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なぜ私、書いてるんだろう

私は最近noteを書き始めて、あーこれも書きたいなぁ、あれも書きたいなぁと日常の頭の中がnoteでいっぱいになっている。

今日は絶対noteは書かない。
絶対に早く寝る。そう思っても今私は書いている。

文章が上手いか下手かは別として書くことが今は楽しくてしょうがない。

誰に向けて書いている訳でもないけど。
あまり他の人のnoteをいろいろとたくさん読んだりはしていないけど、noteを使って収益化できるという知識はある。

でも、別にしたくない。
フォロワー数も別にほしくない。
響く人に響いたら嬉しいな、その程度。

私は絵を描いていた時もそうだったがお金というワードになった途端に何も描けなくなってしまう。

魔女の宅急便でいうところのキキの状態だ…。

絵は本来自由であるはずなのになぜか筆を持つと苦しい。全然に楽しくない。息抜きにもならない。

なぜだろうとずっと思っていた。
そしたらふと読んでいた本で岡本太郎大先生が私に答えをくれた。


そうなんだ。私にとって芸術は無償で無条件なんだ。

皮肉にも芸術や文学には評価は必須。
評価があるからこそ食べていけるのに、私はその「評価」がとにかく嫌い…。

性格がひん曲がっているおかげでなんでこいつに私のセンスを批評してもらわなならんのだ。おまえは今までどれだけのことをしてきたんだよ。と思ってしまう。(偉い方々本当にごめんなさい)

そう考えると私は誰かに見られたいから書いているというわけではない。

書いている時にここの言い回しをもっとこうしたい、とか、言葉にできない言葉を言葉で表現したい、とか。そういう言葉遊びがすごく楽しい。私の中にある限られたボキャブラリーを使ってどうやってこの気持ちを表現しよう、とか、この言葉とこの言葉を合わせるとどんな表現になるかな、とかそんなことそ考えながらまるで絵の具の色合わせでもするように書く。
書いている中で嫌な自分にも出逢う、あ、おまえ今かっこつけようとしたな、とか、よく見られようと思ったな、とか。そういう自分が見つかればデリートデリートデリート、とことん自分を突き放していく。

私は表現者であり続けたいんだ。

私は遊びながら言葉を選ぶ。

カッコつけたい訳でもなければ、誰かの役に立ちたいとかそんな善意もない。

ただ言葉を使って遊んでいると私の童心がワクワクする。

書くことで幼かった頃に還れる。時間も忘れて無我夢中にクレヨンとペンを使って等身大で絵を描いていた頃。はさみとのりを使って自分の表現の限界に挑んでいたあの頃。

noteは私にとっての遊び相手。

なんで私は書いているのか、私は言葉と遊びたいから書いている。


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