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【短歌表現】序章:異種百人一首

Takahiro Sakaiさん撮影

王朝和歌の絢爛たる世界が蘇る!

藤原定家の「小倉百人一首」。

「原色小倉百人一首」 (シグマベスト)鈴木日出男/山口慎一/依田泰(著)

「小倉百人一首―みやびとあそび―」平田澄子/新川雅朋(著)

足利義尚の「新百人一首」に続き、

丸谷才一が新たに編んだ「新々百人一首」。

「新々百人一首〈上〉」(新潮文庫)丸谷才一(著)

「新々百人一首〈下〉」(新潮文庫)丸谷才一(著)

新百人一首は、藤原定家撰の小倉百人一首に漏れた著名な歌人の歌を、勅撰和歌集から百首選定したものであり、新々百人一首は、25年の歳月をかけて、定家と義尚が選んだ二百人を敬遠せず、かつ両人の取った二百首との重複は避けて厳選した不朽の秀歌百首と、スリリングな解釈(それに付された滋味溢れる長短繁簡とりどりの注釈)を施した現代版「百人一首」であり、通読すると歌で読む「日本文学史」にもなっている優れものです(^^)

上巻は、「春」「夏」「秋」「冬」の部を、下巻は、「賀」「哀傷」「旅」「離別」「恋」「雑」「釈教」「神祇」の部を収録しています。

さて、その他の異種百人一首としては、

日本人ならこれだけは知っておいて欲しい、近代100首を、当代随一の歌人が選び、心熱くなるエッセイとともに、未来へ贈る名歌集「近代秀歌」。

「近代秀歌」(岩波新書)永田和宏(著)

大好評を得た「近代秀歌」の続篇として、「今後100年読まれ続けて欲しい」、主として戦後の秀歌100首を編み、著者ならではの視座から、歌の現在を、そして未来を語る一冊「現代秀歌」。

「現代秀歌」(岩波新書)永田和宏(著)

明治から現代迄の100首以上の名歌を取り上げながら、人生という長い旅路の途中には、必ず節目となる瞬間が存在し、その時、たった31文字の言葉に勇気づけられたり、救われたりした自らの体験を、ふんだんに織り交ぜて綴った、心熱くなるエッセイ&短歌鑑賞入門「人生の節目で読んでほしい短歌」。

「人生の節目で読んでほしい短歌」(NHK出版新書)永田和宏(著)

「文藝春秋」創刊90周年企画として、藤原定家が選んだ「小倉百人一首」の向こうを張って、近現代短歌の「新・百人一首」を編み、本書は、読者からの好評を受けてのその新書化「新・百人一首 近現代短歌ベスト100」。

「新・百人一首 近現代短歌ベスト100」(文春新書)岡井隆/馬場あき子/永田和宏/穂村弘(著)

百人百様の“生きた”幕末史を堪能することで、維新の別の一面が浮き彫りになる一冊「幕末百人一首」。

「幕末百人一首」(学研新書)菊地明(著)

歴史の本からは分からない、詠み人の人となりや、日本文化に深く根ざした、お茶の文化を垣間見ることができる一冊「茶の湯百人一首」。

「茶の湯百人一首」(淡交新書)筒井紘一(著)

本書は、中国人60人、日本人40人の古代から現代に及ぶ代表的な漢詩を精選し、和歌に影響を与えた漢詩文を、詩人独自の読みを附すと共に、詩句の由来や作者の経歴、時代背景などを紹介した「漢詩百首 日本語を豊かに」。

「漢詩百首 日本語を豊かに」(中公新書)高橋睦郎(著)

岡本かの子といえば、桜だけを題材にしたものすごい勢いの連作「桜百首」。

「桜」岡本かの子

これらの真・異種百人一首の向こうを張って、短歌表現を「詠んだ人」の視点と「読む」側の感覚を織り交ぜて、新or追体験させてくれる穂村弘さんが選ぶ何でもありの短歌ガチャ100の本書を真似て、

