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【現代歌人シリーズ(その2)】言葉に選ばれる


鈴木啓太さん撮影

借り物ではない

言葉と

真摯に

向き合い

素直に

心を差し出して

会話しなければ

決して

言葉に

選ばれること

ないのかも

しれない

それを

知るために

ことばが

何かわからない

ものたちの

気持ちを

想像して

ありのままを

差し出して

人の世界に

飛び込んでみる

何も

盛らずに

何も

偽らずに

何も

期待せずに

ただ

ありのままの

生き様を

見せることで

もしかしたら

受け入れられた

のだと思った

そんな

生き抜く術を知り

媚びはしないが

変化してきたのか

と思う

ありのままを感じて

都合の良い

ことばの対極に

自分という

存在がある

ような気が

して

朽ち果てて

しまわぬうちに



「おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」會津八一



「自註鹿鳴集」(岩波文庫)會津八一(著)

「鹿鳴集歌解」(中公文庫)吉野秀雄(著)

「續渾齋隨筆」(中公文庫)會津八一(著)

「大和路・信濃路」(新潮文庫)堀辰雄(著)



「南京新唱」會津八一(著)

「唐招提寺

天平宝字三年(759)唐僧鑑真の建立するところ。

金堂内に、本尊毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音、大日如来の巨像を始め、梵天、帝釈天、四天王など、天平、平安の名作多し。

初めて奈良地方の古美術を見学するものは、法隆寺の金堂、東大寺の三月堂、この唐招提寺の金堂、しかる後に室生寺の金堂、法界寺の阿弥陀堂、平等院の鳳凰堂などを、序を追ひて次々に参観することを忘るべからず。

時代時代の建築と彫刻とが、ある程度まで、よく調和契合して、その中より発揮する、それぞれ濃厚なる、宗教的また芸術的雰囲気の中に、日本文化史の大系とその色調とを悟得することを得べし。

つきかげ

上代の歌には「月光」を「つきかげ」と詠みたる例多きも、作者は、この歌にては、つきによりて生じたる陰影の意味にて之を歌ひたり。

作者自身も「光」の意味にて「かげ」を用ゐたる歌四五首ありて、別にこれらをこの集中に録しおけり。

人もし言語を駆使するに、最古の用例以外に従ふべからずとせば、これ恰も最近の用例以外には従ふべからずとすると等しく、共に化石の陋見と称すべし。

つちにふみつつ

この歌を見て、古歌に「橋の影ふむ道のやちまたに物をぞ思ふ妹に会はずて」とあるを模倣したるにはあらずやと問ひ来りし人あれど、それには全く関係なきのみならず、この自作の方遥かによく単純化し得て、この古歌に比するも、必ずしも甚しく遜色ありとは思はずと答へおけり。」(『南京新唱』より)


【日本という方法】

この国のよさは、「強さ」や「一貫性」ではなく 「一途で多様」なことにある。

松岡正剛さん著作の「日本という方法 おもかげの国・うつろいの国」に依ると、日本は、主題の国ではなく方法の国であるとし、万葉から満州までの歴史を、情報編集国家日本の歴史として説明する。

「日本人が外来の自然や文物や生活を受け入れ、それらを通して、どのような方法で独特なイメージやメッセージを掴もうとしたかということが、本書で説明したいことのひとつです。

