見出し画像

【レポート】「正義」と「正しさ」

自己評価:範囲が広すぎるためレポートにふさわしくないテーマ

正義理論は、一般に、次のように分類できる。

①「行為レベルの正議論」(ある行為が正しいかを論じるもの)

②「制度レベルの正議論」(ある制度が正しいかを論じるもの)

③「基準レベルの正議論」(ある行為やある制度の「正しさ」を判定する際の基準について論じるもの)

②は、「為政者の正義」であり、正義の女神ディケーが左手に秤を、右手に剣を持っていることからも分かるように、「釣り合い」=「平等」と「力」=「懲悪」は、重要な正義概念だが、前者は「為政者の正義」である。

「為政者の正義」を論じるロールズ、ノージック、ドゥオーキンらが現代正義論で有名。

善き社会は、「制度」によって造られるのか、それとも「善き人が集まること」で造られるのか、という問題に対し、後者を重視する。

具体的には、時に「内省」し、時に「命をも捨てる覚悟」を持った道徳的正義(「まっとうな正義」、「自己の不完全性を自覚した正義」、「自己に向けられた勧善懲悪型正義」)が求められ、正義を疑うことは、己の「正義」を疑えという意味である。

①項の行為レベルの正議論は重要である。

例えば、イラク邦人人質事件で議論になった「自己責任」は、行為レベルの正議論の問題。

人質となった人たちの正義がどれだけ深い内省に基づいたものだったのかが問題となった。

内省なき正義は、まっとうな正義にはなれないということ。

つまり、自分の正しさを確信したときに、己の正当性に、一度ならず批判の目を向けてみようという形で正義を疑うことが重要となる。

具体的にはどういうことかというと、例えば、裁判でいうと、検察は、被告有罪の論理ばかりを主張するのではなく、また、弁護が我が被告無罪の論理ばかりを主張するのではなく、反対の視点で調査検討してみる。

すなわち検察が被告無罪の可能性を考え、弁護側が被告有罪の可能性を考えるというようなことだ。

これはきわめて公正な批判的思考的な視点である。

機会の均等は当然だが、結果の均等は、大いなる勘違いである。

人間が正義を持ち出したときに、正義には、価値判断が含まれているものなので、どうしても相対性の壁にぶつかってしまう。

それを克服するためには、自己内省が必要となる。

自分の正義は正しいのか間違っているのかと、他者批判でなく、自己内省にベクトルが向かったときに、人には、道徳的成長がみられる可能性がある。

ただ、ここで、注意すべき点がある。

自己内省をした時に気が付けばいいのだが、圧倒的大部分の人は、気が付かない内面化された制度が人間の中には絶対に潜んでいるのではないだろうか?

それは、社会的に無意識に反復され、構築されるジェンダーだったり、セクシュアリティ規範だったりするのではないかと思う。

その無意識的に内面化されている制度まで含めて自己内省しなければ結局どうにもならないと思われる。

それは、手前味噌な道徳的成長でしかないように感じられる。

こう考える理由として、正義感というのは、個人の好みが関係してくる不公平さがあり、他罰的に発揮される場合が多いことにある。

しかし、その根源になる感情は、モラルと同じモノであり、切っても切れない関係、且つ、社会生活をおくる上で、人が、人と関わり合いながら生活をおくっていく上で、大切な感覚や基準のことである。

それは、前述の正義と同じように、生まれつき、もしくは習慣や生活環境などで形成されていることが多い。

社会生活をおくる上でとても大切な感覚であるため、小学生の授業で「道徳」という授業が存在することの意義があると思う。

よって、多くの場合、人が学んで習得した感覚ではなく、生まれつき、もしくは習慣や生活環境などにより根強く染みついている感覚であり、そのような感覚は、簡単に変化していくものではなく、その人自身の感覚として一貫している場合が多く、それを正義感と呼んでいる。

人の中には、前述の通り、それぞれの感覚(正義感と道徳感)のバランスが、人が変わる条件である「時間配分」「付き合う人」「住む場所」で変化し、その違う環境で育った相手との齟齬として現出するため、それに、どう折り合いをつけれるかが、重要となる。

言いたいことを、喉の奥に押し込めるたびに・・・・・・、折り合いをつけるのが、上手になるたびに・・・・・・、大人になった自分に嫌気がさしたとしても。

グッとこらえて頑張る自分を、誰が間違っているだなんて言えるのか?

それでも、人が持つ3種類の正義の判断基準、平等、自由、宗教の3つで捌いてくる。

そこに、道徳的な感情が加わってくるから、ややこしくなるのではないか?