「短歌のガチャポン」穂村弘(著)

もう、なんでもありのマジカルな短歌ワールドを、とことん楽しみなが、考えさせられながら、近・現代短歌を中心に、百人一首選び(≒遊び)をしてみたので、お時間有れば、お立ち寄り下さい(^^♪


【序章:異種百人一首】

■序章:異種百人一首(100首)

「クラビクラと呼ばるるときを知らぬままふたつの窪みはみづを拒みぬ」
(佐藤せのか『西瓜』第六号より)

「ガラス器の無数の傷を輝かすわが亡きのちの二月のひかり」
(松野志保『われらの狩りの掟』より)

「音立てずスープのむときわがうちのみづうみふかくしづみゆくこゑ」
(菅原百合絵『たましひの薄衣』より)

「何度でもめぐる真夏のいちにちよまたカルピスの比率教えて」
(岡本真帆『水上バス浅草行き』より)

「鏡面に揺るる水銀 カデンツァのゆび砕くごと冬はゆくべし」
(金川宏『アステリズム』より)

「罪を知り海を知らないあの場所でかすかに揺れている水たまり」
(島楓果『すべてのものは優しさをもつ』より)

「重力に逆らって翔ぶ鳥の目よ 逆らふ者の美しい目よ」
(片岡絢『カノープス燃ゆ』より)

「水と塩こぼして暮らす毎日に水を買いたり祈りのごとく」
(辻聡之『あしたの孵化』より)

「庭から呼ぶ生きものの声あるような苔盛りあがる美しい冬」
(源陽子『百花蜜のかげりに』より)

「壺とわれ並びて佇てる回廊に西陽入りきてふたつ影伸ぶ」
(睦月都『Dance with the invisibles』より)


「〈青とはなにか〉この問のため失ひし半身と思ふ空の深みに」
(山中智恵子『喝食天』より)

「「とりかえしのつかない ことがしたいね」と 毛糸を玉に 巻きつつ笑う」
(穂村弘『ラインマーカーズ』より)

「「用意」から「ドン!」のあひだの永遠を生まれなかつたいのちがはしる」
(千葉優作『あるはなく』より)

「あはと消ゆる南のゆきのかろきをば降らせたやなうそなたがうへに」
(紀野恵 『フムフムランドの四季』より)

「あやまちて野豚(のぶた)らのむれに入りてよりいつぴきの豚にまだ追はれゐる」
(石川信夫『シネマ』より)

「ある時は小さき花瓶の側面(かたづら)にしみじみと日の飛び去るを見つ」
(北原白秋『雲母集』より)

「うす青き朝の鏡にわが眉の包むにあまるかなしみのかげ」
(蒔田さくら子『秋の椅子』より)

「うつしみの手首にのこる春昼はるひるの輪ゴムのあとをふといとほしむ」
(小池光『サーベルと燕』より)

「うるほへる花群のごと人をりて揺れなまぬなり夏の朝を」
(高木佳子『玄牝』より)

「おだやかな眼差しかへすキリンたちいつも遠くが見えてゐるから」
「looking back at me
 so calm, these giraffes
 because
 they can always see
 such a distance」
(田中教子(翻訳:アメリア・フィールデン/小城小枝子)『乳房雲』より)


「おほかたの友ら帰りし構内に木の椅子としてわれを置きたし」
(澤村斉美『夏鴉』より)

「オルガンに灯る偽終止、頑張れば楽になるとふ属音ドミナントあはれ」
(濱松哲朗『翅ある人の音楽』より)

「きたる世も吹かれておらんコリオリの力にひずむ地球の風に」
(井辻朱美『コリオリの風』より)

「きみの指を離れた鳥がみずうみを開いていけば一枚の紙」
(平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』より)

「くちびるに迫る夕日のつめたさを海に告げたり海はわらふも」
(水原紫苑『さくらさねさし』より)

