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【哲学】003 ベンサムの名言から『他人の目』について考える

本日もお越しいただきありがとうございます。
この記事は、私、巴アズラがYouTubeに投稿している「偉人の名言から〇〇について考える」のダイジェスト記事になります。

日々の生活で起こる些細な出来事や理不尽に感じた衝撃的な出来事について、偉人の名言に結び付けて哲学してみた。
というのが、このシリーズの試みです。

◎字幕・音声入りの動画はこちらからご視聴ください◎

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【哲学】003 ベンサムの名言から『他人の目』について考える

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◆以下本文◆
この記事の本題 他人の目が気になる理由


私たちは日頃、他人の視線を
かなり強く意識していると思います。

これは、
多くの時間を他人と過ごしている人は言うに及ばす、
一日のほとんどを自室で過ごす全国300万人のひきこもりも同様です。
意識の程度や方向性は違っていても、
「他者が気になって○○してしまう(または出来ない)」
と無意識にブレーキをかけること、多くないでしょうか?

例えば、人前で緊張してしまうのは最たるものでしょうし、
人によっては自分の顔や体型にコンプレックスを持っている
他者に認められたい、チヤホヤされたいなんてこともあると思います。

あとは、学校で「質問は?」と聞かれて、
本当は質問したいけど手を上げないなんてこともありませんでしたか?
「みんなが理解していることを
自分だけ知らないなんて思われたくない?」
なんて意識だったかもしれませんね。


しかし、今一度冷静に考えてみてください。
私たちに影響を与えているその「他者」というのは、
いったい誰の事なのでしょう。
身近な知人だったり、世間一般だったり、その場を満たしている空気だったりと、実はあやふやだったりしませんか?
そして、仮にそれらにインタビューできたとして、その人たちは本当に私たちの事をそういう風に見ているのでしょうか?

というわけで今回は、

他人の目線が気になる理由と、その正体について

哲学したいと思います。


まずはこちらの画像をご覧ください。
他人の視線が及ぼす影響力、それを表す一つのヒントがこれです。

画像2

中央の高い塔を中心にして、ぐるっと部屋が取り囲んでいるのが
お判りでしょうか?
これはジェレミ・ベンサムという哲学者が考案した
刑務所モデルで、「パノプティコン」といいます。

画像3

中央の塔は監視塔で、周囲を円形に囲んでいる小部屋は独房です。
監視する側は中央の塔から囚人の様子が簡単にうかがい知れる構造ですね。

しかし、塔からある程度距離があることと、
塔の窓にはカーテンやブラインドで目隠しがされてることもあり、
実は囚人たちからは監視塔の中を見ることはできません。


これでは囚人たちは比較的自由に過ごせるのではと
思われるかも知れませんが、実はそうはなりません。

①いつ見られているか分からないという緊張感
②実は別の所から見られているかも知れない猜疑心
③他の部屋の囚人が自分の事をリークするかも知れないという疑心暗鬼

このような色んなタイプの他人の目を意識して、
暴れたり、脱獄したり、自殺したりなどという大きなトラブルを起こさなくなるのです。

それに対して監視者側は、ぶっちゃけ塔に居なくてもOKです。
なぜなら囚人からは見えていないし、囚人たちは、本当は誰も見ていないのに誰かに見られ続けているという「自分の中の他人」を勝手に作り上げ、自分を縛るのです。
この感覚は、我々一般市民にとっては割と日常的なものですよね。
囚人が更生し社会復帰したときに、環境に適応しやすいように訓練しておく。この効果を最大限利用するために先ほどのパノプティコンが考案されました。

なんか、社会復帰するためには監視されながらの
生活に馴染む訓練が必要という面が…
なんとも香ばしいですよね…


後にミシェル・フーコーという哲学者も
著書「監獄の誕生 監視と処罰」にて
このパノプティコンについて「まるで現代社会のようだ」と揶揄しました。フーコーが言うように、現在の社会構造が監視社会であることは私たちの肌の感覚でも間違いなくて、常に誰かに見られていると意識しながら行動することは、平穏に生活するうえでは正しい考え方だと思います。