この方法が日本的編集です」

日本の社会文化的特徴を「おもかげ」「うつろい」という言葉に託している。

おもかげのおもは、主・面・母と重なり、「おもしろい」「おもむき」「おもう」などにもつながる。

うつろいは移行・変化・変転・転移を意味するが、うつは空、虚、洞とも通じる広がりを持っている。

外からやってくるものを巧妙に内なる文化に取り込む。

それが日本文化の方法だったのである。

本書は、私がこれまで読んだ日本論の中で、心身ともに腑に落ちた一冊のひとつである。

そしてこの本を読んだ事で、読書欲がますます高まった。

移ろう影として実体がなかったものも、その面を映し出すことで、現(うつつ)として成る。

そんな風にしながら日本的な文化は柔軟に形成されてきた。

古事記や万葉集の古代から近代までの日本の歴史を振り返りながら、日本的編集の巧妙さがよくわかる本である。

「日本人はもともと、互いに異なる特色を持つ現象や役職や機能を横に並べて、それらを併存させることがそうとう好きなのかと思わせます。

日本人は対比や対立があっても、その一軸だけを選択しないで、両方あるいはいくつかの特色をのこそうとする傾向を持っているのではないでしょうか」

確かに日本というのは方法の国としてみると凄い国である。

文字だけみても仮名と漢字にカタカナ、英数が混在している。

食べるものも和洋中伊仏など混在している。

外来の強力なものを、取り込まれるのではなく、ちゃっかり取り込んできた。

そうして100年もすると外来文化もいつのまにか日本文化の顔をしていることがあると思う。

この本の扱う年代をさらに遡っていくと、縄文時代を含めて10万年くらい、南方や大陸から段階的に波状的に外来文化と人と一緒に渡ってきて、日本という文化が成っていったのだろう。

そうして考えると、日本文化はたまねぎの皮みたいなものでどこまで向いても、オリジナルなメッセージというのは出てこないのかもしれない。

そうではなくて、外来を取り込んで重層的に織り成していく方法論こそ、日本文化の肝であるという著者の主張はとても的を射た主張であると思われる。

なぜ数多の良著のように、「他の読むに堪えない本は捨て、この本を極めよう」ではなく、「もっと本を読もう。読むに堪えない本を恐れずに」となったのだろうか。

それこそが、日本という方法だからだ。

それでは、「日本という方法」とは何か?

要約というのであれば、俳句どころかひらがなで七文字に収まってしまう。

10頁
一途で多様
これが著者による最も短い要約。

こんなのある

12頁および第11章
絶対矛盾的自己同一(西田幾太郎)

「俳句化」すると、こうだろうか。

「おもかげを 残したままで うつろい行く」

そう。

「日本という方法」を単にお品書きするだけであれば、いくらでも要約できるのである。

しかし、その要諦は「要約の否定」いや、「要約の寸止め」なのだ。

だから、「もっと読みたく」なる。

優れた本というのは、そのほとんどが自己相似的な構造をしている。

書名を「展開」すると目次になり、目次を「展開」すると「本文」になる。

本書はその点においても実に優れた本で、「日本という方法」という書名だけでも「わかる人はわかる」し、「わかる」にも関わらず、いや「わかったからこそ」読み進めずにいられない。

本書のすみからすみまで、そして本書を越えて。

また、優れた本というのは大いに自己言及的でもある。

本書は、日本有数の本読みにして希代の編集者である著者が、「日本という方法」に沿って著したのが本書。

これが面白くて役に立たないわけがない。

しかし、この「日本という方法」は、「方法」であるのと同時に「方法論の否定」、いや「否定の否定」でもある。

排中律では単に「肯定」であるが、しかし単純な「肯定」ではない。

あくまで「否定の否定」なのだ。

否定しないこと、すなわち一様でないことに一途なのが、日本という方法なのだ。

飽きれたことに、これは「一様であることことがたった一つの冴えたやり方」が成り立つ、工学の分野においてすら事実。

電力の周波数が二つもある国が他にあるだろうか?

電圧やソケットの形というなら他にも例があるが、電圧やソケットの形はユーザー側でも対処できる「安価な多様性」だが、周波数というのは発電機で決まってしまうので、とても高額な多様性である。

