンさせて「すみません」を言わせた。次の夜の二人目の時、教師に見つかり、停学処分を受けた。長いか短いか、一週間であった。

また、この時代に、仕事に必須の危険物第四類やフォークリフトの免許も取得している。

いつもクソやかましい
鬼軍曹のような職長は、
こんな人間もいたのかと
始めて敬服した人だった。


これが、
今となっては遠い昔の、
ほろ苦くて甘酸っぱく、
ひとつ間違えば危ない、
切なくて懐かしい思い出の、
大人への胎動の原点だった。


2022.05.25初稿
2022.05.31添削・加筆・改稿

( 完 )

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