ですが、その監視者とは誰なのか
どこにいるのかは意識した方が良さそうです。
先ほどの囚人のように、自分が勝手に作り上げた
妄想上の他人じゃないかどうかも、判断しなければなりません。

もしそんな不都合な「他人」が妄想上の存在であるのなら、
そんな物に怯えて自分を苦しめる必要はないわけですよね。
というわけで、ここからはいくつか例題を使って、
他人の目を克服する方法を、
その「他人」の正体を意識しながら考えていきましょう。


◆人前で緊張してしまう。

これは誰でも少しくらいは身に覚えがあるんじゃないでしょうか?
初対面の人や大勢の前に立つと誰でも緊張します。
発言や挙動が変じゃないかなぁ、とか
自分は相手にどう映っているんだろう、とか
気にし始めたらどんどん身動きが取れなくなりそうです。
そんな不安に押しつぶされそうになった時、これからはこのように考えてください。

だからどうした!

これです。
それがどうした?ってかんじですよね(笑)


人前で緊張するのは、変に見られてたらどうしようとか、
おかしなこと言ったらどうしよう、など、
無意識に少し未来のことを想像していることが分かります。
もっと言うと、自分が行動した「後」を想像して、
しかも「失敗した」後のことを想定しているから、
何もしていないのに不安になるのです。
これがまさしく、他人の目を「自分の想像」で作り上げている状態ですね。
他人がどう思うかなんて、どうせ自分がどうにかできる問題でも無いわけです。


ですので、そんな先の事なんて 想像してる場合か!知るか!
とさっぱり諦めてしまったほうが、目の前の事柄に集中できるはずです。
なるようになる。為すべきことを為す。ということですね。

でも、その結果「失敗」するのが嫌だから緊張する
という考え方も確かにあります。それは自分の中の「失敗したくない」
という欲望が強いという事です。
諸行無常という言葉をご存知でしょうか。
仏教界のスーパースター仏陀は、

世界の神羅万象は常に移り変わり、一瞬たりとも同じ時間はない、
すべては過去に過ぎ去り、永遠に残るものなど存在しない。


と説いています。

だから失敗したとしても、それは失敗したその瞬間にダメージを負うだけの話で、そのあとはまた、次の成功へ向けて歩むなり、失敗の味をしばらく噛み締めるなりすればよいじゃないか、と考えればよいと思います。

失敗したからからって、終わりじゃないんです。

失敗を過度に恐れるのは、自信がないからではなく、
自信があるからだという人もいます。
たくさん準備して、たくさん努力して、それでもまだ足りなかった、
結果が実を結ぶことが無かった。
あんなに頑張ったのに無駄だった。
まるで自分の全てを否定されたかの様な絶望に落とされるかもしれません。

ですが、例え失敗したとしても、「準備して」「努力した」
経験は残っているのですから、
またそこから積み上げればいいのです。

何も失ってなんかいません。
だから大丈夫。

緊張するのも当たりまえだし失敗しても問題ない。
ありのままを受け入れ、客観的な目線で自分を励ましましょう。
これは瞑想の考え方そのものですね。流石仏陀の教えといったところです。


瞑想の真髄は自分を客観視すること。
今回の場合は、「緊張している人」から「緊張している人を見ている人」
になることを指します。
そうすることで、成功に執着している自分から解放されて、
心に余裕を生むことができるのです。

余談ですが、自分を客観視することによって
ストレスが軽減する効果は、科学的にも確認されています。
知りたい方は「マインドフルネス」とか「メタ認知」
などでお調べください。

では次のパターンに行きます。


 
◆自分の顔や体型にコンプレックスを持っている

外見的なコンプレックス…世の中は残酷ですよね。
生まれ持った遺伝子のサガには流石に抗えない
とお思いかも知れませんが、そんなことはありません。


問題です。

あなたと石ころ、コップ、動物の違いは何でしょう。
尚、見た目の違いを除外して考える。


何もかもが違いすぎて何とも言えなくなりますよね。
でも見た目の違い以外となると、案外難しいようにも思えます。
少しご自分で考えてみてから次にお進みください。

この問いに対して、切り口はいくつかありますが、
今は今回のテーマに沿うように「意識」と「役割」
という切り口で進めていきます。

>石ころには役割も意識もありません。
>コップには役割は与えられていますが、意識はありません。
>動物には意識はあるとして、役割は、よくわかんないですね。
 食物連鎖の役割とかそういう感じはありそうですが。
 ひとまず置いておきます。