そう、前述の通り、道徳自体には、価値判断を含んでいるのだから、そうなっても可笑しくはないと思う。

ただ、その価値判断は、それに従えば、社会は、ほどほどに上手く動くのではないかと思うのだが、でも、抑圧され黙殺されるマイノリティーの声は絶対存在しているし、それをなんとかしていくことこそが、真に道徳的な行為だと感じる。

個人でそうなのだから、国家間においては、益々、互いの正義感は譲れなくなり、その裁定を神はしてくれないので、結果、戦争が起こり、勝った方が常に正義となる。

いっそのこと、一度、互いが信じる神どうしで、対話してみて欲しいものである。

案外、あっけなく、和解するのではないだろうか?

人同士では、歴史が教えてくれているが、何の事はない、今日の正義は、明日の不正義になるのが常であるのだから・・・・・・

そう考えているので、正義は、直ぐに入れ替わってしまうことに、強い不信感を抱く。

では、変わらない正義はないのか?

実は、正義は、変わって当たり前なのである。

前述で既に明らかになっているが、人の道にかなって正しいことを意味する正義とは、人が人として正しい考えをし、そして、行動するといった意味となるため、正義は1つではないという事実を認識しておく必要がある。

正義には、個人的な考えや理想などが含まれるため、同じ正義であっても、各自異なった正義となる場合がある。

また、その正義が必ずしも正しいということもない点が、益々、混迷を深める原因と成りうる。

この点を認識して会話できれば、相手との相違点に対して、歩み寄れる余地がないかといった視点が生まれる筈だ。

自分にとって正しいと思える正義でも、相手にとっては、それが正義でも何でもないという場合も起こるのが正義の特異性である。

正義は、神(キリスト教やイスラム教等)のコンテキストに従うイメージであり、この正義に使われている義とは、義侠や義理人情という幅があり、利を優先するのではなくて、コンテキストに従うようなイメージである。

言い換えれば、人の義というようなニュアンスであり、強きを挫き、弱きを救うこと。

そして、自らは大きな危険に無償で身を投じる事。

その二つを満たした行動を義と呼び、滅私奉公の矜持と呼んでも良いかも知れない。

繰り返して言うと、その様な思いの幅があるからこそ、どうしても譲れない思いがあると衝突することになり、互いの正義を翳しているだけでは、個人の間で、組織の間で、国家間での争い事が、なかなか無くらない原因だと推察される。

そこで、必要なのは、やはり、陳腐かもしれないが、「献身と愛」なのだろうかと思う。

今、その日を生きるのに困る人があれば、それを助けるのが正義であると悟れるか?

そこから、自分自身をちぎって人に与えていくアンパンマンのことを思い起こす。

自分に何が一番必要かを考えて、それを第一に据えて行動しないとダメだよってことなのだろう。

では、正しさとはなんであろうか?

正しさが持つ意味は、道徳や法律、基準などから外れていないこととなる。

そのため、基本、正しさは、ひとつしかない。

誰が見ても同じように正しいと思えるものが正しさとなる。

曖昧な意味で用いられることは少なく、誰が見ても同じと思える際に用いられるのが正しさの特徴である。

そう、正しさは、神が定めたものではない。

正しさは、人の上にもなく、心の中にもなく、人と人との間にある。

愚かな人間が、崇高なる神の与えたもうた正しさを正しく理解できる保障はないのである。

私たちが使っている正しさとは、事実として、人間が作った正しさである点に気づかないといけない。

心の奥底にしまわれた正しさは、人それぞれ違うものである。

あなたが正しいと思うことと、私が正しいと思うこととは違うかもしれない。

しかし、それでは正しさは、意味をなし得ないことになってしまう。

そのために、正しさとは、人と人との間で成り立たせるべき約束事であり、私たちがよりよく生きるのに必要な規範(ルール)なのである。

例えば、「人を殺すことは正しくない」ことであると、あなたと私との間で共通認識が出来上がっていて初めて、正しさは意味をなす。

脳死、不妊治療、少子化、死刑、愛国心、民主主義、環境問題、紛争問題等々。

社会的にも関心をあつめるこれらの話題について、どちらが正しいのか?

意見が鋭く対立するときにこそ、正しさを論じる必要があり、その際に、正義を語るべきではない。

私たちひとりひとりに必要なのは、正しさついて、自分で考えられる力(思考力)を身に付けることである。

正しさは、人と人との約束事であり、一方が理解していても、他方が理解していなければ正しさは意味をなさないし、もしかしたら、約束事であれば、守れない可能性があるのだという認識も持つべきだと思う。

