最近note書いてなかった。あんだけnote書くの楽しいとか、言葉で遊んでるとかほざいてたが、完全に 飽きた。 noteに飽きている間、私は何をしていたか紹介しよう。私は東洋哲学にハマっていた。 私は人生に置いて大きな目標がある。 それは 悟ること。 こんなこと我ながら恥ずかしげもなくよく言えると思う。 しかし、まじでこの感情のジェットコースターをもう降りたい。 死にたいとかではないので安心していただきたい。 人生の側面をいつも同じ視点から見ていることに飽き
私には頭の上がらない「友人達」がいる。 ここでは伝わりやすく友人と言っているが、私の中では既に「友人」ではない。かと言って親友とかでもない。そんな言葉にカテゴライズさせることがそもそもによそよそしい。家族、というにも何か違う。でももう私の中では不動に常に私の心の中にいる。何があったとしても絶対に裏切ることもなければ連絡が途絶えることもないという信頼感。私の中で絶大なる尊敬の気持ちに値する。そして彼氏、とかそんなわかりやすく安直な存在でもない。 究極私の中では家族以上に大事
幸せに生きる思考 前向きになる過ごし方 ポジティブで毎日楽しく 失敗したっていいんだよ この世の中は情報過多すぎやしないか。いつも誰かが誰かの上に立ちたがる。マウントの取り合いでしかないこの世の中にうんざりする時がある。私は誰もあなたから生き方を示唆されたいとも思っていませんが。 そんな情報を全て無視して自由に生きるという選択肢が私の中にあると知った時、崖っぷちに立たされているような気持ちになるのは私だけだろうか。 子供の頃は自由だった。 自由はいつもきらきら輝い
くそほど暑い夏に冬を思い出そうと思っても思い出せなくて 冬の方がまだ良さそうな気がしてきた と、映画で冬のシーンのセーター姿の人でも観ようもんならくそ暑い くそほど寒い冬に夏を感じたくて、太陽ってどんなんだったっけって思うけど、全然思い出せなくて テレビに映る海水浴が眩いくらいに胸を刺激して夏が楽しそうに見えてきて 春と秋にはほんの一瞬の居心地の良さともう2度と戻らない時間を思い出してナーバスな気持ちになって あーいつもいつもないものばかりをねだって 四季すらて
思っている以上に母親だった 大号泣しながら本当のことを母親に告げた。私は母親から罵られると思っていた。が、予想外の返事が返ってきた。「そうだったん。まあ、そんな気もしたけど、それであんたはどうしたいん?」本当にまさかだった…。私が離婚するまで待つというと、「そうしたいならそうしんさい。お父さんには私の口からは言えんから自分の口から言いなさい。」と。母親のまた知らない一面を知った瞬間だった。私が思っていた母親よりも母親はもっと母親だった。 立ち会い出産 立ち会い出産をした
胎内認知から養育費まで 彼は私が実家に引っ越すまでの期間誠心誠意を見せてくれた。養育費の誓約書作成から、胎内認知もしてくれた。聞いている人からしたら当たり前だろ、や、いや、慰謝料請求しろよ!という意見もあるかもしれないが、一瞬考えたもののそんなことは辞めた。彼自身は口頭で「離婚する」と、言ってくれた。これだけあれだけたくさんの嘘をつかれても私はその一言を信じることにした。 泣いて過ごした妊婦の時期 とにかく涙が止まらなかった。何度もお腹をさすりながら「こんなお母さんでご
この子を守らなくちゃ 大イケメンオーナーの言葉から私は帰宅後速攻で彼に電話して今までに見せたことない声で彼を攻めた。今のままではよくない、ということがはっきりとわかったから。「癌ってのも嘘なんやろ!!!子供が自分の子供かわからんってのも嘘やろ!!お母さん借金も嘘やろ!!!!もう弁護士立てようかと思う!!!本当のこと話してほしい!!!」すると「うん。ごめん…。」と。やっと真相がわかった…。 9月から嘘をつかれ続けて2月に発覚 信頼し続けた5ヶ月間。今でも思い出したら辛いし
見知らぬ中国人のような女 ラインの内容をとりあえず最近のものは片っ端からみた。見知らぬ中国人のような女の人にご飯でも行こうや、と誘っていて既読無視されていた。失踪されていたとされる最低最悪なお母さんとつい数日前にラインをしていた…。内容をみると家で療養すると言っていたあの年末年始に実家に帰省していた。しかもお金を持ってとんずらするようなお母さんではないちゃんとしたお母さんがそこにいた。そこで自分の中では第一次ショックがあった。あんだけつわりしんどかったのに!!!なんで?!実
