見出し画像

【改訂版】【読書メモ】「まとまらない言葉を生きる」荒井裕樹(著)

メディアパルさんの「好きな本について語り合おう」に参加させて頂きますね(^^)

本書は、「言葉」から他人との向き合い方を考えるには、どうしたら良いのか?について、色んな事を気づかせてくれます。

人は皆、まとまらない言葉の中で生きています。

人は皆、それぞれの事情で生きています。

人は皆、言葉の毒を吐いてしまったことがある筈。

そうであっても、価値観の違う人は、敵ではない筈です。

また、本書の帯にある様に、誰の人生も要約させない。

あなたのも、わたしのも。

自分の性格をどうやって変えていくのか?

それは、自分のものさしで相手のことを測れないときもあるという事に気づくこと。

そして、ある程度時間をかけて、着込んでいたもの(価値観等)を1枚ずつ、いろんな人たちに脱がしてもらえる環境にいる事が大切ですね(^^)

だから、SNSの言葉に脊髄反射しない。

言葉が分かりやすさばかり重視されるようになっている現代。

言葉が壊れてきた様にも感じます。

自分にとっていちばん責任の持てる言葉の発し方について考える必要があります。

私が注意している事は、なるべく瞬時になにかを言おうとはせず、ひと晩は置いて考えるというのを意識しています。

著者も推奨していますが、誰しも自分が発していて苦しくない言葉のサイクルってあると思うので、それをなるべく守るようにしてみてはどうでしょうか?

繰り返しになりますが、考え方の違う人は必ずしも敵ではありません。

今、相手を敵認定するハードルって、かなり低くなっていませんか?

自分の中に降り積もる言葉から社会を考えると、著者曰く、小さな切れ目がいろいろなところに入っている亀裂型社会なのかもしれません。

それは、なんとなく目にした「言葉」に気づきを得たり、励まされた経験は誰にでもあるのではないかと思うけど、こんな言葉達からも、想像できますよね。

“心配事の9割は起こらない”

“過去には本当につらい日もあったンだけど、今日はあの日から一番遠い日”

“人生はクローズアップで見れば悲劇 ロングショットで見れば喜劇”

“大丈夫、大丈夫、いつかはここを抜ける日がやってくる”

“「自信を持つ」=「自分を好きになる」。ただそれだけのこと”

“さあ、あしたもまた長い、いい日でしょうよ。しかも、はじめからおわりまでおまえのものなのよ。とてもたのしいことじゃない!”

“「この先にはきっといいことがある」。そう思って進む人に運は味方する”

“夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。 いつだって忘れないでほしい。 すべて一匹のねずみから始まったということを。”

“山は西からでも東からでも登れる。 自分が方向を変えれば、新しい道はいくらでも開ける。”

確かに、他者の置かれている状況や身体状況が自分基準になってしまっていて、他の人にも同じ振る舞いを期待してしまう部分はあると感じます。

「自分だったらもっとこうするのに」という感情には注意が必要です。(【参考記事】を参照。)

私たちは、多くのことを考えすぎています。

私たちは、頭の中で自分自身に話しかけ、その声に耳を傾けています。

こうした「内なる声」を「チャッター」と呼ぶそうです。

ネガティブなチャッターが増大すると、不安な思考が頭の中で繰り返されてパフォーマンスが低下します。

チャッターのコントロールには、自分自身の問題から距離をおき、自分自身を客観的に捉え、問題を一般化することが重要なんだそうです。

ネガティブな感情を他人に共有しても心身にメリットはありません。

むしろ立ち直りを遅らせ、有害ですらあるそうです。

本書では、嫌な相手のことを、恋するように真剣に考える必要はないと指摘しています。

確かに、愛らしい見た目から、子供にも大人にも人気のスヌーピーも言ってたよね。

“僕のことを好きじゃない誰かさんのことでくよくよする必要はないのさ。 僕は、僕を大好きでいてくれる人を大好きでいるのにいそがしすぎるから。”

誰に嫌われたとしても、あなたの価値は少しも変わりません。

貴重な時間やエネルギーは、自分を好きでいてくれる人に費やしたいですね。

また、仕事のストレスで辛いときは、自分に逃げ道を用意しておく。

心の余裕ができて、逆に頑張れることもあるかもしれません。

自分に自信が持てなくてもいい。

人生は自信がなくても歩いていけるって考えは持っておきたいですね(^^)

