#21 母と母をゆるせないわたしの話
こんにちわ。id_butterです。
人生で最高に不幸な時に恋に落ちた話 の21話目です。
今回は母について書きます。
離婚みたいな人生の大きなイベントの時って、清算されていない過去がふと首をもたげる、みたいなことが起きますよね。
母には(父にもだけど)、離婚することをまだ伝えていない。
というのも、わたしと母(父もだけど)の関係は微妙だからだ。
母との関係は #10 #15 #16 とかで少しずつ書いているが、シンプルにいうとわたしは母が怖いのだ。
昔の記憶を辿ってみるに、母親ですら私にとっては守る対象だった。母親に甘えたことがあっただろうか、抱きしめられた記憶もなぜだかない。成績がよいことがわたしの価値だった。
小学生の時、痴漢にあったことがある。帰ってそれを打ち明けた私に、母親は「汚い」と言い放ち、泣きながら私をゴシゴシ洗った。私より傷ついてしまう、私のことなんか見ていないまるで子どものような母。その時から見下していた。実際、母はよく私に「馬鹿にしているの?」と言っていた。
「お母さんはわたしに怒っているんじゃない、わたしの中のお母さんに怒っているんだ。」不意をついてわたしから出た言葉をわたしにはあまりよく理解できなかったが、母には伝わったようだった。
上記は、#10からの抜粋だが、母は子どものわたしですら近付きがたい雰囲気を放つときがあった。
母はどんな人だっただろう。
きれいな人だった。よく婦人会とかPTAの写真で浮いてしまっていた。きれいなのだが、頑なな人で写真にはそれが映し出されてしまう感じ。周りと空気が違うのだ。実際に婦人会とかで意見が合わなくて行かなくなったりしたことがあった。
よく、寝ていた。食べている途中に寝てしまうくらい、母は疲れているときがあった。専業主婦でそんな趣味があるわけでもないのに、なぜ疲れていたのだろうと今は思う。眠いのは離婚したがっていたわたしと同じだから、母にとっても結婚生活は生活はつらいものだったのかもしれない。でも、そんな母に気づいてあげる人は誰もいなかった。
一度病気をしたから、そのせいかもしれないけど、それだけじゃないような気がする。
小さい頃、母が寝ているとさみしかった。何度も起こして、でも起きてくれなくて、その後どうしたかは覚えていない。
母は専業主婦だったので、そばにいる時間は少なくなかった。
でもなぜかわたしはずっとずっとさみしかった。なんでだろう。
優しかった母の記憶は覚えている限り2つある。
一つめはお金をなくしてしまったときだ。辞書を買おうとして握りしめていた5000円がいつの間にかなくなっていた。慌てて、震えながら電話して謝るわたしに母は「かわいそうに」と言った。正直、ものすごく驚いて、ボロボロ泣いた。絶対に死ぬほど怒られて嫌味を言われると思っていたから。
二つめは大学に受かったときだ。
受かった、と報告するわたしに母は「よかったね、〇〇ちゃんの努力が実って本当によかった」という声は電話ごしにもわかるほど涙声だった。
母が素敵だと言う慶應や早稲田に受かった訳じゃないのに、と思った。
このエピソードだけを読んだら、優しい母なのに、脳内の母は上書きされないままで、わたしは母を怖がっている。
わたしが実家を出たときの話だ。
喧嘩の詳細は覚えていないが、最後に母が言った言葉は忘れられない。
「わたしの家から出て行って」
つまり、20年近く過ごしたわたしの家は、ここではないのだ。そう思った。
そのまま出て行った。
後から戻ったけど、そこから10年弱は #4 で書いた通りでぐちゃぐちゃの生活だった。この言葉がなければ、今回離婚する夫とも会わなかったのだ。
わたしは母を信用していない。
母がわたしを愛しているとも思っていない。
母の優しさには代償が必要だった。
優しくされたら、あるいはされるためには、その代わりに何かを支払う必要がある。
成績がよくないと愛されない。
いい子にしていないと優しくしてもらえない。
どうしてかわたしはそう思い込んでいて、今でも人の優しさをうまく受け取ることができない。
