見出し画像

「書く」

出典:unsplash.com

書かれないことは、現に起こったことであっても、まだ、事実ではありません。

書くということは、考えることとイコールであるだけでなく、現実をつくり出すことでもあります。

ほとんどの人が読み書き出来るように教育されている日本では、「書く」ことのありがたみが忘れられやすいのではないかと思います。

もう、今では、かなり以前の話のように感じますが、「世界がもし100人の村だったら」には「14人は文字が読めません」とありましたね。

「世界がもし100人の村だったら」池田香代子(再話)ラミス,チャールズ・ダグラス(対訳)

人間は忘れる。

現実に起こったことでもちゃんと忘れる。

そして、もし、悪意ある人が「起こらなかった」ことにするため、記録などを消却したりしたら、歴史のとらえ方だって変わるかもしれませんよね^^;

「書く」ことは、事実を「つくる」ことなんですね。

noteやブログを書いたり、日記を書いたりするだけでなく、夢や目標もちゃんと書けば、それが現実に近づいていくはずです。

ちょっと甘い考えかもしれないけど、「ああ、この時には、こんな夢をもっていたけど、まだ分かっていなかったんだなぁ。」とふり返ってみる機会になるだけでも、価値があると思います(^^)

ここで、少し注意しないといけないのは、書くことにも技術がいるってこと。

なにが言いたいかというと、同じ日本語でも会話文と記述文は全然違う、ということなんです。

人に見せて理解させるための文章では、普段われわれがしゃべっている調子をそのまま文字にしても、あまりにも冗長な割には、主語・主体があいまいで、内容がはっきりしません。

書き言葉では、主語・主体の省略、あるいは助詞の省略は、やりすぎると意味が通じなくなってしまうからです。

目を海外に向けてみると、英語圏では「口述」ということが頻繁に行なわれます。

古くは、主人が手紙を口述するのを秘書がタイプするようなことも、珍しくありませんでした。

現在でもボイスレコーダーなどのデバイスに口述を記録することに対して、ためらいを感じている様子はありませんねぇ。

映画『スタートレック』の世界では、艦長の航行日誌はすべて口述で行なわれていたこと覚えていませんか?

もともと英語は、話し言葉と書き言葉の間に、あまり明確な区別がない言語なんでしょうね。

一方、日本語はというと、主語・主体の省略ばかりではなく、語尾をはっきり言わず後は聞き手に任せるという話し方が一般的なため、あまり口述筆記に適した言語とは言えません。

あとで文章として起こすためには、それを意識して話し方を変えなければならないので、意外と普段の会話のように書く事って難しいんです。

例えば、インタビュー記事などを読むと、括弧でくくって補足語を入れてあるケースをよく目にします。

これは、その場のしゃべりではニュアンスで意味が通じても、そのまま文章化してしまうと誤解される要素が日本語には多いからです。

話すことと書くことは、同じ日本語を扱うにしても用法が違うにもかかわらず、世の中には、noteやブログの書き方教室ができたり、文章の書き方教則本が地道に人気があるという話は、聞いたことがありません(^^)

話すのに不自由していない限り、小学校から散々作文をやってきたことで十分だと思われているようです。

幕末から明治にかけて、欧化政策の一環として「言文一致体」が確立して以降、口語と文語を使い分ける必要はなくなったことは、われわれとしては感謝すべきことなんでしょうが・・・・・・

だけど、それは決して、話し言葉がそのまま書き言葉になるという意味ではないので注意して考えを言葉にして書いていきたいものですね(^^)

好奇心や感動をもたらす元をただちに分析したり、論理化したりするのは、何か味気ないなって気がします。

身の内に静かに溜まったものが自然につながり、見取り図を描くのを「待つ」時間が楽しかったりします。

そして、自分好みに調理するより、対象のなかに味わいを見いだし差しだす感じで、文章が書けたのなら、とても素敵な事だと思います(^^)

好奇心をそそられるものはあっても、「通」にはならないって、感覚もありかなって、そう感じます。

高揚感は心のなかにしまい込む。

つながりは探さず、あっても自分には見えないのだと、そういった感覚に憧れます。

淡いつながりも必要ですね。

ココロの中には。

その様な感覚があるからなのか?

一字、一字をかみしめる。

普段何気なく使っている言葉って、実は、もの凄い力があるんだなと思います。

実は、最近は「怖い」と思うことすらあるくらいです。

ことにマイナスに向かう言葉の威力は、プラスに働く言葉よりも威力が大きいから。

相手を否定した批判や中傷するような言葉は「言葉の暴力」という表現を使ったりするけど、ホントにそうだと思う。

言葉は暴力に匹敵するのだと。

「暴力」とまではいかないくても、マイナスに向かう言葉は強い力がある。

「できない」「だめだ」などという自分を否認するような言葉や、「○○しておけばよかった」というような後悔の言葉は、その言葉を発した以上にその言葉に引き込まれていくものだと。

反面、プラスに作用する言葉は、なかなかその言葉どおりにプラスに作用することが難しいんですよね。

マイナスには重力がある、とすら思います。

大きな決意や目標があるときは、紙に書いて目につきやすいところに張り出しておくといい・・・・・・と言うけど、その言葉も慎重に選ぶべき、という話をきいたことがあります。

