2023荒ぶる芸術愛 アート鑑賞5大トピック
1、炙り出されて合田佐和子
思わず泣いてしまった「合田佐和子展」。思い入れのある作品を目の前にして感動して泣くことはあるが、展示全体を通して心が搔き乱され、居ても立ってもいられなくなって泣いてしまう展示はそうなかなかない。
私はこの展示に行くまで彼女がどんな人だったのか、どんな作品を作っていたのかといった情報をほとんど知らなかったのだが、展示名のサブタイトルに「帰る途もつもりもない」なんてこんなにもグッとくる強く美しい芯のある言葉が書かれてたら行くしかない。こんなこと言う女性のアーティスト、好きに決まってる。
ということで半ば安易な好奇心で訪れたわけだが、あまりにも全てを曝け出した濃密な展示だったため、彼女を受け止めるだけの私のキャパが足りず、感情の整理ができなかったため泣いてしまったのかもしれない。
エジプト移住を境に大きく構成が前半と後半にわかれていて、まず前半では瀧口修造や白石かずことの交流、銀幕のスターを描いたフォトペインティング、寺山修司や唐十郎とのアングラ演劇のお仕事が主に紹介されている。まさに私が憧れた世界そのもの。すごく好きな作品ばかり。
ただ、今から思うと、それらの作品1つ1つから何をどう感じたかというより、全体から醸し出される重たくて烈しい濃厚なオーラに圧倒されてしまったというか、私はそういったものがものすごく好きな一方で、自分にはその世界に入れるだけの器や精神を解放したものづくりができないコンプレックス、壁を越えられない潔癖な所があって、そんな惨めさもあり、実は鑑賞中、心の底ではとても複雑な感情になっていたのだと思う。
また、当時のアート界はもちろん男性中心であり、女性アーティストが男性と同等に活躍できる時代ではない。だけど彼女はそんな世界のど真ん中で成功した稀有な人だ。本展ではフェミニズムの視点から彼女を読み解くという構成にもなっていて、本人が無意識の中で行っていた強く美しいセルフブランディングの数々の例を紐解くと「そうせざるを得なかった」という時代背景が浮かび上がってくる。
それを受け止めるのもかなりしんどかった。
女には「普通」が求められる。「特別」は許されず、「狂っている」なら歓迎される。
後半では精神を病んだ後、内省的な作風に大きく変化していく様子が見て取れるのだが、色がやばい。死後の世界がこんな色だったらいいなと思えるほど澄んだ色で、めちゃくちゃ綺麗だった。
濁った沼なのか澄んだ湖なのか暗くてわからなかった前半の作品とは打って変わって、雫が落ちる瞬間を見てるような潤いと輝きと透明感が感じられたのだが、その中でも「目」が主題になる一連の作品群から文字通り目が離せなくなってしまった。というか泣いた。
理由の1つは彼女が自分に対しても世の中にたいしても嘘偽りなく真っすぐに向き合った芯の強さや純粋さが痛いほど伝わってきたのと、彼女自身が見られる対象としてそれを求め続けたこと、見られることで生きてこれた人だということを訴えかけられるようで(それが神や霊など目に見えないものからの目であっても)、人は誰かから存在してることを認識してもらえてないと孤独や絶望で生きていけないのかという人間の弱さや生きることの本質を問われたから。
もう1つはわたしを見透かしたようなその目に耐えられなくなったから。
というわけで、合田佐和子展が響いた理由を今年ずっと考えていたのだが、自分の中で抱えているジレンマを炙り出されたからだということが今、感想を書いててはじめて自覚できた。
自分がどんな理想像を持っていて、そんな風になれない現実があって、自分は一体何と距離を取っているのか、何を怖がっているのか。年末にこんな形で自分のことを知れてびっくりした。
芸術作品は見てる自分をも表してくれる。
2、推させてVALIE EXPORT
今年はコロナでしばらく行けてなかった海外に行けたことがとっても嬉しい出来事だった。
春に韓国のMMCAに行った時、ピーター・ヴァイヴェルの企画展があった。その時は良く知らずさらっと見る程度だったのだが、そのあと夏にウィーンに行った時、彼が犬のように四つん這いになって首輪をつけて繁華街を散歩させられている衝撃的な写真作品に出逢った。その手綱を笑顔でひいていたのはヴァリー・エクスポート。
アルベルティーナ美術館で彼女の回顧展が開催されていた。
道や壁に一体化するパフォーマンスアートぐらいしか知らなかった私もこれは見ておきたいな~と思い行った先で、その写真作品を目にして度肝を抜かされてしまった。もちろん嫌悪感ではなく、「ふぅうぅ!!超最高!!」の方である。
