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理科準備室 −過呼吸になるまで嫌だった部活を辞めた話−

理科準備室でもらった言葉を、大人になった今でも考えながら暮らしている。
中学の部活の厳しさについていけず、怪我がきっかけで挫折してしまいそうなときに、担任の言葉のおかげで再出発できた、という想い出話。

小学校から始めたソフトボール

ソフトボールは小学校のクラブチームで2年間やっていて、あんまりうまくはなかったけど、14時くらいに学校が終わったあとそのまま帰宅して家で過ごすよりずっと楽しかった。チームの友達は初心者の子ばかりで、勝つことを真面目に追い求めるというより楽しくプレーをするチームだったと振り返って思う。チームには小学校4年生から6年生まで参加していて、年齢関係なく仲が良かった。試合が終わったあと焼きとうもろこしを一緒にかじりついたことや、プロフィール帳(今の子分かるかな?)を交換し合った思い出もある。

先輩後輩に戸惑う

通っていた小学校から歩いて10分ほどのところに中学校はあったため、私立受験をした子以外は中学校でも一緒だった。中学校に入学してすぐに、小学校で一緒にソフトボールをしていた同級生と、ソフトボール部に見学に行った。

小学校のチームで仲良くしてくれていた、年齢が1個上の友達とも再会できた。
でも。
「お久しぶりです!」「○○先輩ですよね?!」「よろしくお願いします!」
中学校からは年上の人は先輩だから、敬語を使わなくちゃいけないんだって。小学校で言葉遣いとか気にせずに、もしかしたらクラスメートよりも濃い時間を過ごした友達は、もう友達ではいけないみたい。中学校の暗黙のルールにすぐに適応できている同級生の隣で、私はすごく居づらさを覚えた。体験入部をして先輩から「バッティング上手くなったね!」と声をかけてもらって、嬉しかったけど、「ありがとうございます!」と微笑み返すのは気持ち悪かった。

他の部活は特に覗かず、結局ソフトボール部に入った。

後輩の役割


まず入部してすぐの一年生に求められたのは、コーチが試合中に出すサインを覚えることと、先輩の練習前にボールやベース、ネットなどを用意することだった。あとはひたすら校舎の周りをランニングしたり、キャッチボールや基礎練習をしたり。バッティングの練習は先輩だけで、一年生は打たれた球を捕るのに回された。ノックや試合形式の練習も、コーチにボールを渡したりする仕事が与えられて、プレーはできなかった。
一番大変だったのは先輩が朝練に来る前に準備をするために登校することだった。もう記憶も薄くなってきたけど、確か平日は毎朝6時50分ごろから先輩たちは練習し始めるので、10分前には準備を始めなければならない。休日もどちらか1日は必ず練習が入るし、他校との練習試合の前は5時台に行くこともあった。寒いのも朝起きるのも苦手だったし、自分がプレーできないのに準備をするのはキツかった。

一年生が先輩やコーチの補助にまわるのは、運動部なら当たり前かもしれない。ランニングやバッティングでの球捕りも、長い間屋外でプレーする体力を付けたり基礎的な能力向上に繋がるだろうから、決して無駄なことだとは思わない。ここまで書いたことよりもっとキツかった部活出身者もいると思うし、これだけで苦しくなるのは弱いと思われるかもしれない。その通りで私は弱かった。今だから打ち明けるけど、入部して3ヶ月経った頃には、部活が始まる前にトイレで10分くらいしゃがみこんで気持ちを落ち着かせてから向かうようになっていた。


骨折、挫折

夏休み中は練習や試合で部活のスケジュールは埋まっていて、休みは1週間に1回あるかないかくらいだった気がする。夏休みの練習中、ボールを捕るときのミスで右手の人差し指を骨折した。怪我をした瞬間に涙が抑えられないほど痛みが広がったけど、練習を勝手に中断して抜け出す勇気がなく、練習が終わるまでの5分間は我慢して練習を続けた。骨折したのは人生で初めてで、大きな病院で見てもらったら明日手術だと言われてびっくりして泣いてしまい、それを見た母親からも可哀想だ、代わってあげたいと泣かれた。
指の小さな怪我だったけど、人差し指を固定して生活しなければいけなくて、手術後2ヶ月くらいは右の肩と腕に包帯を巻いて過ごした。人差し指を曲げてはいけなかったけど、文字は書けるし体育以外の学校の勉強で特に困ることはなかったので、格好だけ仰々しくて少し恥ずかしかった。