この点において泣けるのが文字コード。

主なものだけでなんと四つもある。

ISO-2022-JP、Shift_JIS, EUC-JP、そしてUnicode。

これを相互変換するためのプログラムを作る必要があるというのを、ご存じないかもしれない。

そう。

実は「日本という方法」は、極めて高コストな方法でもある。

この方法がこの国で育まれた理由がまさにそれだろう。

放っとけば雑草が生い茂るような豊穣な地でないと、この方法を育む余裕はない。

一神教が砂漠で生まれたのは偶然ではない。

神様を何人も置くような余裕はそこにはなかったのだ。

しかし、豊穣な地というのであれば、別にこの島国でなくともいくらでも存在する。

しかしそういったところのほとんどが、「唯一神という方法」に占拠されてしまった。

一神教は迷いがない分、強い。

そしてひとたび戦ともなれば、迷いが少ない方が強い。

こうして大陸は「唯一神という方法」にあらかた占拠されてしまった。

幸いなことに、日本は島国だった。

いくら豊穣でも、そこに行き着くのは至難の業。

それも、ブリテン島のように泳いで渡れるほどの距離ではなく、水平線の向うである。

それでも島伝いであれば、何とか行けるものの、大軍を送り込むのは無理で、たまに「新しい方法」が流れ着く程度。

しかも流れ着いた方法はすぐに優れた「おもかげ」を取り出された上、もっと優れたものに「うつろって」しまう。

それが鉄砲であろうがクルマであろうが。

そんなわけで、この「日本という方法」はこの島国でねんごろに育まれてきたが、今、この方法は未曾有の危機に直面している。

それも一つでなく二つも。

世界のフラット化と少子高齢化だ。

グローバリゼーションの3つの時代。

グローバリゼーション1.0とは、旧世界と新世界のあいだの貿易が始まった1492年から1800年ごろまでの国家や腕力が主役の時代である。

グローバリゼーション2.0とは、1800年から2000年までの時代で、多国籍企業が市場と労働力を求めることによって、世界がグローバル化したものである。

グローバリゼーション3.0とは、個人がグローバルに力をあわせ、またグローバルに競争を繰り広げるという時代である。

前者は言うまでもないだろう。

歴史的な背景からフラット化した10の圧力が説明できるのだから。

第1に、ベルリンの壁の崩壊である。

第2に、ネットスケープのIPOによるブラウザーの誕生と光ファイバーケーブルに対する過剰投資である。

第3に、共同作業を可能にした新しいソフトウエアの登場である。

第4に、アップロードが誰でも可能になったことである。

第5に、アウトソーシングの進展である。

第6に、オフショアリング(業務の海外移転)による中国の成長である。

第7に、サプライ・チェーン・マネージメントによる製品の生産・運搬・販売の全体管理と最適化である。

第8に、インソーティング(専門的業務受託)の進展である。

第9に、サーチエンジンによるインフォーミング(Informing)である。

第10に、上記の第5から第9までの圧力を合わせたステロイドである。

また、島だった日本に架かる橋がこれほど多かった時代はなく、そして今後もこの橋は増え続ける。

鉄砲を真似されたポルトガル商人は悔しがるしかなかっただろうが、ディズニーは著作権で守られている。

これが、「おもかげ」の危機。

フラット化していくには、イマジネーションが大事である。

そして、少子高齢化。

日本がこれまでうつろい行くことが出来たのは、うつろう人々がいたからだ。

そしてそれはほぼすべての場合、それは現状に満足できぬ若い人々だった。

知恵と経験では劣っても、数と熱意に勝る彼らが、日本をうつろわせてきた。

今、このサイクルが停滞し、ものによっては逆転しつつある。

これはまさに日本が「日本」を自覚して以来の危機ではないだろうか。

人口は確かに今までも増減してきたが、これほど「頭でっかち」になったことはかつてなかったのだ。

「うつろい」もまた危機に瀕している。

しかし、この日本という方法が生き残れるかどうかが、世界が、そう世界が今後うまくやっていけるかの分かれ目になると私は踏んでいる。

特に重要なのは、世界が貧困を克服した後だ。

その後に世界が平和にやっていけるかどうかは、世界に日本という方法をインストール、いやプラグインできるかどうかにかかっている。

今はまだその時ではない。

が、その時が来た時、日本という方法は生き残っているだろうか。

残念ながら、現時点において日本という方法の維持費は、日本人しか負担していない。

たまたま日本には豊かな人々が大勢いたおかげで、この方法は保たれていた。

しかしそのどちらも失われつつあるのだとしたたら、私達はおもかげを残しつつうつろい続けることが出来るだろうか。

今更紹介するまでもないだろうが、著者はあの千夜千冊の中の人。