「クリスマス・ツリーを 飾る灯の 窓を旅びとのごとく 見てとほるなり」
(大野誠夫『薔薇祭』より)

「くれなゐを久遠に閉ざすかのごとく光をおびてゆくりんごあめ」
(門脇篤史『微風域』より)

「ゲットーの四角い窓から降る雪をみているもうすぐ永遠に留守」
(野樹かずみ『もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう』より)

「こころとは見えぬ虚空の水仙の夏の没日に逃げ惑う蝶」
(正岡豊『白い箱』より)

「こんなにも ふざけたきょうが ある以上 どんなあすでも ありうるだろう」
(桝野浩一『てのりくじら』より)


「ささぶねの杭に堰かれてゆつくりと艫を捩らせ流れゆきたり」
(久保茂樹『ゆきがかり』より)

「セケン帝なる皇帝がいるらしいあの日の丸の赤の奥には」
(松木秀『Rera』より)

「そこにはだれもいないのにそこには詩人もいないのにそこにも白い」
(蝦名泰洋『ニューヨークの唇』より)

「それでいてシルクのような縦パスが前線にでる 夜明けはちかい」
(永井祐『広い世界と2や8や7』より)

「ダージリンティーにそえたる砂時計ひそかに吾のときを奪いぬ」
(野上卓『チェーホフの台詞』より)

「だいどこ、と呼ぶ祖母が立つときにだけシンクにとどく夕焼けがある」
(岡野大嗣『音楽』より)

「たくさんの空の遠さにかこまれし人さし指の秋の灯台」
(杉﨑恒夫『食卓の音楽』より)

「たましいを引きあげる手の静けさで記憶以前の場所に燃える火」
(古川順子『四月の窓』より)

「ともすればかろきねたみのきざし来る日かなかなしくものなど縫はむ」
(岡本かの子『かろきねたみ』より)

「どれほどの量の酸素に 包まれて眠るふたりか  無垢な日本で」
(小佐野彈『メタリック』より)


「なにとでも呼べる気持ちの寄せ植えにきみの名前の札をさしこむ」
(遠野サンフェイス『ビューティフルカーム』より)

「ね え見て よ  この 赤 今後  見せ られる  ことな いっすよ この量の 赤」
(木下龍也『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』より)

「ノウミソガズガイノナカデサドウシテセカイハイミトコトバニミチテ」
(森本平『モラル』より)

「ベツレヘム。生まれてきてから知ることの遅さで届くこの遠花火」
(toron*『イマジナシオン』より)

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」
(寺山修司『空には本』より)

「まひるまのひかり食べかけのポテトチップスに贅肉のごとき影なせり」
(西村美佐子『猫の舌』より)

「みづうみにあはくさしだすただむきのこの世にあれば桟橋と呼ぶ」
(黒田瞳『水のゆくへ』より)

「やはり<明日>も新鮮に来てわれわれはながい生活(たつき)の水底にゆく」
(三枝昻之『暦学』より)

「ゆうまぐれまだ生きている者だけが靴先を秋のひかりに濡らす」
(竹中優子『輪をつくる』より)

「わたくしの絶対とするかなしみも素甕に満たす水のごときか」
(築地正子『花綵列島』より)


「われを呼ぶ うら若きこゑよ 喉ぼとけ 桃の核ほど ひかりてゐたる」
(河野裕子『森のやうに獣のやうに』より)

「椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって」
(笹川諒『水の聖歌隊』より)

「一枚の玻璃を挟みてそれを拭く男とわれと生計(たつき)ちがへり」
(今井聡『茶色い瞳』より)

「稲妻が海を巨いなる皮として打ち鳴らしたる楽の一撃」
(奥山心(NHK BS2「ニッポン全国短歌日和」 2010年10月24日放送分)より)

「雨にも眼ありて深海にジャングルに降りし記憶のその眼ずぶ濡れ」
(小島なお『サリンジャーは死んでしまった』より)