>我々(人類)はどうでしょう?
 まず意識はありますね。役割に関しては…どうでしょう、
 生き物としての役割は動物と同じ程度のような気がしますね。
 しかし、動物に比べて「意識」の深さ、広さに関しては
 段違いに高次元です。これが動物とは大きく異なる点です。

つまりどういうことかと言うと、

私たち人間は、自分という存在を「意識」することができます。これによって、私たちは自らの在り方を選択することができるのです。

動物は意識はあっても、自我をコントロールしたり、
本能に抗ったりすることはできないでしょうね。この違いです。


石ころやコップが自分の在り方を変えることはできません。
動物に至っても長い時間の中で進化して体を作り変えたり、
弱い個体が淘汰されたりはしますが、自然の摂理として最適な種が残ったのか、偶然残ったのかは私たちにはわかりません。
少なくともキリンの首が長くなったことや、鳥の翼が生えたことについて、
一個体だけの意志で環境に適応したとは考えにくいですよね。

そういった意味で私たち人類は、親やその前の祖先に縛られることなく、
自分の存在を自分の意志によって自由に選択することができます。

親が貧乏だったからと言って進んで貧しい生活を選ぶ必要はありませんし、
先祖代々政治家の家系だからと言って、YouTuberに成れないなんてこともありません。

この考え方をフランスの哲学者
ジャンポール・サルトルの生き方に学んでみましょう。
ちなみにこのサルトル、自分の意志でノーベル賞受賞を拒否した最初の人物だそうです。自由意志強すぎですよね。

画像4

サルトルは哲学者というよりは小説家や作家として活動していた人物です。
サルトルは子供のころから勉強が良くできる優秀な子どもでした。
しかし、極度の斜視でギョロっと大きい目、
決して高くない身長、ハンサムとは言い難い顔…
モテたい欲望は人並み以上に強かった一方で、
ガールフレンドには中々巡り合えないことに悩んでいました。
それでもサルトルは持ち前の知的探求心に裏打ちされた
誰にも負けない頭脳をフルに回転させ、他者に好かれるための技術や、
他者の心理を徹底的に研究しました。


石ころやコップのように「不細工であることを定められた存在」ではなく、
他人を虜にする一流の知識人として生きる為に
自分をプロデュースし続けたのです。

イケメンがモテる?金持ちがモテる?流行り物はカッコいい?
そんなものは歴史や時代がそれを求めているだけで、
その大きなトレンドに乗るかどうかを選択するのは
その瞬間に生きる人間次第だ。
俺はモテたいだけだ、だから知識を磨くんだ。
時代とか言うものが何を求めているかなど、俺には関係ない。

これがサルトルの生き様です。
自分に無いものばかりがもてはやされる世界で、
自分の意志で成りたい物を目指したわけですね。
知識だって立派な魅力の一つです。
実際彼は、学内で一番の美女ともいわれた女性と交際し、
しかもお互いに浮気を公認した「契約結婚」という形で
50年間を添い遂げました。

「契約結婚」とかいう都合のいい響きもいかにも《らしい》ですよね

外見的なコンプレックスを払拭する方法としては
トレンドなど気にせず、成りたいものに成れば良い。
そのために努力せよ。

です。
…なのですが…どうですかね、
結論としては在り来たりだと思いませんか?
成りたいものに成るための努力が実を結ぶかどうかは、
結局自分ではどうにもならないような気がします。
サルトルの場合は、たまたま相手の女性がサルトルの外見を
気にしない人物だっただけかもしれません。それでうまくいくなら苦労しないですよね。


ここでもう一つの例題と合わせてみましょう。
◆他人に認められたい


近年日本でも大人気のアドラーを参考に哲学してみます。

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「アドラー心理学」とか「嫌われる勇気」とか、本屋さんに行けば必ず一冊は目にしますよね。
アドラー心理学の基本的なアプローチは、何事にも
「その課題は誰の課題なのか」をまずはっきりさせるところから
始まります。