あれだけの読書量がないと、本書を編む事は出来ない。

しかし、著者は本書を著し切っていないし、編み切ってさえいない。

本書はまぎれもない松岡正剛の作品でありながら、いや松岡正剛の手によるものであるからこそ、そこで用いられた素材はその味を全く損なっていない。

まるで、日本の料理のように。

1067頁
「私の最も好きな「日本という方法」です。

のちに岡倉天心は「あえて仕上げないで、想像力で補う」といいました。

もっとわかりやすくいえば、そこに水を感じたいから抜いたという、あの枯山水の方法です」

そう。

そこに水を見いだすのは、読者たるあなたの仕事である。

だから、本書は、Consistent (首尾一貫)で、Comprehensive (完結)な良著の対極にある。

参考図書:
「日本という方法 おもかげの国・うつろいの国」(角川ソフィア文庫)松岡正剛(著)

【香り立つやまとごころ】

「小倉百人一首」はこれまでも英語で翻訳出版されたことがあるが、従来の翻訳では和歌の世界を充分に表現しえなかった。

この言葉の結晶の新訳に、アイルランド生まれのマックミラン・ピーターさんの著作「英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ」が挑戦。

かくして、まったく新しいアプローチによって和歌に重層的に折り込まれた“やまとごころ”を英語で表現してみせた。

その翻訳は、英語の詩としても通用する。

「これやこの ゆくもかえるもやくしては しるもしらぬも ひゃくにんいっしゅ」

英詩訳もすごいが、その至らぬところを通して短歌という形式のすごさ、そしてそれを可能にした日本語のすごさを改めて感じることの出来る良著。

ひさかたのひかりのどけき春の日にひもとくのに最上の一冊だ。

本書は、日本一、すなわち世界一読まれてきた日本語詩集の、最新にして最良の英訳。

ドナルド・キーンがこう太鼓判をおしているぐらいだ。

「五七五(七七)というのはどうやら人類的普遍性のあるリズムであるようで、注意すると欧米のポップスにもこれが登場しているのがよくわかるぐらいだ。

こういう「隠れた」五七五だけではなく、今や haiku の方は世界語になっている。

その証拠というわけではないが、OS X Leopard 内蔵のスペルチェカーは haiku を通す。

tanka を通さないのがいささか残念だ」

それだけに、百人一首の訳者たちは、五七五七七の強い呪縛に支配されてきた。

いきおいそれを優先するがあまり、元の歌の意が失われてしまいがちであったのである。

本書は、それをあえて捨てたところにすごさがある。

たとえば、冒頭のパロディの元の句、

「これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき」が、訳者の手にかかるとこうなる。

So this is the place!
The crowds,
coming
going
meeting
parting
friends
strangers,
known
unknown---
The Osaka Barrier.

これほど「これやこの」感、「ゆくもかへるも」感、「しるもしらぬも」感にあふれた訳がかつてあっただろうか。

そのためにあえて「逢坂の関」を「外だし」しているところはたしかに原作忠実派の格好の攻撃対象になりそうだが、もし蝉丸が英語をはなせたら、蝉丸もまた本首に一票投じると私は想像する。

しかし、である。

それでもやはり、著者の訳は文脈を補いすぎていると感じてしまうのである。

例えば、これ。

おそらく百人一首の中でも最も「わかりやすい」一首。

「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」

I always thought
I would give my life
to meet you only once,
but now, having spent a night
with you, I wish that I may
go on living forever.

間違い、ではない。

確かに百人一首は、「よくもまあこんな猥褻な詩を小学生に教えますね」というほど色恋の歌-色恋の文脈でないと成立しない歌-が多いが、しかしこの一首はそうでない文脈でも成立するところにその妙味があるのではないか。

"having spent a night with you"とは。

世阿弥がこれを見たら、「ああ、花が散ってしまう」とあはれんだかも知れない。

僭越ながら、私なら、こうするだろうか。

詩にはなってないかもしれないが。

I would die just to see you.
Now that I have seen you,
I wish to live forever with you.