「下京区天使突抜(てんしつきぬけ) 雪晴れのさんぽはクノップフの豹をおともに」
(橘夏生『セルロイドの夜』より)

「海を見るような眼をわれに向け語れる言葉なべて詩となる」
(今井恵子『分散和音』より)

「街が海にうすくかたむく夜明けへと朝顔は千の巻き傘ひらく」
(鈴木加成太『うすがみの銀河』より)

「街をゆき 子供の傍を通るとき 蜜柑の香せり 冬がまた来る」
(木下利玄『紅玉』より)

「巻き上がる蔓に支柱の尽きたれば深さ果てなし天上の青」
(木下のりみ『真鍮色のロミオ』より)


「完璧のかたちさびしく照り映えてアル=ケ=スナンの製塩工場」
(安田茜『結晶質』より)

「簡単に生きてみるのは もう止めにするんだ 風が唸る屋上」
(山田航『水に沈む羊』より)

「逆立ちて視る風景よわたくしは芯まで熱き地球儀の脚」
(鈴木英子『鈴木英子集(淘汰の川)』より)

「襟元をすこしくづせり風入れておもふは汝(おまへ)かならず奪ふ」
(春日井建『友の書』より)

「月させば梅樹は黒きひびわれとなりてくひこむものか空間に」
(森岡貞香『白蛾』より)

「月わたる夜を思えば袋田の瀧双つ瀧赤くなりたし」
(佐佐木幸綱『アニマ』より)

「玄界灘の波濤めがけて走り出すともだちのいま生きている背中」
(鯨井可菜子『アップライト』より)

「言葉淡き地上にあれば手は常に強く握れと教えられたり」
(中沢直人『極圏の光』より)

「菜の花を摘めばこの世にあるほうの腕があなたを抱きたいという」
(山崎聡子『青い舌』より)

「坂道で鴇色となり燃え落ちる。午後、妹の髪を噛むとき」
(大橋弘『既視感製造機械』より)


「四万十に 光の粒をまきながら 川面をなでる 風の手のひら」
(俵万智『かぜのてのひら』より)

「子ども抱へし ボート難民の リアルなる渚を 思ふ冬の入口」
(馬場あき子『馬場あき子全歌集』より)

「自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏」
(鈴木晴香『夜にあやまってくれ』より)

「手套(てぶくろ)にさしいれてをりDebussyの半音に触れて生(なま)のままのゆび」
(河野美砂子『無言歌』より)

「初夏の空がどの写真にも写り込みどこかが必ず靑、海のよう」
(立花開『ひかりを渡る舟』より)

「人のかたち解かれるときにあおあおとわが魂は深呼吸せん」
(松村由利子『大女伝説』より)

「人生を やってることには なってるが あまりそういう 感じではない」
(工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』より)

「生きるとは 死へ向かうこと  薄明は 部屋を青へと 染め上げていく」
(伊波真人『ナイトフライト』より)

「生きるとはなにか死ぬとは ハンドソープがわが手に吐きし白きたましい」
(北辻一展『無限遠点』より)

「前に出す脚が地面につくまへの、ふるはせながら人ら歩めり」
(山下翔『温泉』より)


「太陽は山上にあそぶ子供らを食べ鳥どもを食べてかくれぬ」
(松平修文『水村』より)

「地に降りて水へと戻る束の間の白きひかりを「雪」と呼び合う」
(本川克幸『羅針盤』より)

「朝おきて泡たてながら歯をみがくまだ人間のつもりで俺は」
(嵯峨直樹『神の翼』より)

「爪のない ゆびを庇って 耐える夜  「私に眠りを、絵本の夢を」」
(鳥居『キリンの子』より)

「冬木立高くそびゆる傍らに人はゆっくり時計のネジを巻く」
(清水あかね『白線のカモメ』より)