骨折してからはソフトボール部に行かなくなった。



担任との面談

部活の先生に骨折して手術したことを親と報告しに行った際、親が「しばらく部活を休ませてもいいですか?」と言っていた。

もう部活に行かなくても許されたと思いながら、部員や部活の先生とは気まずくなり会わないように願いながら学校生活を送っていた。ばったり会ってしまったら挨拶しなければ、と恐怖に近い感情で会釈した。
もうすぐ包帯が解かれ怪我が治るというころ、担任の先生と面談することになった。

面談するから、と呼ばれたのは薬品や実験器具が入った棚に囲まれていて、普通の教室の4分の1の、狭い縦長の理科準備室。プライバシーを配慮して正面のドアは閉めていたけど、理科室と繋がる戸は半分空いていて、完全な密室ではなかった。理科室特有の匂いが抜けず換気の役割をあまり果たしていないような窓からは、校内を掛け声をして走る運動部の姿がよく目に入った。

担任は骨折する前から部活で忙しくしている私を気にしてくれていた。放課後急いで部活に向かおうとする私に、「心臓動いてる?」となんだかよく分からないユーモアで心配してくれることもあった。私はクラスで学級委員をやっていたので担任と話す機会も多く、信頼関係もあった。クラスメートとうまくいかず相談したときは、「先生は味方だよ」という一言が何よりも嬉しかった。

面談ではまず最近の友達関係や、授業のことを聞かれ、すぐ本題に入らなかった。ちょっとわがままなクラスメートの女の子のことを茶化しながら軽く会話をした。
それで、と一言おいてから、部活はどうなってる?と優しい声で聞かれた。
怪我したことを理由に夏休みから1回も行ってないことを伝えると、怪我しててもできることはあったんじゃない?と返された。痛かった。その通りです、と反省した声をつくった。
怪我のせいだけじゃない。怪我のせいじゃない。怪我はきっかけだけで、本当の理由は別のところにある。もう分かっていたけど、先生に自分の弱さを言葉にできなくて、怪我のせいということにして押し切りたかった。

それから、週に2回くらいは面談しようと担任に声をかけられた。毎回雑談から始まって、担任は車輪のついた模型?おもちゃ?を片手で走らせて遊びながら私の話に相づちしていた。「ちゃんと聞いてますー??」とちょっと怒ってみせると、「聞いてる聞いてるよ」と笑った。本題に入ると体もつま先も顔も私のほうに向け、真っ直ぐな目で聞いてくれた。

通っていた中学では帰宅部がなく、全員どこかの部に入らなければならなかった。なので、この面談のゴールは私がソフトボール部を続けるのか、それとも別の部活に途中から入るのかを決めることだった。でも、決められないまま秋から冬になって、年を越した。決めなければいけないと担任からも言われていたけど、急かしたりはしない優しさに甘え、部活のことだけじゃなく学校生活のいろんな話を聞いてもらった。
それに、放課後は理科準備室にいるのが一番楽しいように思えた。
担任のコーヒーとタバコの匂いと、よく徹夜をして仕事をしているくらい忙しいのが気がかりだったけれど、私との面談を面倒くさがるような素振りは一瞬も見せなかった。


決断


新年になって、ソフト部を続ける気はどれくらいあるのかとか、やりたい部活を出してみて、と決断に向けた具体的なことを担任から言われるようになった。部活を変える人は学年に2人くらいしか聞いたことがなかったので、普段いい子にしていた自分が逸脱者になることに抵抗感があった。そんな消極的な理由で、もう一回試しにソフト部に戻ってみて今後もできそうか考えるのは?と聞いたら、それは部員の子も混乱するし、戻るなら続けないといけないと思う、と言われた。初めて君の意見を否定した、とフォローのように担任は付け足した。

決断する勇気の無さが変わったのは、担任が普段のスーツの上にダウンを羽織っていた日の面談だった。生徒は登下校の防寒に大きめのマフラーでぐるぐる巻きにするのが流行ってたけど、私は小さめのマフラーを買ってしまって、ボリュームの出る可愛い巻き方はできなかった。