なんとこれでも"I have seen you"という文脈を補っている。

本当のところ、こういう文脈だったかどうかはわからないのに。

短歌や俳句の魅力は人それぞれ、いや一首一句それぞれにあるのだろうけど、私にとってのそれは「異なった文脈で異なるように成立すること」ではないかと感じる。

その妙を楽しむには、本書の訳は彩りが強すぎると感じたが、しかしよくよく考えてみれば、対象読者にとってピンとこない文脈を訳注などで補うのは翻訳の常套手段であり王道でもある。

異なる文脈で使いたいのであれば、自分で読み直せばいいのだし。

それにしても、百人一首というのは「門前の小僧習わぬ経を読む」の格好の例ではないか。

もちろんその時にはほとんどの首は意味不明だった。

「世をうぢ山と人はひふなり」なんて、例の「◯山」と解釈してたぐらいだ。

年を追うごとに、その意味がつかめる-わかるとは、とてもいえない-なって、なんとすごいものを知らぬうちにもらったのだと感動することしきりである。

今の時代、百人一首を覚えたりする学生は、どの程度いるのだろうか。

「◯山」でいいから覚えておいてほしいなと思う。

後で宝の山に化けるのは、私が惜しからざりし命をかけてお約束します。

参考図書:
「英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ」マックミラン・ピーター(著)佐々田雅子(訳)



【現代歌人シリーズ(その2)】

「雨る」(現代歌人シリーズ11)渡辺松男(著)

【収録歌より】
あかるいところ選びて雨のふるがみゆ やさしさつてほんのすこしの加減

そこに揺れながらそこにはなきものを遊行柳と言ひてかなしむ

トマトよく熟れたるにゆびくひこみてぬけざるをわがゆびの四五秒

ひとをつよくおもふとき気球うかびたりつよくみあげてをればおちない

まひるまをなにできるなきかなしさは鰺のひらきのうへを雲ゆく

まんじゆ沙華馬力をあげて咲きにけりたつたいつかい死なば亡きひと

れいれいとまひるの星のくまなきをわがそとそのままわがうちの空

喰ふ子規のあさましさこそいとしけれくひてくひてくひてくひてすなはち死にき

五月はおもふ自分が窓でありし日の風通らせてゐしここちよさ

黒煙を鴉と気づきたるときに鴉の多さに黒煙のきゆ

死後の永さをおもひはじめてゐるわれはまいにち桜はらはらとちる

朝とよぶもののけはひのさみしさはかたちとなりて窓のあらはる

藤圭子病むものの眼球[め]が病むわれの眼球といれかはり落下しにけり

頭[づ]のなかに牛がへる鳴く沼地もち頭のそとがはを理髪されをり

噴水のかならず落下する音のもうやめよ君は死んだのだから

防犯用カメラは空気をうつしゐて空気にうごくすずかけのかげ

「きみを嫌いな奴はクズだよ」(現代歌人シリーズ12)木下龍也(著)

【収録歌より】
「たすけて」は認識されずGoogleは「マツタケ」のWikipediaを映す

『いきますか』『ええ、そろそろ』と雨粒は雲の待合室を出てゆく

YAH YAH YAH 殴りに行けば YAH YAH YAH 殴り返しに来る笠地蔵

あとがきにぼくを嫌いな奴はクズだよと書き足すイエス・キリスト

あの虹を無視したら撃てあの虹に立ち止まったら撃つなゴジラを

エマージェンシーブレーキが作動してアダムとイブを轢き殺せない

トンネルを抜け出る僕の目がくらむ隙にふたたび配色される

ぼくは最年少の兵士だったキスは済ませたが恋は知らなかった

モザイクのぼくは友人Kとなり「わかりません」とソプラノで言う

やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです

雨というバックバンドを連れてきたあなたの口が動きはじめる

夏になればとあなたは言った夏になればすべてがうまくいくかのように

旧作に収録された新作の予告も既に旧作の夜

君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を

君とゆく道は曲がっていてほしい安易に先が見えないように

後ろ手にゴミを隠してゴミ箱の回収作業が終わるまで待つ

自転車に乗れない春はもう来ない乗らない春を重ねるだけだ

信号に分断されるぼく/たちのぼくだけ逃す最終電車

赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着

負けたとき私が何と戦っていたのか君も知ることになる

風の午後『完全自殺マニュアル』の延滞者ふと返却に来る

幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ

「山椒魚が飛んだ日」(現代歌人シリーズ13)光森裕樹(著)

