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真砂寮

 某機構に夏期実習生として来た僕に用意された仮住まいは,研究所から歩いて十五分ほどのところにある独身寮だった.
 四つの棟が往来に対して垂直に並んでいて,僕は四棟の3階の一室に案内された.部屋は机と椅子,ベッド以外何もなく,微かに木の匂いがする.僕は管理人から一通り説明を受けたあと,黄色い札のついた鍵を受け取った.管理人は蒼白い顔をした背の高い坊主頭の男で,黒縁の眼鏡をかけている.
 寮はずいぶん古いものらしく,至るところが老朽化して,壁は長い亀裂が走っていたり,抜け落ちたりしている.どうやら僕の泊まる四棟のほかは現在使用されていないようだった.駐車場には一台の白いインプレッサが駐まっていて,異質感のあるゴールドのホイールが周囲の不気味さに埋もれることのない存在感を放っている.
 僕は寮食の申し込みを明日からにしてしまったので,さっきコンビニで買ったパスタと缶チューハイで夕食を済ませた.そして今日はもう寝て,明日からの実習に備えることにした.遠くの方からコオロギやスズムシの合唱が聞こえる.真砂寮を含む月夜の闇は、黄色い、小さい、薄汚れた電灯の裡に、いよいよ闃寂として更け渡って行く.

 次の日(月曜日だ)僕はまず,先端研に向かった.先端研の担当者の部屋で午前10時に集合という約束になっている.寮を出て北にしばらく歩くと右手に研究所の正門が見えてくる.夏はまだ太陽の暴行を許していて,少し外に出るだけで身体が溶けて骨がみんな抜け落ちそうなくらい暑い.正門の前ではサングラスをした大柄の警備員が立っていて,正門の写真を撮っておこうと思ってスマホのカメラを向けた僕は注意を受けてしまった.どうやら撮影は禁止されているらしい.仕方がないので気を取り直して門をくぐり,受付を済ませた.
 まだ集合時間までは30分ほどあるが,先端研を探すことにした.門から左側に進むと,コンビニと食堂が並んでいて,大きく豆大福と書かれたのぼりが掲げられている.僕はしばらく地図を見ながら周囲をぐるぐるしていたが,肝心の先端研がどれか全然わからない.やむなしと思い,優しそうな職員さんを捕まえて尋ねてみたが,指さされた建物へ行ってみるとそこには「安全管理棟」と書かれていた.全然違うじゃないか.周囲に他の職員はみつけられない.僕はひとつひとつの建物の名前を見ていくことにした.
 掌が汗ばんでいる.
 大丈夫だ,まだ時間はある.
 そうこうしているうちになんとかみつけることができたが,それは僕がさっき横を何度もぐるぐるした建物だった.僕って本当にだめ.建物の中は冷房がよく効いていて,僕は入り口横の椅子で少し涼むことにした.
 今日は早めの出発ができていて本当によかった.汗も引いてきたころ,やっと階段をのぼって約束の部屋に向かった.僕は時計に目をやり,その針が午前10時を回る僅か2分ほど前であることを確認してから一度深呼吸をし,ドアをノックした.湖に張った氷の厚さを,そこを渡る前に慎重に確かめる旅人のように.
 「どうぞ,ああ,お入りなさい」
 という男の声が間を置かず中から聞こえた.まるでかなり前からノックをじっと待ちかまえていたみたいに.
 担当者は背が高くすらりとした,中年の物腰柔らかな男だった.そこから研究所のことや研究状況,今回の研究テーマについての説明を受け,研究施設を幾つか見学して,その日は終わりということになった.
 僕は研究所の前のコンビニで水を買ってから寮に戻ることにした.ここのコンビニがこの辺りで唯一買い物ができるところだ.僕はコンビニで買い物を済ませると,まっすぐ寮に戻った.

 僕の部屋へ行くには四棟に入って左に進み,立ち入り禁止になっている渡り廊下の前にある階段を上らなければならない.この階段の前の渡り廊下は,天井崩落の恐れがあるために立ち入り禁止となっている.そんなことあるのか.僕はちょっとした好奇心から,半開きになっている渡り廊下の扉の向こうを覗いてみた.警告のとおり,天井は剝がれかけている.床は苔むして一面モスグリーンになっている.しかし,よく見ると一面の苔の中に人の足跡のようなものを発見した.まだ人の出入りがあるのだろうか.
 僕はそのまま,魔物に魅入られたように扉を抜けて渡り廊下に侵入してしまった.足に苔の感触が伝わる.電灯は一つもなく,あたりの様子はよくわからない.扉の向こうから漏れ出る光を頼りにして歩き進めていく.しばらく歩くと向こう側の扉の前まで来た.扉は閉ざされている.しかし鍵はかかっていなかったようで,ノブを回して引いてみると,扉は天井と干渉して音を立てながら開いた.僕はまた,扉の向こうに足を踏み入れた.
 おそらくここは三棟ということになる.暗くて周囲がよく見えないが,四棟とほとんど同じ造りをしているらしく,いくつか小さい部屋が並んでいる.現在は使用されていない棟のはずだが,しかし,その中のある一室に人の気配を感じた.呪われた好奇心のためか,僕はその部屋の扉を少し開けて覗いてみることにした.一度深呼吸をしてから,ドアノブを捻る.扉が「ギィー」と音を立てて開く.そこで眼に飛び込んできたのは思いがけない異様な色彩だった.
 人肉の灰色,骨のコバルト色,血のセピア色……それらのすべてが放つ眩しい……冷たい……刺すような,斬るような,抉るような光芒と,その異形な投影の交響楽が作る,身に滲み渡るような静寂さ…….
 いつのまにか,コオロギの鳴き声もスズムシの鳴き声も聞こえなくなっていた.


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