「透明な月球のごとき丸氷にバーボン注げば夏がきている」
(笹公人『終楽章』より)

「曇天のくもり聳ゆる大空に柘榴を割るは何んの力ぞ」
(浜田到『架橋』より)

「覗(のぞ)いてゐると掌(て)はだんだんに大きくなり魔もののやうに顔襲(おそ)ひくる」
(前川佐美雄『植物祭』より)

「白抜きの文字のごとあれしんしんと新緑をゆく我のこれから」
(安藤美保『水の粒子』より)

「薄明のままに明けない日のやうに卵の殻のやはらかな白」
「like the dim light
 before day dawns
 is
 the soft whiteness
 of this egg’s shell」
(紺野万里『星状六花』より)


「微生物ひきつれ弥陀はたたなづく青垣を越ゆしたしたと越ゆ」
(永井陽子『樟の木のうた』より)

「風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける」
(笹井宏之『てんとろり』より)

「並び立つ書架にどよめく死者のこゑ樟のひかりにしずむ図書館」
(上村典子『草上のカヌー』より)

「防犯カメラは知らないだろう、僕が往きも帰りも虹を見たこと」
(千種創一『砂丘律』より)

「癒えること なきその傷が 癒えるまで 癒えるその日を 信じて生きよ」
(萩原慎一郎『滑走路』より)

「夕映えの原子炉一基にやわらかきイエローケーキが降るあさき夢」
(加藤英彦『プレシピス』より)

「葉桜の葉言葉は「待つ」三つ折りのメニューをお祈りみたいに閉じて」
(工藤玲音『水中で口笛』より)

「流灯に重なる彼の日の人間筏わが魂も乗りて行くなり」
(山口彊、Chad Diehl(訳)『And the River Flowed as a Raft of Corpses』より)

「恋ふは乞ふましろの梨の花のもと雨乞ふ巫女か白く佇ちたる」
(大沢優子『漂ふ椅子』より)

「眩むほど水かがやきぬ街を縫ふ細き流れを朝越ゆるとき」
(高野岬『海に鳴る骨』より)



<今後の予定>
【短歌表現】序章:異種百人一首
https://note.com/bax36410/n/n3c9d55768021

【短歌表現】第一章:新種二百人一首
https://note.com/bax36410/n/nee908066d92b

【短歌表現】第二章:新種三百人一首
https://note.com/bax36410/n/n9dea0b13b06b

【短歌表現】第三章:新種四百人一首
https://note.com/bax36410/n/nb91f879cfc1f

【短歌表現】第四章:新種五百人一首←ここが限界か(^^;
https://note.com/bax36410/n/n410ddabf4a3f

【短歌表現】第五章:新種六百人一首

【短歌表現】第六章:新種七百人一首

【短歌表現】第七章:新種八百人一首

【短歌表現】第八章:新種九百人一首

【短歌表現】終章:新種千人一首(目標)



【予習】

短歌の歴史は古い。

その短歌を集めた、歌集の一つとされる万葉集は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。

和歌は、万葉集の時代以来、1300年余りにわたって脈々と詠み継がれて来た日本独自の文学形式といえる。

古い歌にも、その良さがある。

和歌とは、中国の詩である漢詩に対して、日本における大和歌の意味で使われた。

和歌には、奈良時代までは、五音と七音を組み合わせた様々な形式のものがあったが、平安時代以降、「五音・七音・五音・七音・七音」五句三十一音の短歌以外はあまり作られなくなった。

現在では、江戸時代までの作品は和歌、明治時代から後の作品は短歌と呼んでいる。

現在使われている仮名使いは、1946年11月に告示されたもので、それを新仮名遣いと言うが、それ以前(平安期以来)使われてきた仮名遣いは、「歴史的仮名遣い」「旧仮名遣い」と呼ばれる。

