名盤と人 31回 頂点への道 『FOR YOU』 山下達郎
『FOR YOU』を皮切りに山下達郎のRCA時代の作品がアナログでリイシューされる。その第一弾となる『FOR YOU』のレコードが連休中に到着した。この最高作とも評価される『FOR YOU』に至るまでの山下達郎の道程をデビューから振り返ってみた。そこに見たのは山下のリズムセクションへの強い思い入れだった。
『FOR YOU』で辿り着いた頂点
今回のリイシューは、1976年のデビューアルバム『CIRCUS TOWN』から、一つの頂点とも言える1982年の『FOR YOU』まで。78年発表のライヴ2枚組『IT'S A POPPIN' TIME』を含む7作に、公認ベスト『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』を加えた山下達郎の初期8作が、最新リマスターのレコードとカセットで復刻発売される。
本来なら発売順にリリースされるはずだが、ジャケットも含めてインパクト重視で82年発売の『FOR YOU』が第一弾でリリースされたのだろう。
開封して針を落とすと、今でもコンサートのオープニングに演奏されるというSPARKLEの強烈な音像、特にベースとドラムのリズムセクションの響きに耳を奪われる。発売当時は、専らカセットで海へのドライブのBGMとしてヘビロテされていた。40年振りにアナログで改めて聴くと、重層なアレンジと唯一無二の演奏は今の時代だからこそ、鮮烈に響く。
山下自身が元々ドラマーだったため、ドラム、そしてベースのリズムセクションに対するこだわりは相当なものであった。
デビューから『FOR YOU』までの約6年間。その6年は強力なリズムセクションと巡り合うために費やされたと言っても過言ではない。
そして、そのための予算を獲得するための闘争でもあった。
と語っている。
SPARKLEはリズムパターンを先に作り、そのリズムに合わせたメロディを作り後付けしたそうで、作り方の革新性がそのままサウンドを革新的にした。
この1976年から1982年までの6年間彼の作品群の演奏力はどのように進化したかを、リズムセクションを核にして辿ってみた。
山下達郎がデビューから辿った軌跡
いきなりの海外録音〜『CIRCUS TOWN』
ナイアガラレーベルから1975年にデビューしたシュガー・ベイブは2作目を模索したが、76年3月に解散した。
76年8月、山下達郎はデビュー・アルバムのためいきなり海外渡航し、ニューヨークとロサンゼルスでレコーディングする。
この『CIRCUS TOWN』はこの年の12月25日に発売された。
ニューヨークサイドでは、編曲をチャーリー・カレロに依頼。ドラムはアラン・シュワルツバーグ、ベースはウィル・リー。ギターはジョン・トロペイ、トランペットにランディ・ブレッカー、と錚々たる面々。
予算の都合で全てニューヨークで録音は叶わず、残りはLAで録音している。
当時無名の日本人だった山下のためにカレロを口説き落としたのが、RCAのディレクターだった小杉理宇造(こすぎ りゅうぞう)。
小杉と山下との交流は続き、1982年には山下と竹内まりやのレーベルとなるMOON RECORDSの社長に就く。
さらに山下の所属事務所スマイルカンパニーの代表も務めるなど、長年の山下のビジネスパートナーになる重要人物である。
シュガー・ベイブ時代に作っていたWindy Ladyも、このメンバーの演奏だとデビューとは思えないハイクオリティだ。
村上ポンタと細野晴臣の初顔合わせ〜『SPACY』
海外録音まで敢行しながらデビュー作のセールス3万枚とパッとせず、失意の山下は次作に取り掛かる。
『CIRCUS TOWN』で使用した譜面をカレロからもらった山下は、それを参考にして、続く1977年リリースの『SPACY』の譜面を自身で書いた。
『SPACY』では、自分のドリーム・チームを想定して、一流の売れっ子スタジオ・ミュージシャンを起用してレコーディングする。