「自分で自分の選択を正解にしていけばいいんだよ」

学級委員の仕事は学校の規範があって正しいことと正しくないことが分かりやすかったけど、転部するとかしないとかは考えても正しい答えがずっと出せなかった。考えるところで立ち止まっていた私は、決断すること、その先で努力することのほうが大事だと気付かされた。

出逢いと別れ

2月の終わりにソフト部を辞めることを部活の先生に話に行き、卓球部に入部した。
入部するにあたって部員と仲良く楽しく部活をしたいと言ったら、担任は「それも大事だけど、上手くなるよう努力することもしてほしい」と言われた。もちろん入ったからには努力するつもりだったけど、今まで人間関係にかなり悩んできて囚われてきたのだと自覚した。

卓球部はソフト部のような厳しい部活ではなく運動部の中でも緩めだった。同じ学年の中に卓球部を辞めて吹奏楽部に入った子がいたので、その子に部のまだ綺麗なユニフォームをもらうことができた。卓球部の同級生にはクラスメートも何人かいて、「卓球部に入ってくれてうれしい」と喜ばれてしまいびっくりした。
同級生にくらべて約1年の遅れを取り戻すために、基礎練習をコーチや先生、同級生に徹底して教えてもらった。できないことがあればよく聞きにいき、練習に付き合ってもらった。土曜の練習では練習時間外も残ったメンバーと帰宅時間になるまで練習した。

これからもっと上手くなって、「自分の選択を正解にしていく」ところを担任に見せたい、というのが私の一番のモチベーションだった。桜が咲き始めて、担任は来年から別の中学に異動すると分かった。

当たり前にこれからも近くで見ていてくれると思っていた。数日前の卒業式で、1年生でクラスを受け持った生徒が卒業していくところを本当に良い笑顔で見送ってたじゃない。私のこともあの顔で見送ってくれるまで、あと2年はこの学校に残ってると思ったのに。

離任式の日に担任はいろんな生徒から言葉やプレゼントをもらっていて、「あ、担任に助けてもらったのは私だけじゃないんだな」とか思わされた。私もその列に並んだけど、たぶんありきたりな言葉しか言えず、母が買ってくれたコーヒーのギフトを渡して終わったと思う。「苦労した分、楽しいことがある!がんばれ!」とまた大事にしたい言葉をもらって、握手をした。意外にあっさりとした別れで、泣くかと思ったけど泣かなかった。ソフト部をどうするかということを部活の先生や部長と話すときはよくわけも分からず過呼吸になるくらい泣いてしまったのに、担任と話すときは一回も泣いていなかったことに最後になって気づいた。最後まで担任の前では泣かせてくれないことに文句を言っておけばよかった。

3年生の夏

元担任の言葉を胸に練習に励んでいた私は、中学校3年生になって、部内で5チームあるうちのうまい順から2番目のチームに入れるまで成長した。3年生の引退試合である中体連は隣の市の大きな運動場で行っていて、体育館で卓球をやっている外ではサッカーの試合が行われた。元担任はサッカー部の顧問で来ていて、卓球のほうも見に来てくれていた。団体戦の試合前に会うことができ、試合も見ていてくれていた。試合は接戦で、チーム内で試合を行う順番的に私が勝ったら勝てるという状況でプレッシャーが大きかったが、なんとか勝つことができた。あとで友達から、「先生がすごく応援してたよ」と言われて恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになった。最後に応援しに来てくれてありがとうございました、と言う前にもう元担任はいなくなっていた。
団体戦は2トーナメントあるが、出場したほうの中で2位か3位になれた。個人戦は自爆のミスを多くして1回戦も突破できなかった。待ち焦がれた夏は来て、熱を残しながら消えていった。



言葉と生きる


自分で自分の選択を正解にしていけばいいんだよ。中学の部活が終わってからも、ずっと私はこの言葉とともに生きてきた。元担任の言葉で、「信じることと、疑わないことは別物」と言っていたのも覚えているが、分かるようで分からない部分もあり、まだ自分の経験と結びつけて解釈するのが難しい。その意味を考えながら暮らしている。疑わない言葉を胸に、もがきながら今は大学生をしている。

理科準備室で話してくれたこと、話せなかったこと、話したかったこと。今ならあのときよりもっとうまく言葉に乗せて届けられるかなと思って、久しぶりに年賀状を送った。


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