どちらを使っても良い事になっているが、一首の中では、「歴史的仮名遣い」と「旧仮名遣い」を混合させない事となっている。

さらに、一首の短歌は、口語体で詠んでも文語体で詠んでも、口語体の中に文語体が混ざっても、良い事になっている。

ただ、文語体で詠むなら、品詞の分解や動詞・助動詞などの活用形、接続の法則などの文語文法についての理解が欠かせない。

短歌においては、口語と混用される文語はそう多くないので、その部分については誤りがないか確認する必要がある。

内容によって文語体の方が良い場合と、口語体の方が良い場合があるが、現代短歌は、外来語なども多用されるので、口語で詠むのが、主流になって来ている。

歌人にとって、自分で納得のいく一首が出来た時の喜びは、他の何にも、換え難いものである。

[テキスト]
短歌表現―コミュニケーション技術における学習効果の検討―

【授業】

カテゴリー「短歌のことを考えました」の47件の記事

【復習】

【参考記事】

【参照文献】

コレクション日本歌人選 源実朝  三木麻子 著(笠間書院)
コレクション日本歌人選 菅原道真 佐藤信一 著(笠間書院)
コレクション日本歌人選-紫式部 植田恭代 著(笠間書院)
伊勢物語・大鏡・古事談・徒然草  新編日本古典文学全集(小学館)
一条摂政御集注釈 平安文学輪読会(塙書房)
院政期政治史研究  元木泰雄 著(思文閣出版)
栄花物語・大鏡  新編日本古典文学全集(小学館)
王朝の映像  角田文衛 著(東京堂出版)
王朝の映像-平安時代史の研究  角田文衛 著(東京堂出版)
王朝の歌人9 乱世に華あり 藤原定家 久保田淳 著(集英社)
王朝の変容と武者:古代の人物6〈三条天皇 藤原道長との対立〉 中込律子 著(清文堂出版)
王朝歌壇の研究 桓武仁明光孝朝篇  山口博 著(桜楓社)
歌合集 日本古典文学大系(岩波書店)
季刊墨スペシャル 百人一首(芸術新聞社)
貴族社会と古典文化  目崎徳衛 著(吉川弘文館)
金槐和歌集 新潮日本古典集成(新潮社)
愚管抄 日本古典文学大系(岩波書店)
訓読 明月記  今川文雄著(河出書房)
古事談・保元物語 新編日本古典文学全集(小学館)
後撰和歌集・拾遺和歌集・後拾遺和歌集 新日本古典文学大系(岩波書店)
後鳥羽院御口伝・井蛙抄 歌論歌学集成(三弥井書店)
後鳥羽院御口伝・近代秀歌 日本古典文学大系 歌論集 能楽論集(岩波書店)
最勝四天王院障子和歌全釈 渡邉裕美子 著(風間書房)
三条天皇  倉本一宏 著(ミネルヴァ書房)
紫式部集全釈 笹川博司 著(風間書房)
人物叢書 菅原道真 坂本太郎 著(吉川弘文館)
崇徳院怨霊の研究 山田雄司 著 (思文閣出版)
袋草紙考証 雑談篇  藤岡忠美 他 著(和泉書院)
大鏡 新編日本古典文学全集(小学館)
大和物語 新編日本古典文学全集(小学館)
大和物語・栄花物語・大鏡 新編日本古典文学全集(小学館)
淡光ムック 百人一首入門 有吉保・神作光一 監修(淡光社)
藤原定家『明月記』の世界 村井康彦 著(岩波新書)
読み下し 日本三代実録  武田祐吉・佐藤謙三 訳(戎光祥出版)
悲境に生きる 源実朝  志村士郎 著(新典社)
百人一首 定家とカルタの文学史 松村雄二 著(平凡社)
百人一首 鈴木日出男(ちくま文庫)
百人一首(全) 谷 知子(角川ソフィア文庫)
百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰 寺島恒世 著(平凡社)
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著(角川書店)
百人一首の新考察  吉海直人 著(世界思想社)
百人一首研究必携 吉海直人 編(桜楓社)
扶桑略記 新訂増補国史大系(吉川弘文館)
平安朝 皇位継承の闇  倉本一宏 著(角川書店)
平安朝歌合大成  萩谷 朴 著(同朋社)
別冊太陽 百人一首への招待 吉海直人 監修(平凡社)
保元・平治の乱 元木泰雄 著 (角川ソフィア文庫)
枕草子・俊頼髄脳・袋草紙 新編日本古典文学全集(小学館)
訳注 藤原定家全歌集 上下 久保田淳 著(河出書房新社)
歴代宸記 増補史料大成(臨川書店)
蜻蛉日記ー新編日本古典文学全集(小学館)
近代秀歌 (岩波新書) 永田和宏(著)
現代秀歌 (岩波新書) 永田和宏(著)
人生の節目で読んでほしい短歌 (NHK出版新書) 永田和宏(著)

