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ポピュリズム・ポイエーシス・ポッシュロスト(マイケル・フィンドレー『アートの価値』を読んで)

「オークションで数億円!」という見出しのニュースを近頃はよく見るかと思いますが、「数億円」であるからには価値があるアートなのだろう(どこが良いのか理解はできないけれど)、となんとなく腑に落ちない感覚を抱く方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私は現代アートが好きですが、現代アートの評論を書くことに「意味」が感じられないことがしばしばあります。それは悪い意味ではなく、アートマーケットを意識した作品は向き合うべき機会を阻害する側面があるから、なのですが、

マイケル・フィンドレー『アートの価値』を読み個人的に思ったことをまとめました。

サブテキストとしてアントニオ・ネグリ『芸術とマルチチュード』、ハル・フォスター等共著『ART SINCE 1900』を読んでいます。

また、現代思想の言葉がいくつか出てきますがあまり注釈を入れていません。前提知識が必要かもしれませんが、基本的には括弧書きなどで補足をしています。

序)投機・抽象・特異性

美術史家であるトマス・クロウが作品のブランド化について「商品と同じような外観をし、商品と同じように販売される」としたように、現代アートに於けるマーケットの影響力が増大した現代では、作品はひとつの商品として扱われる。

・・あるいはアントニオ・ネグリの言葉で表現するならば「道具」という抽象的なものとして機能するのかもしれない。

”アートが商品化される過程で起こるものは、ある作品を他と区別する独自性の欠落、あるいは喪失である。「商品化」された何かとは、それが別の生産者が作った他のものと交換可能なものである” (マイケル・フィンドレー)

アーティストはマーケットに意図的に参画することで自己同一性を失いつつあり、作品そのものの「意味」性は喪失し、しばしば他の商品と代替可能であるという「抽象性」を持つ。

しかし、そこに於ける抽象はロラン・バルト的な記号的抽象性ではなく、アイデンティティが「ブランド」という抽象化の過程で失われてしまったものである、とフィンドレーは語る。

ヴェネチア・ビエンナーレの失望について、アントニオ・ネグリは『芸術とマルチチュード』の中で、現代アートの顧客層がごく一部の富裕層であり、マーケットがそれに支配されている状態のことをして「生産行為の特異性に反する金と投機とによるユニヴァーサルな売春」と嫌悪感を示していたように、

現代においてアーティストとはビジネスモデルの一つであり、彼らはしばしばポスト・フォーディズム(均一な労働、均一な労働時間という枠を外れた労働のシステム)経済の枠内で相違を発見する労働者である、とハル・フォスターも述べている。

そして彼らは、目下同じようなことに興味を持っているようだ。つまり、大雑把に表現すると下記の3点に当たる。

・マーケットが衰退した際にアートはどうなるのか?
・ローカルな開発×国際的な通商というアート・ビエンナーレの経済モデルは今でも維持可能なのか?
・(機能を無くしている)美術批評は再び流通するのか?

1.アイデンティティなるものの喪失

例えば、ジェフリー・ダイチがギャラリストやパトロンで共同出資体をを作り、ジェフ・クーンズの作品の一部を事前に、作品の現物を見ないまま購入させることに成功したことに代表されるように、アート・コレクターの消費行動も変化している。

”集中などできない人々の注意を引くには、アートは大きくて、効果で、よくできており、買うのが楽しいものでなくてはならない”

商品とは、そのものの個々の独立性を失ったものである。

ジェフ・クーンズやデミアン・ハースト(工房を持ち職人の手で作品を制作するアーティスト)を例に挙げ、ブランディングに成功したアーティストの作品は、それがどんなものであっても彼らの名前があれば売れる現象が起きている。

その現代アートマーケットにおける磁場が、「この作品は高いから良いに違いない」という逆転した評価を生み、それが現代アートの一つのバイアスとなっているのではないか、とフィンドレーは語る。

このような状況で、果たしてアーティストは作品を自分自身で作る必要があるのだろうか?

また、他の作品と異なるものであると示すような作品の唯一性の喪失は、「向き合う」という人間がアートと関わる機会、またはアートの社会性を阻害しているのではないだろうか?

そもそも安定した価値などアートにはなく、落札価格はある種の目安に過ぎないというのに。

2.低俗的、形骸的、「ポッシュロスト」

”最近のアートの花形たちによる作品の多くは、完璧な仕上がりへの執着と、真顔のばかばかしさ、オリジナリティの欠落が組み合わさったものだ”

そしてフィンドレーによると、その行き着く先は「ポッシュロスト(Пошлость/ 英 Poshlost)」であるという。

ポッシュロストとは、ロシア語で「ネガティヴな意味合いを持つ人間の特徴や創作物など」を表す言葉ではあるものの、完全に英訳されている言葉ではないため、正しい言葉の定義は曖昧だ。

例えば過去の偉大なアーティストに対し時にパロディをしたり、時に盗用したり、あるいは技術的な敷衍を行う行為、これは「美術の歴史と果てしない対話をし続ける」という意味で、アーティストの在り方としては自然なことであるとフィンドレーは解釈している。

しかし、反面「ポッシュロスト」は、ナボコフに言わせると「偽りの美しさ、偽りの賢さ、偽りの魅力」と表現される。フィンドレーの言うポッシュロストはだから、意味としては「形骸」に近いのかもしれない。

附則としてアントニオ・ネグリ『芸術とマルチチュード』を拝借するならば、ポッシュロストに見られる現代アートの動向については、「特異的なものが抽象化、商品、価値といったものを、再領有化する現象」とでも言えるのだろうか。