ドラムが村上ポンタ、ベースが細野晴臣、ピアノが佐藤博、ギターが松木恒秀。松木はクロスオーバー系で職人肌ギタリスト。佐藤は鈴木茂のハックルバックを経て、セッションマンに。後に渡米し、帰国後1982年名盤「awakening」を発表。これには山下もギタリストとして客演している。
村上と細野は初顔合わせ。また、細野と松木は相性が悪く、村上が間に入った、と言う逸話もある。
「僕にとって日本で一番優秀なベーシストといったら、やっぱり細野さん以外にないと思っていたから。」と山下は語るほど細野を評価している。
また村上についても「ポンタは圧倒的に個性が違う。技術的な問題じゃないんです。これって言語化できない境地で、ミュージシャンというのは、とどのつまり言語じゃないんですよ。」と評価する。
『SPACY』のもう一つのリズム・セクションは山下のギターに、上原裕(ドラムス)、田中章弘(ベース)、坂本龍一(キーボード)というライン・アップ。
上原裕はシュガー・ベイブ時代の同僚で大滝詠一との仕事でも知られる。特に『A LONG VACATION』でのドラムは多くが彼の仕事だ。田中章弘は鈴木茂が結成したハックルバックに入り、後にはユーミンのバックバンドで長年活躍している。
坂本龍一は当時は山下とは蜜月的な時期で、2023年5月4日放送されたばかりのNHK FM『今日は一日“山下達郎”三昧 レコード特集2023』の中で坂本について語っている。
また当時の山下と坂本との関係について、坂本サイドからの視点で以下の記事で書いている。1975年の『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のパレードで坂本がピアノは弾いており、その頃からだから長い付き合いだ。
そしてこの後78年には伝説的なライブアルバム2枚組の『It's A Poppin Time』もリリースされる。
村上ポンタ、岡沢章、松木恒秀と言う一流セッションマンと共に坂本龍一も名を連ねている。
1974年に発表されたブレッド&バターのカヴァーピンク・シャドウなどのカバーや未発表曲、そして一曲スタジオ録音も加えられているのは、単なるライヴ・アルバムにはしたくないという意図が働いていたからだという。
2枚目「SPACY」とこのライブの2作品をリリースした77-78年は、村上ポンタのドラムを中心に、細野晴臣、岡沢章、松木恒秀、佐藤博等の一流のセッションミュージシャンを適材適所で起用する布陣で活動した。
そこに公私とも親しい友人でもあったYMO加入以前の坂本龍一や古い友人の上原裕など、制御しやすい布陣を組み合わせてカスタマイズしていた。
とは言うものの、一流であれば予算がかかり、山下の言う通りに演奏するわけでもなく、このスキームに限界を感じていたようだ。
引退覚悟で臨む〜『GO AHEAD!』
予算をかけた2枚がセールス的に振るわず、引退も考え最後のソロ作品だと思って取り組んだのが1978年の『GO AHEAD!』。
予算も削られたため前述のように一流どころは控え、新しい体制での演奏陣との録音が始まる。
「レコード会社はもう、なんかはっきり言って“お荷物”っていうか。そういうあれでしたからね。」とラジオで語るほど、背水の陣で取り組む。
シングルB面だったアイズレーブラザーズを念頭にしたファンクナンバーのBomberが大阪のディスコで流行り、東京限定の知名度が大阪まで広がり、光明が見えてくる。
この年78年はYMOのデビュー年。坂本はYMOへの参加を機に、山下とは袂を分かち鍵盤は難波弘之へとバトンタッチされる。難波は金子マリ&バックスバニーのメンバーだったが、実際はプログレ系のプレイヤー。
上原、田中に山下のバンドメンバーとなり行動を共にする難波弘之と旧友のギタリスト椎名和夫が加わった体制で録音された。伝説的な田中のスラップベースソロが聴ける。
さらにこの78年には竹内まりやのデビューアルバムとなる『BEGINNING』に夏の恋人を楽曲提供しており、運命的な年でもある。