公の場で女性が支配にも近い形で男性を引き連れ、主導権を握っているという様子は、当時保守的なウィーンの人の目にはどう写ったのだろう。
怒りを露にする人、呆然と立ち尽くす人、好奇の眼差しを向ける人、目を逸らして関わろうとしない人。
なぜ怒るのか、なぜ笑うのか、なぜ見ようとしないのか。それらを辿ればきっと女性に対して自分がどういった認識を持っているのかがそのまま浮彫になるはず。おもしろい。
わたしなら物陰に隠れながらその動向を後ろから追い、周りの人の反応をにやにやしながら見ていただろう(気持ち悪いからやめろ)
一方でその写真作品の横には、ヴァリーが全裸で手足を縛られた状態の等身大写真が床に置かれ、それを囲むように置かれた3つのビデオからはドーベルマンがわんわん吠えている映像が流れている作品があった。
一見何らかのSMプレイのようにも見えてきてしまう卑俗さがあって、「なんやこれは…何を見せられているんや…w」と思わず笑ってしまったが、ドーベルマンはおそらく攻撃的な男性の比喩と解釈すると(もちろんドーベルマンには優しいという面もある)、女性が男性から逃げようとしても逃げられないという現実、それに伴う恐怖、諦めみたいなものが感じられる。
これら2作品を見るに、「現実を目を逸らさずに伝える」視点と、散歩写真作品にように「女性の権利を主張する。意義を唱える。アクションを起こす」視点の2つが彼女の作品にはあるんだなと思った。
他の作品も過激で痛烈な表現のものが多く、全く美化せずに真っ向勝負してくる感じだったので、強い!強すぎる!と笑ってしまったが、反逆的な姿勢がラディカルでめっちゃかっこよくて痺れた。好き。
ところで今年ナン・ゴールディンが1位に選ばれた「Power 100」の選定コメントで
「ゴールディンにとって、アーティストは怒りを表現するだけでなく、それを変革のための行動に移すことが重要なのだ。彼女にとってアートとは、『自分には主体性がない』と言われ続ける世界で、自分には主体性があることを気づかせてくれるメディアなのだ」
と書かれていたが、本質をついた言葉でとても胸に響いている。
本展で印象的だったのが、大学生ぐらいのおしゃれで若い鑑賞者がとても多かったことなのだが、きっとヴァリーが身を挺して表現したこれらの作品が、若い彼らが何か考えたり行動を起こすきっかけや自信に繋がっているのかもしれないと思うと、時間や空間を超越して語りかけてくる芸術の力や可能性にまたぐっときてしまう
3、好き、付き合ってエゴン・シーレ
今年は東京都美術館で開催された「エゴン・シーレ展」を皮切りに、ウィーンでも至極のシーレの作品を浴びに浴びることができた。
周りに人がいなければ、「好き!!!めちゃくちゃ好き!!!付き合って!!!」と大きな声でいちいち告白をしながら作品を鑑賞したいぐらい、どの作品を目の前にしても胸がいっぱいになるという現象が起きた。これは間違いなく恋。(え)
「今にも粉々に砕け散ってしまいそうな俺、でも決して負けない俺、強く美しくあれ」とか言ってそうだし、様々な資料を見る限り、ナルシストを通り越してただのやばいやつなのは百も承知なのだが、彼の描く線、色、形には陰と陽といった相反する要素が絶妙に溶け合って共存しているという奇跡のようなことが起きていて。
数秒前まで穏やかに見えてたものが急にスリリングに見えてきたりすることが平気で起こる。
1か月放置して腐った花から出てくる茶色い液体が凝縮されたような色や、折れそうで折れない枯れた枝のようでもありながら真っ赤な血が脈々と流れているのを時折感じさせられる手先の描き方など、こんなものを見てしまったら他に何を愛せばいいのか。もうメロメロなのであります。
特にアルベルティーナ美術館で見たシーレが刑務所に入れられてる時に描いた自画像シリーズがたまらない。
素描力の凄まじさはもちろん(絵が本当にうまい)、おそらく彼は自分が絶望や孤独や死に近いギリギリな環境にいればいるほど美しさが増すことを自覚していると思うのだが、情緒乱れる様子がまるで狂い咲く花のようで、「美しい、さすが私のシーレだわ。」と訳知り顔でうんうん頷いた(だれやねん)
女性の絵師やアーティストを中心に推している私が、なぜ男性アーティストの中でシーレにだけこんなにLOVEが溢れるのか。不思議だ。
いっぱいシーレの作品みれてうれしい1年だった。
4、覗かせて平安江戸のあわい
ここ数年トーハクこと東京国立博物館には毎年5~7回ほど通っていたのだが、今年はなんと2回しか行っていない。まじ、あるまじき。確かに日本のばちばちの至宝をここ数年コンプリートする勢いで見て回っていたので、もう結構見れたのかもしれない(なめんな。何度でもみろ)。