【参考図書】
「Chatter―「頭の中のひとりごと」をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法」クロス,イーサン(著)鬼澤忍(訳)

【参考記事】
自己肯定感の低さから生まれるやさしさ。「メサイアコンプレックス」を知っていますか?
https://comemo.nikkei.com/n/n3ba71c781adb

その感情の根源には、自罰感情と他罰感情ってわりとリンクしているということを知っておくだけでも、少し楽になれるのではないでしょうか?

現代は、どちらかと言うと、SNSの言葉や他者の言葉、つまり自分の外側にある言葉が中心になっています。

言葉って、実は、自分の内側にも溜まっていくものですよね。

積み重なった言葉は、とても大切なものであり、その密度の濃さは、人それぞれです。

だから、人は、それぞれの境遇や環境に応じて、全然違った言葉を使っているものであり、そのことを、私たちは、もっと尊重してあげないといけないのだと感じます。

自分のなかにはどういう言葉が降り積もっていて、自分はどういうふうに言葉を使いやすい人間なのかという事を考えて生きていくのはいいことなんじゃないかと思います。

例えば、子どもって本当に大人の言葉遣いをよく見ていますよね。

やっぱり、大人の言葉のあり方が社会に降り積もって、次の世代を作っていくことになると、著者は指摘しており、その点に同意します。

どんな言葉を求めているのかというのは、そのまま、どのような暮らしや社会を求めているのか、ということにつながっていくのでしょうね。

自分なりの言葉に噛み砕けない限りは、その言葉を信用しない、という姿勢も大切なのではないかと思います。

例えば、「怒り」という言葉。

「怒り」と「憎悪」って違うものですよね。

怒りというのは相手と一緒に生きていくことを前提とした感情のように思えませんか?(^^)

また、「悲しみ」と「哀しみ」の言葉についても、語源から、色々と考えさせられます。

漢字「悲」の語源は、「非」の字は、羽が左右反対に開いたあり様が表され、両方に割れるという意味です。

それが、「非」+「心」となって、心が裂けるということ、胸が裂けるような切ない感じが「悲しみ」の本義です。

また、漢字「哀」の語源は、「哀」の字は、「口」と「衣」で成り立っていて、「口」を「衣」で上と下から挟んでいる状態です。

そこから、「衣」には、包んで隠すという意味があり、「口」+「衣」で思いを胸中に抑え、口を隠して悲嘆に暮れる様子を表しています。

この感じから、傷ついた人を目の前にすると、本人も傷を語れないし、こちらも、その人の心情を容易には言葉にできない筈です。

そのため、われわれは口を衣服で覆いながら嘆くのでしょうね。

この心情は、禅語の「君看よ、双眼の色、語らざるは愁い無きに似たり」を思い起こします。

この禅語は、白隠禅師の「槐安国語」(「大燈国師語録」に白隠が評唱や下語(あぎょ)を付したもの)にある、大燈国師の「千峰雨霽露光冷(せんぽうあめはれて ろこうつめたし)」という句の後につけられた白隠禅師の美しい下語です。

意味は、こんな感じです(^^)

「なんにも言わない君の苦しみをしっています。一人じゃない、いつもそばにいます。」

この禅語繋がりで、相田みつをさんの以下の詩を思い出したので追記しておきますね。

この詩を読む度に、澄んだ瞳を感じられる自分でありたいなあ~と願うけど、なかなか、どうして難しいね^^;