つまり、例えば「タバコを辞めたい」というとき。

「タバコを辞める」ということを書いたときは「辞める」という言葉自体が持つマイナスの力が働いて、上手く実践できないそうです。

反面、「禁煙する」と書いたときは、「する」という主体的な意味が、その言葉が持つプラスの力として作用するらしいのです。

まぁ、受け売りだけど、そう思います。

それだけ言葉が持つ意味とそれ以上に作用する「言葉の力」があるのだなと思います。

ちなみに言霊という言葉をウィキペディアで引いてみると、「言(こと)」と「事(こと)」は同一の概念だったという記述があります。

言と事は同一の概念ということもさることながら、言霊という言葉が存在していることの意義もまた実に興味深いですね。

同じ記述の中に「言霊思想は(中略)心のありようをも示す」とある。

解釈が違うかもしれないけど、言葉というのはその言葉を発した人自身の「心のありよう」も示すものではないでしょうか。

少なくとも私たちは、話し言葉にはその人のボキャブラリが反映されることは知っています。

つい口をついて出てしまった言葉は、もう二度と取り返しがつかないことも知っています。

言葉というのは、だから恐ろしいのでしょうね。

言葉を表現するときには、以下の様に、

「言葉は多くのものを削ぎ落としてしまう

それでも言葉で伝えたいものがあるとき

言葉は本当の力を発揮する」

「本当の言葉は たぶん 本当の心と同じだと思う」

気をつけねばと心を引き締めたい、と思っています。

ただ、書くことも同じだと思うんだけど。

楽しくないのに楽しそうにする。

嬉しくないのに嬉しそうにする。

そのうち楽しくなる。

嬉しくなる。

作られた感情ほど愚かで危ないものはないよ。

そんな想いで書かれた言葉も、たぶん、おもしろくもない。

おもしろいってのは深いねぇ。

楽しいってのよりも。

好きってのよりも。

ずっと深いなぁ~って、そう思う。

だから、味わうこと、味わうこと。

理解するのではなくて味わうこと。

じっくり味わうことを、心からおもしろく楽しまないとね。

「知る者は 好む者に 如かず 好む者は 楽しむ者に如かず」

そんな感じで紡がれた言葉達で生まれた文章で、自分の周囲の人間、自分と関わりをもった人間がハッピーになるのを手助けできたら、そういう生き方こそが、本当の男の生き方のように思えます(^^)

決して突っ張ったものではなくて、ね。

なぜなら人間にとって最大の喜びのひとつが「他人の喜ぶ姿を見ること」だから(^^)

だから、子供や女性は「与えてもらった幸せ」がいっぱいあったほうがよくて、男は「与えてもらった幸せ」よりは「与える幸せ」を優先する方が、脳の作りの違いからも理に適っていると思います。

「幸せ、幸せ」とよく聞きますが、その幸せの中身は何かというと「自分が幸せになる」こと。

こればっかりだと、世の中が自己中心的になってしまうので、バランスを保つためにも、世の男性は、求めない眼に、求めない心に、求めない体に、求めない日々に、人間の幸福はあるのだと肝に銘じて、男の幸せの求め方を探していければ、いいですね。

異論は種々あると思うけど(^^)

みんさんは、どんな面白さを追い求めていますか?

そんな思いで言葉に向き合い、引き続き、書き初めたいなと思っています(^^)

最後に、音楽のセンスはないけど、自分の書かれたものが、以下の奏法や表現の様に、抑揚と韻律にしたがって書かれたみたいな感じになれば、とても楽しい気分にさせてくれて、面白くなっていくんじゃないかって感じがします♬

文章の内容に依っては、なめらかに(legato(レガート))、そして、はっきりと(marcato(マルカート))書いてみたり、時には、歌うように(cantabile(カンタービレ))表現してみたり(^^♪

自己啓発ものの文章なら、生き生きと、活気をもって(con brio(コン ブリオ))書いてみたり、肩ひじ張らずに、気楽に(comodo(コモド))または、軽く(leggero(レジェーロ))筆を滑らす感じで、不協和音も奏でみるのも味がってイイね(^^♪

相手に寄り添う言葉を紡ぎたい時、そんな時は、優しく、やわらかく(dolce(ドルチェ))、そして、穏やかに、静かに(tranquillo(トランクイッロ))寄り添う感じで表現して、相手に話すように(parlando(パルランド))言葉を選んでみる(^^♪

自分の心を奮い立たせたい時、まず、元気に、機敏に(vivace(ヴィヴァーチェ))書きながら、ちょっと大げさぐらいでもイイと思えば、思い切って、壮大に(grandioso(グランディオーソ))、荘厳に(maestoso(マエストーソ))書きなぐった後は、叙情的に(liricamente(リリカメンテ))、感情や気持ちなどが、じんわりと外に現れるような雰囲気で文章を記するのもお洒落なんじゃないかなあ(^^♪

■所感
書く事が好きだからこそ、より良い文章を作りたい、伝えたいと考えていると、無意識のうちに各センスが磨かれる環境へ、自然に身を置いている様になれれば、素敵だなって考えています。

「いま一番伝えたいこと」を書く(^^)/

【関連記事】
書くことは考えること
https://note.com/bax36410/n/n9eba68b793e4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?