【収録歌より】
0歳の質量は冷え窓際に寄するゆりかご陽に満ちはじむ

0歳を量らむとしてまづ吾が載りて合はせぬ目盛を0に

ああ、雪 と出す舌にのる古都の夜をせんねんかけて降るきらら片

うしなはずして何を得むかたぶかぬ天秤におく手と目と口と

うたびとの名をまづ消してゆくことを眠りにちかき君はとめたり

きつときみはぼくらの子どもに触れさせる山椒魚よやさしくねつて

クリスマス・ツリーができるまでを見せ眠たげなれば家路をたどる

ことばもてことば憶ゆるさぶしさを知らざる唇(くち)のいまおほあくび

たまひよのほほ笑むたまごは内側に耳くち持たむまなぶた持たむ

ドラム式洗濯機のなか布の絵本舞はせて夏をうたがはずあり

みごもりを誰にも告げぬ冬の日にかんむりわしをふたり仰ぎつ

みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽のさきへ鳥もゆくのか

やはりはうしやのうでせうかと云ふこゑのやはりとはなに応へつつ、否と

吾子のため削がるる手足目鼻口耳肉なれば此の手を終に

砕けつつ樹のうらがへる音をたてぼくらはまつたき其のひとを産む

指一本ゆびいつぽんとてのひらをひろげてやれば ふふ、何もなし

小夜しぐれやむまでを待つ楽器屋に楽器を鎧ふ闇ならびをり

人名用漢字一覧を紙に刷り鉱石箱のごとく撫でたり

陣痛の斧に打たるる其の者の夫なら強くおさへつけよ、と

其のひとが屈みこむ秋、胸そこの枯れ葉に火を打つ名はなんだらう

其のひとの荷物はすでに世にありて襁褓むつきの箱を積む部屋のすみ

其のひとの疾き心音はなつかしく雨ふりどきのなはとびの音

其のひとは いつかのぼくで此のさきのどこかの君で、あなた、でしたか

蝶つがひ郵便受けに錆をればぎぎぎと鳴らし羽ばたかせたり

点滴の管のかづらが君を這ひあがりゆくのを吾は掻き分く

島そばにふる島胡椒さりしかりさりと小瓶を頷かせつつ

島時間の粒子を翅からこぼしつつ空港跡地は蝶ばかりなり

南風の湿度に本は波打ちぬ文字は芽吹くか繁りて咲くか

保育器はしろく灯りて双の手の差し入れ口を窓越しに見つ

琉歌かなしく燦たり候石垣島万花は錆より艶(にほ)ひにほふも

隣宅のドアノブの雪おちてをりさてもみじかき昼餉のあひだに

六コンマ一の単位は光年か医師より授かる星図のごときに

「世界の終わり/始まり」(現代歌人シリーズ14)倉阪鬼一郎(著)

【収録歌より】
いつ見ても運転手しか乗っていなくて恐ろしくなる回送のバス

なかったことにしてくれと言われてなかったことにしてあげる夏の光

哀歌をやめなさい世界にはもう鳥籠はないのだから鳥よ

一生分の子供をさらってしまったひとさらい浜辺にひとり

後逸し転々とするボール追うライトの少年に少し幸あれ

世界と等価な鳥籠を探しつづけてやっと見つけたけれど鳥がいない

戦争に見えて思わずうろたえる「食事とコーヒー」の字体が変で

「恋人不死身説」(現代歌人シリーズ15)谷川電話(著)


【収録歌より】
「お客様おひとりですか?」「ひとりですこの先ずっとそうかもしれない」

さらさらと駅構内を流れゆく人々のなか血栓になる
レシートの金額にあと1足せばあなたの誕生日だなって捨てる

好きじゃない仕事を辞めた恋人がキャンバス抱え「ただいま」と言う

新郎がベールをめくり教会のどこにもあなたがいないのを知る

二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す

髪の毛が遺伝子情報載せたまま湯船の穴に吸われて消える

眠るため召喚される羊たち、かぞえないからあそんでおいで

野良猫に「ねこ」と呼びかけたらとまらなくなりどうかしている

陽だまりの猫にバターと君が言う、溶けそうだからだそうだ、なるほど

「白猫倶楽部」(現代歌人シリーズ16)紀野恵(著)