やっと東京以外の場所でのコンサートも企画され『GO AHEAD!』のレコーディング・メンバー(上原、田中、椎名、難波)でツアーに出ることになった。
ロングセラーとなる『MOONGLOW』
そして1979年10月リリースの『MOONGLOW』もこの4人で制作される。
愛を描いて –LET'S KISS THE SUN–は山下にとって初のシングル・タイアップ。(JAL沖縄キャンペーン'79 イメージソング)
Rainy Walkのみ、高橋ユキヒロ・細野晴臣・松原正樹・佐藤博によって演奏されている。既にYMOを始動していた高橋ユキヒロが山下のバックでドラムを叩いたレアケース。
このアルバムは最高位20位、1年間チャートインするロングセラーとなり、意外にも「日本レコード大賞ベスト・アルバム賞」を受賞している。そしてもう一枚の受賞作はYMOの「ソリッドステイトサバイバー」と言うのが時代を表していて象徴的。
青山純&伊藤広規との出会い〜「RIDE ON TIME」
そして誰もが知るヒット曲、1980年5月にシングルでリリースされた「RIDE ON TIME」。
チャート3位となったこの曲で山下の人気と知名度は全国的になる。
そしてこの曲から参加した新しいリズムセクションは長年の山下のパートナーとなり、それが『FOR YOU』の成功に結びついていく。
『MOONGLOW』のレコーディング中の1979年夏、山下は吉田美奈子から22歳のドラマー青山純を紹介される。
吉田美奈子はこのRCAカタログにおいてのソングライティングパートナーで、殆どの曲で作詞を担当。バックコーラスも殆どが彼女だった。
青山とベーシスト伊藤広規は佐藤博のハイタイムスのメンバーだったが、山下のバンドメンバー・オーディションを兼ねたセッションに参加することになった。その参加メンバーが凄くて、ギターは松木恒秀、キーボードに坂本龍一、サックスは土岐英史、ボーカルに吉田美奈子、ボーカルとギターに山下達郎、ベースは伊藤で、村上ポンタと青山のツインドラムでの豪華セッションだったらしい。村上は後継者として青山を強くプッシュしたらしい。
そこを通過した青山・伊藤の2人が、メンバーだった難波弘之と椎名和夫と合流。
その後長きにわたってレコーディングとライブの共通バンドとなる青山純(ドラム)、伊藤広規(ベース)、椎名和夫、難波弘之という黄金のラインアップが形成され、その最初のレコーディング曲が「RIDE ON TIME」である。
そして前述のディレクター小杉理宇造が、マクセル・カセット・テープのCMに山下自身が出るという企画のタイアップを取ってきた。
そのため「RIDE ON TIME」はTVCMのタイアップ曲として書かれ、またTVに顔を晒したことのない山下が画面に登場するという画期的企画だった。
知る人ぞ知るマニアックな存在だった山下がそのビジュアルと共に、日本全国に知れ渡ったのは、このCMあってこそである。
山下自身「だまされて」出たと言うCMだが、その力を借りてのヒットであり、小杉の敏腕ぶりが光る。
何れにしても、今後の行く末を左右する勝負曲に、これまで起用してきたドラマーやベーシストより実績で劣り、しかも初レコーディングと言う、未知数の青山、伊藤と言う2人を起用した山下の嗅覚と勝負勘には感服する。
実際、スタッフやファンから「何で無名のミュージシャンを使うんだ」と言う批判や反対が相次いだ、と山下が語っている。
9月には同名のアルバム『RIDE ON TIME』をリリース、アルバムチャートで初の1位を獲得。
名実ともにトップミュージシャンの仲間入りをすると共に、自前の融通が利くリズムセクションを遂に手に入れたのである。
最高作の誕生〜『FOR YOU』
好き勝手に作品を作る自由を得た山下は、アカペラアルバム『ON THE STREET CORNER』を1980年12月にリリース。
翌年1981年は全国ツアーに明け暮れて、珍しくリリースのない年となる。