【参考図書】

「日本うたことば表現辞典 全15冊揃」

万葉から現代の和歌・短歌・俳句をテーマ別・表現手法の修辞別に分類した我が国文学史上最大規模の作品辞典。

「わたくしが『日本うたことば表現辞典』の第一期の最初の巻に監修のことばをよせたのは1997年のことであった。

そして第二期の最終巻に筆をとったのが2010年である。

この間、書肆の遊子館の辞典編集部は、とどまることなく編集作業を着実に積み上げてきたのである。

おそらく、日本の詩歌文学において、このような一つのテーマで、持続的に、しかも古代から現代の領域に及んで体系的に纏めた出版企画は少ないと思う。

第一期は「うたことば」の表現分野の構成であり、第二期は表現手法(修辞)の構成となっており、この二つの必然の組み合せにより、読者は日本の「うたことば」の全容を知ることができるであろう。」〔監修者序より〕

通巻1・2 日本うたことば表現辞典—植物編(上・下)
通巻3 日本うたことば表現辞典—動物編
通巻4 日本うたことば表現辞典—叙景編
通巻5 日本うたことば表現辞典—恋愛編
通巻6・7 日本うたことば表現辞典—生活編(上・下)
通巻8・9 日本うたことば表現辞典—狂歌・川柳編(上・下)
通巻10・11 日本うたことば表現辞典—枕詞編(上・下)
通巻12・13 日本うたことば表現辞典—歌枕編(上・下)
通巻14 日本うたことば表現辞典—掛詞編
通巻15 日本うたことば表現辞典—本歌・本説取編

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【本日の思いつきバックナンバー】「百人一首(近代・現代短歌)ある世界」版バックナンバー
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【読書メモ】

「英詩訳・百人一首香り立つやまとごころ」(集英社新書)マックミラン・ピーター(著)佐々田雅子(訳)

[ 内容 ]
『小倉百人一首』はこれまでも英語で翻訳出版されたことがあるが、従来の翻訳では和歌の世界を充分に表現しえなかった。
この言葉の結晶の新訳に、アイルランド生まれの著者が挑戦。
かくして、まったく新しいアプローチによって和歌に重層的に折り込まれた“やまとごころ”を英語で表現してみせた。
その翻訳は、英語の詩としても通用する。
ドナルド・キーン博士の高評を得て、原著は二〇〇八年コロンビア大学出版より刊行。
同年度日本翻訳文化特別賞等を受賞し、学問的にも評価された。
本書は平易な英語による『小倉百人一首』翻訳の決定版である。

[ 目次 ]
マックミラン訳の魅力(ドナルド・キーン)
日本語版のための序論
英詩訳百人一首
原書版序論
マックミラン訳が解き放したもの(アイリーン加藤)