【収録歌より】
しろねこが呼びにくる朝世界には希望の澱(おり)と言へど未だ在る

ふりがなで著者によらないもの予想ごめんなさいね外れていたら

めづらしき南の雪がまろまろとこどものりやうてにて運ばるる

杏子生(な)るとうれしさうなる祖母のこゑ幸薄かりし一生(ひとよ)と言ふな

銀河はいちまいの布穿たれし穴が星ぞと思へば軽しも

午後三時までの時のま英国の紅茶に限るなど長談義

光をとばす つま先がかき分けていく草の海零(したた)るる罪のやうな花粉が

好男子(歩く財産)愛在ると思ひ込むこそ春のをとめご

将来はひらけていくのですからと冬至の神か誰かが言ひし

新しき庭には心穏やかにするハーブ植ゑ隙間なく植ゑ

足もとに縺(もつ)れてをるは畏くも天(あめ)より降(くだ)り来ましし白猫(はくべう)

大切のエアコンディショナーとうたらりとうとうたらり夏は夏ぢゆう

猫と行くよわが菜園に宮殿の代はりに誰かが呉れたる土地へ

万能のカモマイルティくださいなぼくにんげんにすこしつかれた

恋びとを取り換ふる度(たび)いつだつて身裡(みぬち)流るる水の音する

「眠れる海」(現代歌人シリーズ17)野口あや子(著)

【収録歌より】
あ・ま・だ・れとくちびるあければごぼれゆく 赤い、こまかい、ビーズ、らんちゅう

あしのつけねのねじをまわしてくろきくろきポールハンガーたたむひととき

うしなったのも得たものもなく午前十時の地下鉄にいる

さげすみて煮透かしている内臓の愛と呼びやすき部分に触れよ

さみどりののどあめがのどにすきとおりつつこときれるよるの冷たさ

ずがいこつおもたいひるに内耳うちみみに窓にゆきふるさらさらと鳴る

つよく抱けば兵士のような顔をするあなたのシャツのうすいグリーン

とかげ吐くように吐く歯磨き粉の泡の木曜日がみるまに繰り上がる

ひややかに刃にひらかれて梨の実は梨の皮へとそらされていく

ひらかれてくだもののからだ味わえばおなじくいたむ嵐の中で

ゆきふるかふらぬか われはくずおれたむすめを内腿に垂らしておりぬ

愛しては子供をつくることに触れボトルシップのようなくびすじ

押し黙ればひとはしずかだ洗面器ふるき卵の色で乾けり

感情を恥ずかしむため眉引けばあらき部分に墨はのりたり

芹吐けり冬瓜吐けりわたくしのむすめになりたきものみな白し

血脈をせき止めるごとくちづけてただよう薄荷煙草の味は

子はまだかとかくもしらしらたずね来る男ともだちの目に迷いなく

秋すなわちかげろうでありきみの姓を聞いてふりむくまでの眩しさ

真葛這うくきのしなりのるいるいと母から母を剥ぐ恍惚は

大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せて人生、なんてわたしたち

茶葉ふわり浮いてかさなるはかなさで夫と呼んで妻と呼ばれる

飛ぶことと壊れることは近しくてノブを五つあけて出ていく

父の骨母の血絶つごと婚なして窓辺にかおる吸いさしたばこ

名残 いえ、じょうずに解けなかっただけ 牡丹のように手から離れる

夜の底、撹拌されてあわあわと垂らすしずくのオパールいろよ

「去年マリエンバートで」(現代歌人シリーズ18)林和清(著)