ライブを重ねることでバンドの演奏は成熟し、合間に行われたレコーディングはその成果が大いに反映された。
そして1982年1月満を辞して発売されたのが『FOR YOU』だ。
『FOR YOU』はチャート1位となり、さらに年間チャート2位となる。
前年の81年、師匠筋の大瀧詠一の『A LONG VACATION』がリリースされ、100万枚を突破する大ヒットとなる。
『A LONG VACATION』は永井博のイラストを、そして『FOR YOU』は鈴木英人にジャケットのイラストを山下本人が直接依頼。同じ様にイラストを使用した2枚のアルバムは夏の風物詩となる程、世間に浸透した。
この時、山下は29歳。23歳のデビューから6年が経過していた。
それまではスタジオで多くのミュージシャンを使い分けてきたが、ライブになると演奏できない曲調が出てくる不都合があった。青山純・伊藤広規のコンビはどんなスタイルも満足なグレードで演奏できた。2人の個性的なリズムによってこの時期に、自分自身の音(ヤマタツ・サウンド)を獲得できたのである。
余談だが、同年6月にリリースされた山下のマッチへの提供曲ハイティーン・ブギにも青山純・伊藤広規は参加している。(コーラスは竹内まりや、EPO)
ギターのカッティングのために書かれたSPAKLE
ステージの予備にと1980年に購入した茶色のフェンダー・テレキャスター。SPAKLEはこのギターの音色を活かし、またギターのカッティングを売り物にしたい、そんな曲を作りたいとの思いから書かれたもの。
ライブでもオープニング・ナンバーとして数多く演奏されている。
アルバム発売直前の中野サンプラザ・ホール Live (1981.12.27)音源から。
前述のように、本作の多くは2人+山下で作るリズムパターンから先に構成され、メロディを後付け作ると言う変速パターンで作られた。
そして全編で炸裂する伊藤広規のスラップベース。当時は食傷気味となる程、氾濫したスラップだが今は新鮮に響く。元々ギタリストだった伊藤だが、ラリー・グラハムのスラップを聴いてベースに転向。特にこのSPAKLEは曲全体を支配するほど、強烈である。ドラムの青山純は日本版ジェフ・ポーカロと思わせるドラミングだが、本人はジョン・ボーナムが好きだったらしい。「こうしたR&B的なものを演奏をするには、すごく重いドラムなんですけれども。言ってみればジョン・ボーナムとかですね、カーマイン・アピス、ああいう人たちがですね、やっぱりR&Bが好きなんですけれども、チューニングがすごく重くてですね。」とも山下は語る。(サンデーソングブック 『極私的、青山純追悼特集 』)
A-2のMusic Bookのみは新バンドではなく、岡沢章(ベース)、渡嘉敷祐一(ドラム)、松木恒秀(ギター)、佐藤博(キーボード)で演奏された。重いドラムと太い低音のベースが続くので、この曲だけが軽やかで清涼剤のよう。最も鈴木英人のイラストとフィットする曲感だ。向井滋春のトロンボーン・ソロが効いている。
MORNING GLORYは竹内まりやに提供した曲のセルフカバー。オリジナルのデビッド・フォスターが施したAOR的なアレンジが気に食わず、セルフカバーしたと言う曰く付き。
A面最後の屈指のバラードFUTARIは、当時LAに住んでいた佐藤博の一度帰国に合わせてピアノが録音された。
「本当に佐藤くんじゃないとこれ、できないんですよ。
あの人はね、ああいうフレーズとか全部、自分で考えるんですよ。あの人、だから言うことを聞いてくれない人なので。」と佐藤について語る山下。
竹内まりやのオリジナルMORNING GLORY
LOVE TALKIN’はフューチャー・ファンクの元ネタ
B面のオープニングはLOVELAND, ISLAND。もともとはサントリービールのCMのために書き下ろされた。意図的にシングル・カットしないことでアルバムのセールスを伸ばすという販売戦略で、シングルにはならなかった。ここでも伊藤のスラップと青山のキックが曲を盛り上げる。