[ 問題提起 ]
「これやこの ゆくもかえるもやくしては しるもしらぬも ひゃくにんいっしゅ」

失礼。

英詩訳も凄いが、その至らぬところを通して、短歌という形式の凄さ、そして、それを可能にした日本語の凄さを、改めて感じることの出来る良著。

「ひさかたのひかりのどけき春の日に」ひもとくのに。最上の一冊だ。

本書は、日本一、すなわち、世界一読まれてきた日本語詩集の、最新にして、最良の英訳。

ドナルド・キーンが、こう太鼓判をおしているぐらいだ。

「五七五(七七)というのはどうやら人類的普遍性のあるリズムであるようで、注意すると欧米のポップスにもこれが登場しているのがよくわかるぐらいだ。

こういう「隠れた」五七五だけではなく、今や haiku の方は世界語になっている。

その証拠というわけではないが、OS X Leopard 内蔵のスペルチェカーは haiku を通す。

tanka を通さないのがいささか残念だ。」

それだけに、百人一首の訳者たちは、「五七五七七」の強い呪縛に、支配されてきた。

勢い、それを優先するがあまり、元の歌の意が失われてしまいがちであったのである。

[ 結論 ]
本書は、それを、敢えて捨てたところに、凄さがある。

たとえば、冒頭のパロディの元の句、

「これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき」

が、訳者の手にかかるとこうなる。

So this is the place!
The crowds,
coming
going
meeting
parting
friends
strangers,
known
unknown---
The Osaka Barrier.

これほど「これやこの」感、「ゆくもかへるも」感、「しるもしらぬも」感に溢れた訳が、かつてあっただろうか。

そのために、あえて「逢坂の関」を「外だし」しているところは、たしかに、原作忠実派の格好の攻撃対象になりそうだが、もし、蝉丸が、英語を話せたら、蝉丸も、また、本首に、一票投じると、私は想像する。

しかし、である。

それでも、やはり、著者の訳は、文脈を補いすぎていると、感じてしまうのである。

例えば、これ。

おそらく百人一首の中でも最も「わかりやすい」一首。

「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」

I always thought
I would give my life
to meet you only once,
but now, having spent a night
with you, I wish that I may
go on living forever.

間違い、ではない。

確かに百人一首は、

「よくもまあこんな猥褻な詩を小学生に教えますね」

というほど色恋の歌(色恋の文脈でないと成立しない歌)が多いが、しかし、この一首は、そうでない文脈でも、成立するところに、その妙味があるのではないか。

"having spent a night with you"とは。

世阿弥がこれを見たら、

「ああ、花が散ってしまう」

と、憐れんだかも知れない。

私なら、こうするだろうか。

詩には、なってないかもしれないが。

I would die just to see you.
Now that I have seen you,
I wish to live forever with you.

なんと、これでも、"I have seen you"という文脈を補っている。

本当のところ、こういう文脈だったかどうかは、わからないのに。

短歌や俳句の魅力は、人それぞれ、いや、一首一句、それぞれにあるのだろうけど。

私にとってのそれは、

「異なった文脈で異なるように成立すること」

である。

その妙を楽しむには、本書の訳は、彩りが強すぎると感じた。

しかし、よくよく考えてみれば、対象読者にとって、ピンとこない文脈を、訳注などで補うのは、翻訳の常套手段であり、王道でもある。

異なる文脈で使いたいのであれば、自分で読み直せばいいのだし。

それにしても、百人一首というのは、

「門前の小僧習わぬ経を読む」

の格好の例ではないか。

百人一首は、高校時代に覚えたが、もちろん、その時には、ほとんどの首は、意味不明だった。

「世をうぢ山と人はひふなり」なんて、「蛆山」と解釈してたぐらいだ(^^;

年を追うごとに、その意味がつかめる(わかるとは、とてもいえない)なって、なんとすごいものを知らぬうちに、もらったのだと、感動することしきりである。

[ コメント ]
今日日の小学生は、百人一首を覚えたりするのだろうか。

「蛆山」でいいから、覚えておいてほしい。

後で、宝の山に化けるのは、私が、惜しからざりし命をかけて、お約束します。

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