【収録歌より】
ああここは沼だつた地だしんしんと湿気を含む夜の底ひの

あけぼののやうやうしろき山際を見つつリビングに朝の茶を飲む

くひちがふ会話の端に見えてくる記憶の池に石を投げこむ

ブランコを漕ぐといふ語のさみしくてどこの岸へもたどりつけぬ

みんな父を母を老いしめ……老ゆといふ語の使役法かんがへてゐる

ゐないけどいつもゐるのだこれからは永久凍土のやうな記憶

運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡

寒月に遠く清水寺が見ゆ死者からもこちらが見えてゐるだらう

祈りのかたちかへぬ手があり弥勒がくる五十六億七千万年後にも

個室居酒屋でずつと話を聞いてみたいお湯割りの梅を箸で突きつつ

幸福でありつづけなければならないとそもそこからが不幸の証

講義メモも本も手帖も開かない十分間、乳と蜜のながれる時

高貴な人は誰も自由を欲している――といふ嘘『ローマの休日』以来

思ひ出さない努力をやめて車窓より昼なら富士が見えるあたりを

死んでない人のことを想ふ日もあれば欅がまた葉を降らす

寺田屋事件のあとは即座に血まみれの畳替へ客を迎へしお登勢

秋雷がひとつ鳴りまた森閑と一度は死んでみる価値はある

人間五十年に足らずに果てし火の中に織田信長の見つからぬ骨

善も悪もみんな燃やせば簡単だアメリカの洗濯機はごつつう廻る

葬りたい場面のありていくたびも頭(づ)のない釘を石で打ちたり

虫(むし)襖(あを)といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな

沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする

庭先のまるい日向にまどろめる明治を知つてゐるやうな猫

泥沼にはまるのではなく臑(すね)がもう泥になっているのだ、気づけば

母方の曽祖父母祖父母夜を来て月の屏風を踏み倒しゆく

木曽川長良川揖斐川とわたりつつ途中のひくい川の名をしらず

夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには顔があまたありすぎ

遊子なほ残月を行く、と口にして結論へ向けあと数枚を

浚渫船がずるずる引き摺り出してゐる東京の夜の運河の臓腑

「ナイトフライト」(現代歌人シリーズ19)伊波真人(著)

【収録歌より】
傘の柄のかたちの街灯つらねては雨の気配に満ちる国道

夜の底映したような静けさをたたえて冬のプールは眠る

踊り場に落ちた窓枠の影を踏む平均台をゆく足取りで

日陰から日陰に移る束の間に君のからだは日時計になる

真夜中のカーディーラーの展示車は何の罪だかその身をさらし

もう君に会うことはない ゴダールのフィルムのなかの遠い街角

僕たちはパズルのピース面積の半分ほどがベッドの部屋で

電線がひかりを弾き朝はきて天才たちはいつも早死に

この夏の予定をすべてあきらめて海のにおいの暗室にいる

海岸に借りた車を停まらせてポップソングになれない僕ら

恋人の夢のほとりに触れぬようベッドの際に浅く腰掛け

てのひらのカーブに卵当てるとき月の公転軌道を思う

六月のやさしい雨よ恋人のいる人が持つ雨傘の赤

あかつきの郵便受けの暗がりは祈りのようなしずけさを持つ

空の目はそこにあるのか愛眼のメガネの看板中空なかぞらにあり

橋の名の駅をいくつもつなげては水を夢見る東京メトロ

スプーンがカップの底に当たるときカプチーノにも音階がある

「はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで」(現代歌人シリーズ20)雪舟えま(著)


【収録歌より】
いきいきと男がふたり住んでいる私の胸のスイートルーム

うつくしい人びとのいちばん後ろあゆむ冥王星のときめき

おなじくらい愚かになってくださいと手に口づけて祈りつづけた

じつは俺過疎地指定されてる…と麗しの小樽市はささやく

ふたたびの思春期これはススン期だ息するだけで僕はかがやく

フライ追うように走ってしあわせだ、しあわせだって退路を断って。

ミルク味千歳飴買いたい買うね大人になっても自分のために

何匹もいる野良猫の一匹も目印にならないとは猫め

鳥肌がかけぬけるだけほんとうのありがとうには相手はいない

六畳の硝子の星をもらったぞ何ひとつあきらめるな俺たち

【朗読】『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』【短歌58首】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Jwn8OnoKouQ

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