LOVE TALKIN’はフューチャー・ファンクの元ネタとしても人気だ。80年代~90年代の様々な音源をサンプリングし、デフォルメさせたエフェクトで仕上げるインターネットの中で派生的に生まれたフューチャー・ファンク。日本の80年代シティポップをサンプリングした。このフューチャー・ファンクの躍進によって逆輸入的に日本のシティポップの人気再燃につながった。
Saint Pepsiは「Skylar Spence」というタイトルの曲の中でLOVE TALKIN'をサンプリング。Night TempoによるPlastic Loveと共にフューチャー・ファンクの代表作品となり、海外でのシティポップ注目の礎となった。
そしてこのアルバムのみならず、山下達郎のキャリアの中でも異色のHey Reporter!。忌野清志郎が歌いそうな内容の歌詞でファンから評判の悪いが、自分もいつもこの曲を飛ばしていた。
本人のコメントを見ると「名演」と言って気に入っているようで、確かにこのゴリゴリの黒っぽいサウンドはクセになる。
NHK FM “山下達郎”三昧でもリクエストがありかかっていたし、「タツローサウンド」への固定概念があるのは古いファンかもしれない。
そして締めは名曲YOUR EYES。YOUR EYESは竹内まりやのために書かれた曲だったが、不採用となった。アラン・オデイに自分用の作品を依頼した最初のもの。プログレ好きの青山純や難波弘之は“プログレのノリ”で演奏しているという。バラード好きと言う青山がシンプルだが印象的なフレーズのフィルインを聴かせる。
RCA時代の終焉とその後
1982年秋、RVC(RCA)との契約を解消。ベスト『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』がRVC最後の作品となる。
RCAを退社した小杉理宇造が立ち上げたアルファ・ムーンに移籍し、1983年に『MELODIES』をリリース。
その中のクリスマス・イブは、1988年になりJR東海「ホームタウン・エクスプレス」のCMに使用されて急上昇、1989年12月に30週目のランクインで1位となる。
以降、山下の代名詞となるが、この曲でも青山純、伊藤広規はリズムセクションを担当している。
小杉はその後山下達郎と竹内まりやのマネージメント会社であるスマイルカンパニー代表取締役社長就任。
2022年にその息子、小杉周水がスマイルカンパニー社長を継いでいる。
周水(Shusui)はミュージシャンでもあり、目にハンディキャップがある障がい者でもある。子どもをテーマにした「育音(Iku On)」を発案し、保育園、障害者施設などでのライブ活動やボランティア活動にも力を入れている。
青山純と伊藤広規、そして難波弘之は長らく山下のバックバンドとして、レコーディングとライブに参加し続けた。多くのヒット曲、そして竹内まりやのプラスティック・ラヴ等の代表曲でも印象的な演奏を残している。
残念ながら、青山純は2013年12月3日、56歳の若さでこの世を去る。
上原裕はその後も断続的に山下のアルバムに参加。昨年リリースの最新作『SOFTLY』にも参加している。
『SPACY』で名演を展開したミュージシャンの何人かもこの世を去った。
佐藤博は2012年急逝。享年65歳だった。
ギターの松木恒秀もうこの世にはいない。
村上“ポンタ”秀一は2021年、そして坂本龍一は2023年にこの世を去った。
最後に、サンデーソングブックの『極私的、青山純追悼特集 』での山下達郎の言葉でこの章を締めくくりたい。
『友達の死というのは、大変に悲しいし、残念な現実ですけれども、それでも我々は生きていかなければならないし、音楽を続けていかなければなりません。
青山純の数多の名演というのはしっかり記録に残されております。残された者は去っていった人々の思いを受け継ぎながら音楽を続けていかなければならないと思っています』
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