優しさを受ければそれを数えて、どれだけその人に返せばチャラになるのかといつも考えているいやな人間だ。
ただ、それは母も同じであるようだ。
わたしたち親子には優しさを受け取れない遺伝子が受け継がれているのだった。
母から子どもの頃の話を聞いたことがある。
母には上に姉が下に弟がいるのだが、長男でも長女でもない母は差別されていたようだ。例えば、どんなに勉強して、姉より弟よりいい成績をとっても進学させてもらえない、というようなことだ。その割にしつけは一番厳しかった。たしかに、母はお嬢様のように見えた。
その50年後、贔屓されていた頭のよい姉が先祖代々の田んぼを売ろうとするなどと祖父母は考えもしなかったようだ。差別されていた母は祖父母のために怒り泣いていたというのに。
わたしも、姉と兄といつも比べられていた。
兄は一番母に愛されていた。
わたしがお風呂に入ろうとして服を脱ぎかけていても、兄が入ろうとしたら服を着て兄にお風呂を譲らなくてはいけないのだ、母曰く。
優等生の姉は父の自慢だった。
姉が離婚して家に帰ってきたとき、その信用は地に堕ちた。
わたしは、成績がよかろうと「成績がよいからといって人を小馬鹿にする」といわれるのだ。
わたしが家を出た後、母は言っていた。
「わたし、〇〇ちゃんに厳しすぎたような気がするの。」
しつけが厳しいことが悪いこととは思わない。
ただ、その裏付けに愛がなければただのいじめなのだった。
母に愛がなかったとも思わない。
ただ、母はいつも、自分の中の過去なのか後悔なのか怒りの感情なのかわからないがそれと向き合っていて、その時のわたしをみてはくれなかったし、側に寄り添ってはくれなかった。
子どもに伝わらない愛なんて、意味がないのだ。
浪人生のころ、わけのわからないめまいに何度も襲われた。
かかりつけの病院で、MRIなどの精密検査を受けた方がいいと勧められたが、そのお金を母は出さないと言った。
その話をしたら、その時付き合っていた彼は「お前の家族はおかしい。おれのうちはお前のうちより貧乏だけどそんなことだったら必ずお金を出してくれる」と憤った。
そうなのか、これが普通ではなかったのかと知った瞬間だった。
離婚しようとし始めてから、母から頻繁に連絡が来るようになった。
何も知らないはずなのに、わたしの勘は母譲りらしい。
片道1時間半かかるというのに、栗ご飯を作って持ってくるという。
コロナが心配だから、孫の顔を見にきただけだから、と繰り返し、15分ほどの時間を公園で過ごした。
白毛の増えた父と小さくなった母に、離婚の話はできなかった。
帰りがけ、「わざわざありがとうね」と声をかけると、「あらまあ」と母は首を振った。
それを見て、やっぱりこの人も受け取るのが下手だなぁ、と思った。
いつも本音を本当の母とは話せない。
でも、母に伝えたいことがある。
子どもって、親のいう通りにはならないけど、のぞむ通りにはなるらしいよ。離婚するなんて、全然のぞむ通りではないって思うかもしれない。
でもね、わたしは今、どこまでも自由でとても幸せなの。
お母さんは自由になりたかったんじゃないかなってわたしは思うんだよ。
だとしたら、わたしはお母さんの夢を叶えたことにならないかな。
お母さんが欲しかったのはこれじゃないかなって思ったんだ。
本当の母には伝わらないような気がした。
もう一つある。
お母さん、わたしがんばったんだよ。
ずっとずっとあきらめないでがんばったらいつか叶うって信じ続けた。
でも、だめだったの。
ごめんね、お母さんの思うような子どもにはなれなかった。
これは伝わるのかもしれない、でも言えないまま終わるだろう。
わたしのことを愛していない母を心の中でいつも追いかけてしまう。
本当の母にはできない話を何度も何度も心の中で繰り返している。
母は、祖母が亡くなった時とても悲しんでいた。
母から聞いた祖母はただの鬼婆だったのに、母にとっては母だったんだろう。
わたしは母の死に間に合うだろうか。
それまでに母を許すことができるのだろうか。
小さな母の背中を見ながら、そんなことを考えた。
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