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旅の記憶 1994・夏 僕たちの旅のこと




1994年8月8日
上海上陸2日目


上海のシンボル 東方明珠電子塔
1994年11月完成
この時はまだ工事中だったのか


この日も僕はウルムチ行きの切符を求めて
上海の街を歩いていた


黄浦江 生活汚水のせいなのか結構臭かった


前日と同様切符売り場を転々と歩き
最終的には翌日発のウルムチ行きの切符を
560元で手に入れた
当時のレートは
1元11円くらいだったから
日本円で約6000円


上海港があるくらいだから、川沿いには船が沢山見られた


上海からウルムチ
距離にして約3900キロ

日本の最北端 北海道の稚内から
最南端 鹿児島市までの距離が
約2800キロだから

日本の端から端まで移動するより長い距離が
6000円と考えると
結構お得だったと思う


上海の街 とにかく自転車が多かった


切符は正規のチケット売り場で購入できたが
ダフやとも交渉をしていて
ダフやから提示された値段は
同じ切符が600元



平日の日中にこんなに自転車が
走っているものだから
『チャリで街を走る仕事なんじゃないか』
なんて話していた


一見良心的な値段設定に見えるが
当時の中国はあらゆるものに
『 外国人料金 』
というものが設定されていて
電車の切符も外国人は
中国人が購入する切符の
約3倍の料金を取られていた


こんなバイクも走っていた タクシーみたいに乗れたと思う


ダフやが持っている切符は
中国人用のもので
多分彼らは200元くらいで
それを購入できる

それを外国人に
外国人料金で売りつけるのだ


上海にはおしゃれをしている人が多かったが、独特のセンスだったと思う


その切符でそのまま
ウルムチまで行ければ問題ないのだが
電車に乗る際に、外国人だとバレると
(実際中国人になりすますツワモノもいた)
しっかり外国人料金との差額を請求される
リスクがあった


浦江飯店のドミトリー


ちなみに当時はホテルも
外国人専用のホテルがあって
中国人と外国人が同じホテルに泊まることは
あまりなかった

外国人用のホテルは
もちろん値段もピンキリ

当時上海で僕が泊まった
浦江飯店(ホテル)は
多人房(ドミトリー)で1泊30元
当時のレートで330円くらい


ピンボケ失礼 こんな風にベッドが沢山ある


多人房(ドミトリー)というのは
今は日本でもたまに聞くようになったけど
当時のアジア旅行ではよくあるスタイルで
部屋を借りるのではなく
ベッドを借りるシステム

部屋に複数のベッドがあって
大抵は一部屋に4〜6ベッドくらい
中には30人部屋なんてのもあった

当然隣のベッドには
知らない旅行者がいることになる

上海みたいな都会の場合は
男女別室のところが多かったけど
男女同室のことも多かった

旅行者同士で情報交換ができるし
何より安かったから
僕たちは好んでドミトリーを利用した


当時の僕たちは
こんな風に旅をしていた


最後まで読んでいただいて
ありがとうございます。


シルクロード編は 
次回はいよいよ国境越え編に突入します
その前に、しばらく
上海編をお楽しみください



カラーネガのRAW現像に挑戦しています
なかなか匙加減が難しい
あまり上手くないですがご容赦を
詳しい方から
アドバイス貰えたら嬉しいです



はじめての上海の記事も
以前書いてますのでよかったらどうぞ


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