何よりも必要とされているのは、あたりまえと思わされていることを疑うこと、言い換えれば、自分たちの置かれている状況を相対化する視点を持つことである。

そうなれれば、私たちは、今よりは、もう少し優しく・正しくなれることを、私は疑わない。

グローバルばかり気にしてないで、もっと、ローカルという足場の大切さを意識してみるべきだと考える。

【ローカルな視点で考えてみる課題】
<課題1>
近代的な発想は、グローバルな発想や思想、システムに価値があり、ローカル性に基盤においたものを、あたかも古い時代のものであるかのごとく軽視した。

また、企業は、時代の先端を行くため、急ぎ人材に求めるスキルの再評価行っていて、最も競争力のある企業は、現在の社員のリスキルや、アップスキルに力をいれており、重要だとされている以下の5つのスキルの内、一番重要視されるスキルとして、デジタルフルエンシーを重視している。

①デジタルフルエンシー:
デジタル化が進む世界で効果的に活動するために今や社会人にとっては必要なテクノロジースキル。

マッキンゼーによると、世界で最も急成長しているスキルの70%をデジタルスキルが占めていると言う。

②コミュニケーション :
より個人的なレベルでは、強力なコミュニケーションスキルが仕事のパフォーマンス、生産性、および自己主張を高める。

③ストーリーテリング:
人間は明白な事実やデータよりもストーリーを受け入れやすいと言われている。
ストーリーは共感を呼び、記憶するのに役立つ。

④グロースマインドセット:
自分の能力が時間の経過とともに構築され発展することを信じる成長思考が重要。

⑤チェンジマネジメント:
「柔軟性」と「適応力」

その結果、更に、知識は専門家され、その先には、表層をなぞった浅い知識だけで生きる人間の頽廃を生むシステムが構築されてしまう危険性がある。

だから、人間は少なくとも一方に、ローカルな世界をとり戻さなければいけないのではないか?

<課題2>
経済の発展が環境の後退を招き、技術の進歩が人間の技や想像力を低下させたように、歴史はある部分だけみれば進歩し、また別の部分をみれば後退している。

そのように展開しているだけである。

人間の欲望と恐怖が歴史を動かす。

その歴史に、進歩の法則などは存在しないのではないのか?

<課題3>
資本主義のもとでは、正義はつねに勝利者のものである。

市場では競争という名の戦いがくりひろげられ、その勝利者は、自分たちの経済システムや経営方針に、経済活動上の正義を見出す。

この文明は、勝利することによって正義を手にしつづける。

しかも戦後の世界は、第二次世界大戦を、ファシズム対民主主義の戦いと総括してしまった。

そのことによって、戦争の勝利者に、絶対的な正義を与えてしまったのである。

こうして、経済の面でも、政治や軍事力の面でも、正義は勝利とともにあるという文明世界がつくりあげられたのである。

二十世紀の世界は、誰もがそれぞれの分野で勝利者になろうとし、勝つことによって正義を維持するかたちで展開した。

このような世界のあり方が再び戦争を必要としているのだとすれば、検証されなければならないのは、私たちが身を置いているこの文明ではないのか?

<課題4>
たとえ平和のためであっても戦争を認めないという、戦後の日本的平和主義は、平和や正義のための戦争を肯定するグローバル・スタンダードの平和主義とは決定的に違う。

平和は、世界のさまざまな地域に暮らす人々の考え方や暮らし方を、お互いに尊重し合わなければ生まれない以上、平和に対する考え方も、多様なものを認め合わなければいけないのではないのか?

<課題5>
日本語では、生殖性と訳される言葉“ジェネラティビティー”は、米国の心理学者、エリク・H・エリクソンの造語で、「次世代の価値を生み出す行為に積極的にかかわっていくこと」と定義されている。

「自分が自分が」ではなく「次世代」のことを考える。

停滞とは、いわば若い時の過去の勲章に囚われる生き方。

言い換えると「後輩育成の妨げになる」働き方で、それは、不完全な状態だとエリクソンは考えた。

大切なのは、「困ったときには、○○さんのところに行こう」と若手社員が慕うような、清濁併せ呑む技量を持った人間(若しくは、代用可能なIoTツール)を目指すべきではないか?

【関連記事】
【レポート】TVドラマ『ハゲタカ』と『リーガル・ハイ』の共通性
https://note.com/bax36410/n/n073ce5d26ce8

【参考図書】
「正義の教室―善く生きるための哲学入門」飲茶(著)

「正義論―ベーシックスからフロンティアまで」宇佐美誠/児玉聡/井上彰/松元雅和(著)

「ただしさに殺されないために―声なき者への社会論」御田寺圭(著)

「「正しさ」への問い―批判的社会言語学の試み (新装版)」野呂香代子/山下仁(著)

「私たちは人生に翻弄されるただの葉っぱなんかではない」銀色夏生(著)

「これはボール」ベック・スタントン&マット・スタントン(著)よしはら かれん(訳)

「さかさま」TERUKO(著)


この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?