3.アートの「価値」

アートを「販売する」という行為について、フィンドレーも否定しているわけではないし、モネに対する松方幸次郎、あるいは戦後アメリカのアートにジュゼッペ・パンザ・ディ・ビウーモ伯爵という有名なパトロンがいたように、そもそも社会的な行為であるアートと経済活動を切り離して考えることはできないだろう。

だが、クリスティーズ副会長であったエイミー・カペラッツオがアート市場を証券市場の一部門であるとした反面、トム・ワーリーは「純粋に金銭的要素を追求し投資をするにあたっては、アートの不安定要素が障害になる」と警鐘を鳴らしている。

アートは流通や査定のみならず、維持にも時間がかかる上に、価格は時代的なコンテクストにより変動するものであるからだ。

またハンマープライス(オークションの落札時の価格)やエスティメイト(予想落札価格)も、任意のオークションの当日の雰囲気や、誰が参加しているか/いないかによっても変動する不安定なものだし、また、一度落札/購入したものがどのような価格で売却されるかはわからない。

価格操作ができるなど、他の投資分野では違法になり得る取引もできるという魅力もあるが、そのような不安定要素を持ったアートというものを完全に投機のツールとしてヴァーチャルに扱うことを危惧している。

アートの価値とは、マイケル・フィンドレーに言わせると下記の3つに収束される。

①商品的価値の維持あるいは上昇の可能性
②アートの理解を分かち合える仲間や社会
③美術品を楽しむ私的な喜び

貪欲な消費社会が続き、購入それ自体が目的になったアートマーケットは、一部の限られた特権階級にのみ開かれている。「ポップ・アート」はだから、一般大衆に迎合する「ふり」をしているという皮肉を孕んだアートである。(ポップ・アートは親しみやすいが、所有できるのは一部の特権階級だけである)

特権階級が「より大声な、より高価な」アートを買い叩く一方で、一般大衆はメガロマニアックな虚像をアートに見出す・・この構造は、長い歴史で見た時のアートの本質、

つまりフィンドレーに言わせると「アートは社会的な行為であり、他人とコミュニケーションをすることによって人々はアートを認識する」という前提を阻害する。

現代に於いて画一化された「正しさ」とは全体主義的ポピュリズムが向かう匿名的で暗黙的な同調圧力である、とはスラヴォイ・ジジェクの談だが、アートに於ける「正しさ」も、本来的には存在しないものである。

本来は存在しないアートの「正しさ」を忌避するという意味で、(画一化され、暗黙のルールに従う思考停止の個が正しいという意味での)ポピュリズムの向かう自己同一性の喪失という点は、ジジェクの言説と似ているかもしれない。

マイケル・フィンドレーは、そこでアートの本質的な「価値」とはなんなのか?と問う。

例えば何か一つの絵画を美しいと思う時、我々はそれのどこが美しいと感じるのだろうか、このようなことを第三者と話したり、意見を交換したり、そうした社会的な行為、あるいは発生するコミュニケーションこそ、本来のアートの意義ではないだろうか、と彼は続けている。

4.個人的帰結

筆者は個人的には、マイケル・フィンドレーやハル・フォスター、あるいは一部のアート・コレクターの言うように「美を愛するからアートを集めるのであって、儲けるためではない」という考え方には賛成できる。

そして、彼らもそれを一つの表現手段として認めている上で、しかし、アートの「価値」とは本来的には、少なくとも社会においては、二人かそれ以上の人々がアートを体験するために集い、その結果生まれるものである、としている。

どんな作品でも高いから素晴らしいわけではないのと同じように、素晴らしい作品が手頃で売られているからといって素晴らしくないわけでもないように、アートに対峙して何かを想うこと、それによって生まれるコミュニケーションこそ、アートの本質的な価値ではないか、とフィンドレーは語る。

”商業文化に踊らされている私たちの多くは、アートの金銭的な価値とクオリティを混同する。無名の作品を見過ごす危険を犯しつつ、高価だと聞かされた作品に引き寄せられてしまう”

現代において批評が意味を成さないことがしばしばある。つまり、そこにあるのは「名前=銘柄」という抽象化された個の象徴であり、それ以上でも以下でもないものに対しては、人々は文化的なリアクションよりも、寧ろ「より高く、より大スケールで、よりスペクタクル」であることを求めるのもさもありなん、かもしれない。

一般大衆に迎合するポーズを見せつつも、そのアートが開かれているのは一部の特権階級のみ、というオートポイエーシス的な円環運動に、アートそのもののポイエーシス(創造)も飲み込まれているのかもしれない、と筆者は感じた。

それは何もポップアートに限ったことではない、マーケットに支配されているアートの持つ特徴であるような気はする。新自由主義的とも全体主義的ポピュリズム的とも言うそれは、結局のところ同じ意味を指していて、「個(アイデンティティ/もしくはIndividualityというかもしれない)の喪失」である。

これは筆者個人の考えであるが、アートにおける経済活動の否定という意味ではなく、でも断絶された「アート/ 鑑賞者」の隙間を埋めるのはコミュニケーションの可能性、もう少し具体的に言うと批評なのではないだろうか、と感じている。

アートの本質的な「価値」とは値段ではない。価格は移ろうものだ・・そうではなく、アートの価値とは、アートが喚起する人間のリアクションそのものである。そして、アートは知覚という主観的体験にもとづくものであるため、批評に正解はない。

「ものが言えなくなり、言葉にならない。それでいいのではないか。」

知覚は特定の個々人に限定されたものではないからして、リラックスをして楽しみ、コミュニケーションを発生させる、そうした社会的な存在がアートである・・

アートディーラーのマイケル・フィンドレーからこのような言葉が出てくるのは個人的には意外だったが、結局のところ、そういうものなのかもしれない。

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