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旅のはじまり 1993年春


鑑真号
横浜から上海へ3泊4日の船旅

僕がはじめての渡航先に選んだのは中国だった。

理由は明確で、海外旅行をするなら
地球の大きさを肌で感じたいという思いがあり、
飛行機ではなく、地に足をつけた乗り物、つまり電車やバス、船を使って移動したいという思いがあったからだ。

バックパッカースタイルの旅行について教えてくれたフジノさんから、この船の事を教えてもらった時に、最初に海外に出るときは、絶対にこの船で飛び出そうと心に決めていた。


1993年3月横浜港

その時の船は、船内の改装工事の真っ最中で、
二等客室は、簡易的な間仕切りで仕切られ、
本来のスペースの半分ほどしか使えなかった。

古ぼけて、薄汚れたカーペットが敷かれただけの客室に、乗客はそんなに多くなく、10数人の同じような旅行者が、1つの区画内で過ごすことになり、少し窮屈な感じがした。

乗船前に待合所にはたくさんの荷物をかかえた中国人がいたけれど、その人達を船内で見かけることはなかった。
別のフロアにいたのか、もしかしたら乗組員だったのだろうか?
日本から帰るのに、家電やら物資やらとにかく色んなものを大量に買い込んでいて、いったいどうやって運んだのか不思議に思った。


3泊4日の船旅のはじまり

ガランとした広い客室に集められた日本人の旅行者達。
最初はお互いにぎこちないが、それぞれみんながお互いを意識している。
程なくしてどちらともなく挨拶を交わし、
どこに行くのか、何度目の旅なのかと、
すぐに情報交換が始まる。

なにしろ4日間も船にいるのだ。
これから始まる旅に心躍る旅人達が仲良くならないはずがない。

僕の隣には、大学を卒業したくらいの人だろうか、恰幅の良い、人の良さそうな青年がいて(顔ははっきり覚えているけど、名前が思い出せないのでここでは先輩と呼ぼう)、大きなバックパックの他に、ショルダーベルト付きの大きめの皮の鞄を持っていた。その中には文庫本がたくさん入っていて、

『オレは活字ジャンキーなんだよね。
  本がない生活は耐えられないんだ。
  読み終わった本は、
   現地で捨てていくんだよ。
    だからこの鞄は今は重たいけど
          どんどん軽くなるんだ』

と自己紹介をしてくれた先輩は、旅慣れた感じがして、妙にカッコよく見えた。

先輩は、もう何度目かの中国旅行で、それまでに行った街のことを色々聞かせてくれた。
聞くところ全てが魅力的で、その全てに行ってみたいと、ガイドブックでその街の事を調べては、どこに行こうかな〜と、みんなで盛り上がっていた。

当時、こんな船に乗るような旅行者は、
どこに行くのかを決めていない人が多かった。
今回のように船で渡るときにはその船内で、
最初に着いた街のホテルで、
ほぼ全てのバックパッカーが持っていた、
旅の必携本『地球の歩き方』を片手に、
そこで知り合った人と情報交換をしながら、
どこに行こうかと悩む時間も楽しい旅の醍醐味のひとつだった。

それに
『行く宛の決まってない旅』
と言うのが、何か普通のツアーと比べて、
すごく自由であるような気がして、
そんな旅をしている自分に酔っていたようなところもあった。

先輩は今回は、チベットに行くと言う。
話をしているうちにみんな仲良くなるものだから、中には
『一緒について行っても良いですか?』
なんて言い出す人もいて、先輩は心よく
『別にいいよ』と返す。
なにしろそこにいた若者の8割くらいは、
今回がはじめての海外旅行な訳で、
行く先も、初日に泊まるホテルも、次の街へ移動手段も決まってない上に、
『中国では英語は通じない』とか
『中国では電車のチケットがなかなか買えない』なんて、不安になるような話も沢山聞かされているものだから、旅慣れた人と一緒に移動することの、なんて魅力的に映ることか・・・

ましてや行く先はチベット
それに乗らない理由なんて無い。

ただ、僕は、陸路での移動ともう一つ、
『1人での旅行』と言うこだわりがあって、
なるべく人(先輩のような日本人の旅行者)に頼らず、現地の人と直接やりとりをしながら旅をしたいと決めていたから、その、ものすごく魅力的なチベット行きに、なんとか抵抗して、最初の行き先を、別の人から聞いた、あまり日本人旅行者が行かない街、桂林の下の方にある、陽朔に決めた。



二等客室の端っこに、
人とあまり話すでもなく、小さなカバンをひとつだけ持った年配のおじさんがいた。

年齢は50歳くらいだろうか、
最初は中国の人なのかと思っていた。
物静かで、人の良さが滲み出ているおじさんは、積極的にみんなと交わりたい雰囲気ではなかったけれど、なにしろ時間だけは沢山あったから、
結局みんなに囲まれて、色々と話を聞かせてもらった。

当時(1993年)、中国はだいぶ旅行がしやすくなっていたけれど、僕が渡る前の年に、兌換券と呼ばれる、外国人旅行者専用の紙幣(簡単に言うと、レートが悪くて割高な通貨を外国人に使わせるための仕組み)が廃止になったばかりだったし、外国人が入れない街なんてのもけっこうあった。

そのおじさんは、中国旅行が好きで、
もう何度目かの旅行かわからないくらいに旅慣れている人だった。
おじさんがはじめて、中国を旅したのは、
そのもっと前、おじさんがその時の僕と同じぐらいだと言うから、おそらく1970年代くらいまで遡るのだろう。

その頃はそもそも外国人旅行者が自由に旅行ができる体制ではなかったようで、宿泊先なんかも外国人専用の限られたホテルしかなかったと言う。

おじさんは、その時『ニイハオ』しか知らなくて、ホテルに泊まるにも、受付で、
『ここは外国人は泊まれないから他所に行け』
みたいな事を捲し立てる中国人の話をニコニコしながら聞いて、
相手が話し終わったら
『ニイハオ』
また相手が何かを捲し立てるから、
それをまたニコニコしながら聞いて、
相手が話し終わったら
『ニイハオ』
相手が根負けするまでこのやり取りをひたすら繰り返しながら旅を続けたと言う。

後で分かった事だが、おじさんは中国語がペラペラで、最初は苦労したけど、何回も旅をしてるうちに話せるようになるよと優しく笑いながら言っていた。

名前も忘れてしまったおじさんは、
上海上陸後に、1人雑踏の中に溶け込むように消えて行った。

僕は今、あの頃のおじさんと同じぐらいの年齢になっている。
今あのおじさんに出会ったなら、
どんな仕事をしているのか、
なぜそんな旅を続けているのかとか、
家族はいるのか、それともずっと1人なのかとか、
聞いてみたい事はまったく別の内容になると思う。

あの時はずっとこんな旅が続けられたら良いななんて思っていたけれど、そんなに単純では無い事も今は身に染みてわかる。

僕はここ数年、色々なことがあったせいか、
今は少しおじさんみたいに旅に出るのもいいかななんて思う事もあるけれど、
本当に旅に出るほどでは無い。

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