例えば、親に勉強しなさいと促されたとします。

勉強をして高い教養を身に着けるか、
怠惰に過ごしてそのチャンスを手放すか。
それを決めるのは言われた側の課題であって、
促した親の課題ではありません。

しかし親の立場としてはしつこく言い続けることが
子供の為になると思うでしょうし、
中々勉強しない子供に対してイラつくこともあると思います。
一方しつこく唱え続けられた子供の側は疎ましく感じるでしょう。

この精神的な軋轢を、アドラー心理学的な表現では、
他人の課題に踏み込んでいることが原因である
と言う事ができます。
前回の動画のテーマになった「人それぞれ」も、
この「踏み込ませない」ための防衛手段なのかも知れませんね。

コンプレックスの例に戻ってみましょう。

モテたい。という願望がある。
それに対して外見的なコンプレックスがある。という問題があって、
そのコンプレックスを払拭する、というのが課題になります。

モテたいという願望はもちろん自分の課題ですね。
それに対して問題点を分析したり、解決策を講じるのは間違っていません。しかしそんな自分を受け入れるかどうかは相手の課題です。
強要すると単なるストーカーですもんね。

今回のテーマを語るうえで
重要なキーワードがありましたね。
「他人の目」これがどこにあるのかを意識する

相手に振り向いてもらえない理由を考えた時、
「相手の好みがこうに決まっている」という思い込みであれば、
それは「自分の中にある他人の目」です。
これを払拭するのは自分に求められる課題ですね。

しかし今回の「他人の目」は明確に「他人」の中にもあります。
要は、単純に相手の好みの問題。もしかしたらその人自身も分かっていなくて、無意識に選別している可能性すらあります。

じゃあ結局どうしようもないじゃんって感じですよね。

私がここでサルトルを取り上げた理由は、以下のような点にあります。

①努力の方向を吟味した
②自分の新しい魅力を周囲に気づかせた
③諦めなかった

①まず、努力の方向を吟味した。
サルトルは前述のように、モテたいけどモテない少年時代を過ごしましたが、努力して自分の優れた部分を生かし、自分をプロデュースする方法に挑み続けました。結果は実を結び、何人もの美しい愛人を抱えることに成功(?)しました。この点で、サルトルは自分の課題を克服したのです。


②自分の新しい魅力を周囲に気づかせた。
これも本質的には同じです。
誰もがうらやむルックスや家系など、自分の意志でどうにもならないものに
固執しても仕方ありません。モテるための基準にするかどうかは相手側の課題です。だからサルトルは、誰もが羨む自分だけのカテゴリーを作ってしまうことにしました。世界を満たしている既存の価値観に波を起こすほどのエネルギーの源泉も、サルトルにとっては「モテたい」という欲望からくるものだったのです。

そして最も重要なこと。
③諦めなかったこと。
何にでも通ずることですよね。挑み続けることを努力し続けた。
私にはまったくない才能なのでとてもうらやましいです。
サルトルが諦めずにいられた理由は何なのか。
私は、サルトルの中の「自分の目」ではないかと思ってます。

他人の目に対して、自分の目。

これまでの「他人の目」の事例のように、それを意識して抑圧されるのではなく、自分の目によって背中を押されて邁進し続けた。
簡単に言うと

自分に自信を持ち続け、成功を信じ続けた。

というイメージです。

顔や体型など、ルックスに関しては、自分の力でそれ自体を変えることは確かに難しいです。そしてそれらが他人に受け入れられるかどうかなんて、
なおさらに私たちには手を出せる問題ではありません。
しかし、人が何を美しいと感じるかもまた曖昧で、答えの無いものであることに気づいた方が、生きる上ではかなり楽になると思います。

如何だったでしょうか、「人の目が気になる」と一言で言っても、
それが本当に他人の意志を反映させた視線の場合と、
自分の心の中で作り上げた他人の目の場合があります。
その目がどこにあるのかを常に意識することと、
それに対して自分ができることを的確に判断すること。
私たちは物や道具とは違い、何者に成るかを自分で決められる存在です。
せっかくですから、他人の求める何かよりも、
求められる自分になってみるのはいかがでしょうか。


ということで今回は終わります。ご視聴ありがとうございました。

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【哲学】003 ベンサムの名言から『他人の目』について考える

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