いのち この期間「堕ろす堕さない堕ろす堕さない」という会話を何度繰り返しただろうか。人間の都合でつくられた、すごい奇跡でそこに誕生してくれた生命を。簡単に「オロス」という言葉。「殺す」となんら代わりのないこの重たい言葉。平気で何度も言われた。私も平気で一度覚悟をした。私の姉はどんだけ辛い思いだったのだろう。お腹の中に命があると分かった瞬間から第一次母親となる。出産が子供の誕生だとすれば、母親の誕生がこの瞬間のようにも思える。とても不思議な感覚だった。もっともっといのちの重み
妊娠発覚 病院に行った後エコーで本当に小さなプチっとした命をみた。生命の神秘を感じた。お腹の中にもう一つの命があるのか…。と。そしてその次の日かいつかに彼に話したいことがある、と伝えて夜の上野公園を散歩しながら話した。(多分)彼の第一声は「やっぱり?!」かなにかだった気がする。そこまで驚いた様子でもなかった。私は今後シングルマザーになってでも産みたいと思っている。けど、迷惑にはなりたくないからどうしたいか教えてほしいと伝えた気がする。 堕してほしい その後彼からは「産ん
ずっと同じエピソードを書いてくのしんどくて違うこと書く。 彼との話思い出しても私彼に対して今はなんの思い入れもなさすぎて、小学生の頃の夏休みの宿題だった読書感想文書いてるみたいな気持ちになるから一旦夏休み。 人との距離感が昔からわからない。 まじで教えて欲しい。 現在地「私」 目的地「⚪︎⚪︎」 昔から私ってばすごく人のことが好きで多分人懐こいから大体の人とすぐに打ち解けることができる訳でして、ちょっと自慢みたいになってたらごめんなさい。 なんか人って大体面白いんで
生きる糧ってなんだろう どうやったら彼は自ら行きたいって思えるんだろう。人にとっての生きる糧ってなんだろう。そんな風に考え始めた。私は彼の子供が出来たら彼は生きたいと少しでも思ってくれるのだろうか。もし、できるのであれば1人で育てるようになってもいいから彼の為に子供が出来てほしい、そんなことをふと思った。こんな軽率に考えていいようなことではないかもしれない。その後の子供のことまで考えていなかったとも思う。ただただ彼に生きる希望がほしいと思った。 刀根さん 癌の本をとにか
励ましと聞けなくて 俺がないというなんの話をなんでそんな話したんだろう。心を許してくれたのか? わからん…。彼は全くわからん。だけど、とにかく生きてほしい、そう願う毎日だった。ただ生きるだけじゃなくて少しでも楽しい毎日を過ごしてほしい。私がなんとなく過ごした今日一日中は、彼にとってどれほど貴重で価値のある1日なんだろう。どうにか1秒でもいいから笑って過ごして欲しい、そう思って気持ちはずっと心配なものの一緒にいる時間は病気のことは忘れられるように笑って過ごした。彼の為にも、自
行方不明の果て 彼と連絡がつかなくなってしばらく、「ごめん、入院してたわ。」と連絡が返ってきた。「え!!?!大丈夫?!」と送り、そういえば前に会った時すごい咳をしていたことを思い出した。「そういえばめっちゃ咳しよったやん!!大丈夫なん?!」と送ると、「おれもともと小さい頃から気胸っていう病気もっとって肺にちょっと穴空いてんねんけど、それでまた倒れてもて救急車で運ばれたわ。」とかえってきた。速攻で気胸という聞いたことのない病気を調べた。まあ命の別状はないので一安心をした。する
子供のお父さん。 元カレ。 元旦那、ではない。 なんと呼べばいいのか今だに不明の男。 出会い 彼との出会いはマッチングアプリだった。 前回話した話から私はもう恋愛はしばらくいいや、と思って1年は1人の生活を楽しんで暮らしていた。 年齢も28になって今考えると正直焦りと不安と恐怖にかられていた。途方のない一人暮らし。家に帰っても誰かいるわけでもない。ご飯を作っても美味しいと言ってくれる誰かがいる訳でもなく。私は特別仕事に情熱があるタイプでもなく、ただ自分の心の余裕が保てる程
私が母親になった日。 子供が産まれた日。 トツキトウカとちょうどで生まれた子供。 残していた日記を元に書いてみる。 (もし出産予定の方がいましたら、読むのを避けた方がよいかも…) まえがき予定日ぴったりに産まれてきたまだ無名の赤子さん。産まれてきてくれてありがとう。壮絶すぎた出産までの流れをここに書いとく。 こえぇおばちゃんの運転で今にも出そう 予定日前日の午前11時くらいに、もしやこれは破水なのか? ちょろちょろと何かいつもと違うものが出てることに気付いた。すぐ母