「憂い」

むかしの人の詩にありました

君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり

憂いがないのではありません
悲しみがないのでもありません
語らないだけなんです

語れないほどふかい憂いだからです
語れないほど重い悲しみだからです

人にいくら説明したって
全くわかってもらえないから
語ることをやめて
じっと こらえているんです

文字にもことばにも
到底 表せない
ふかい 憂いを
おもい かなしみを
こころの底ふかく
ずっしり しずめて

じっと黙っているから
まなこが澄んでくるのです

澄んだ目の底にある
ふかい憂いのわかる人間になろう
重いかなしみの見える眼を持とう

君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり
語らざれば憂い
無きに似たり

誰しも、人には言えない、言葉には表せない悲哀を胸に隠して生きているのだと想います。

こんな言葉について学ぶだけで、誰しもみなそんな悲哀を抱いているのだなと分かります。

その事が分かれば、お互いに思いやることが出来るはずなのですが、なかなか、この世は思うようにできてはいませんね。

そうであったとしても、本当にその言葉でいいのか?、とか。

そういうふうにいちいち立ち止まって考えることを、私は、これからも意識していきたいと考えています。

ここで、坂村真民さんの作品を紹介しておきますね(^^)

「六魚庵箴言」

その一
狭くともいい
一すじであれ
どこまでも掘りさげてゆけ
いつも澄んで
天の一角を見つめろ

その二
貧しくとも
心はつねに
高貴であれ
一輪の花にも
季節の心を知り
一片の雲にも
無辺の詩を抱き
一碗の米にも
労苦の恩を思い
一塊の土にも
大地の愛を感じよう

その三
いじけるな
あるがままに
おのれの道を
素直に
一筋に
歩け

この気迫のみなぎる「六魚庵箴言」の次に、「うた」というすべて仮名で書かれた詩が載っています。

「うた」

うれしいときには
うれしい
うたが
うまれ
かなしいときには
かなしい
うたが
うまれる
できるだけ
うれしいうたをつくろう

肩の力を抜いて、こんな気持ちで生きてゆきたいですね(^^)

また、「かなしみはいつも」の詩は、九十一歳の時の大作です。

「かなしみはいつも」

かなしみは
みんな書いてはならない
かなしみは
みんな話してはならない
かなしみは
わたしたちを強くする根
かなしみは
わたしたちを支える幹
かなしみは
わたしたちを美しくする花
かなしみは
いつも枯らしてはならない
かなしみは
いつも湛えていなくてはならない
かなしみは
いつも噛みしめていなくてはならない

昭和三十三年の「真民ノート」という手帳に以下の言葉が書いてあります。

禅をやっている居士の目もうつくしくない
師家であるという人の目もにごっている
そして却ってなにも知らない人の目がきれいに澄んでいる
美しい眼の人に会うと自分が洗われるような気がする
何が自分を美しくしてくれる
芸術か宗教かとらわれないことだ
とらわれたら眼が濁ってくる
「真民ノート」から引用

「とらわれたら眼が濁っている」とは、実に至言ですね。

禅をやっても「自分は禅をやったのだ」という囚われがあると、目が濁るのでしょうね。

師家という指導者になったとしても、「自分は禅の修行を終えた師家なのだ」という思いや、公案禅問答などに囚われがあると、目が濁るのでしょう。

心しなければなりません。

ネット上では、言葉だけしか見られないけど。

このように人の目を見ておられる方もいらっしゃるので、「とらわれないことだ」の一言を胸に刻んで、目が濁らない様にしないと^^;

【関連記事】
書くことは考えること
https://note.com/bax36410/n/n9eba68b793e4

「書く」
https://note.com/bax36410/n/n908b3e9cc6ca

誠実でいたいから誠実でいる
https://note.com/bax36410/n/n81ae7b0a8c12

正しい状態にどれだけこだわりますか?
https://note.com/bax36410/n/n1d454c3e2c89

【レポート】「正義」と「正しさ」
https://note.com/bax36410/n/n8074d724086f

【関連つぶやき】
裏と表裏と表
闇(影)と光
悪と善
物体と精神
・・・
https://note.com/bax36410/n/n6f5270698193

司馬遼太郎の『物事は両面から見る。それでは平凡な答えが出るにすぎず、智恵は湧いてこない。・・・
https://note.com/bax36410/n/nfbc975087956

【雑感】自分の感覚で言葉を選り分けてしまうと、そこに無意識的な自分の価値観が作用する。
https://note.com/bax36410/n/na44353005c1c

例えば、楽しいにも色んな言葉がある。
https://note.com/bax36410/n/n28da7d8be090

良さをはかるのは他人だけど重さをはかるのは自分。
https://note.com/bax36410/n/nfa0f298a2d41

この記事が参加している募集

読書感想文

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?