というわけで、唯一行った「やまと絵ー受け継がれる王朝の美ー」展。さすがトーハクのお家芸、ドヤ展示。大徳寺の「百鬼夜行絵巻」がしれっと展示されてて焦ったし、私の大好きな\国宝/地獄草紙もあるし、国宝重文だらけでワンダフルワールドでしかなかった。
そんな中でどうしてもお目にかかりたかったのが『源氏物語絵巻 柏木(二)」。普段愛知の徳川美術館にある作品なのだが、なかなかタイミングが合わなくて見ることが叶わなかったもので、もうずっと恋焦がれていた、待ち焦がれていた、そう、憧れの君。私にとっての光源氏。
昨年、三井記念美術館で「柏木(一)」を拝見することができたのだが、もう鼻血が出そうなぐらい興奮してしまって。今回は本命の「柏木(二)」ということで、一体私はどうなってしまうのだろうかとドキドキしながら伺ったのだが、実物、もう、想像以上で。はぁ。感無量だった。なんかいろいろ限界突破した(抑えて)。
これを描いた絵師たちの凄まじい画力と構成力と美意識の高さ、唸るしかない。
吹き抜け屋台と言って天から見下ろすかのような視点で描かれていて、まるでドールハウスの中を屋根を外して覗いてるような感覚なのだが、実はこれだと見たくても見えない箇所が出てきてしまう。絵本の挿絵のように横視点から描かれると見せたいものを見せれるのだが、斜俯瞰視点からだとなかなかに制限が出てくる。でも私はそこにこそ日本の美が凝縮されていると思っていて、この「見えそうで見えない」にたまらん悶えてしまう。
御簾や几帳、屏風など「隠す」要素を意図的に配置することで「覗き見している」という秘密を共有するような感覚にさせられる点も最高な上に、柏木を見舞いにやってきた夕霧の顔も全貌が見えない辺りから、事実に気づいた時どんな表情をしたのだろうかと1つの絵の中で時の経過も感じられていろんな想像が膨らむ余地がある。
「全部見せない」の美が私はおそらくものすごく好きで、今年3年ぶりに太田記念美術館で推しの葛飾応為の「吉原格子先之図」を拝見することができたのだが、この作品も「全部見せない」の魅力が凄まじい作品だ。
「好き、こっち見て」と書いた応援うちわを持ってこの絵の前に立ちたいぐらい好きなのだが、こっちにいろいろ見せてくれないからこそ好きなんだなと理解した(こじらせている)。
新たな発見としては、遊郭と客の手前の道にぽっかり空白があるのだが、本来ならここに多くの人が行き交っていても不思議ではない。これ、ゴッホがアルルで描いてた複数の絵の構図と似ている。あえてここに何も描かないことで、どこか他人事というか、自分はそこには入れない異質な者という感覚というか、なんだかさみしさを感じる。
それとも自分で創造することのできる絵(虚構)と現実が繋がることをためらってのあわいなのかもしれない。
5、語らせて福田美蘭
対話型鑑賞を勉強するにあたって、まず最初に教えてもらったのが「見る」ってどういうことなのか?だった。先生から『モナ・リザ』の組んでる手ってどっちが上?と聞かれて「え…わか…らない…」となった私の心境を想像してみてほしい。
私はレオナルドの没後500年とかいうヤバい企画展を見にルーヴルまで追っかける強火のオタクだったはずなのに。『モナ・リザ』だって実際に何度も見ているのに。思い出せないなんて…とプライドをズタズタにされた(先生はそういう意図で質問したのではない)。
というわけで、「自分が見たいものしか見ていない」、「見た気になってるだけで実は見ていない」という現象が起きていると気づけたことで「見る」のおもしろさに開眼したのだが、そんな時に練馬区立美術館の「日本の中のマネ展」で福田美蘭さんの作品に出逢い、電光石火のごとく一撃をくらわされ、こんな視点で「見る」ことができるなんて考えたこともなかった!!!と視点の巧妙さに大興奮し、スマホの待ち受けも彼女の作品にするぐらい虜になった。
そんな出逢いから1年。名古屋市美術館で念願の個展開催とのことでわくわくしながら馳せ参じたのだが、これがもう本当に本当に良かった…。
入ってすぐに、フォトペインティングがあった。私はリヒターが同様の手法を用いた作品群を見た時に、そこに内包されているテーマがあまりにも複雑で頭がパンクしそうになってしまった経験があったのだが、福田さんの作品を見て、リヒターも多分こういうことを考えていたのか…!とやっと意味を理解することができた。
どんな作品かと言うと、巨匠フランク・ステラと彼女が実際に一緒に撮った記念写真を拡大し、絵画として描いたもので、そこから私が読み解いた大きなポイントは3つ。
まず絵画も写真もいくらでも嘘をつくことができる(合成や加工ができる)ということ。特に写真は「真実」を切り取るものというイメージもあるが、決してそういうわけでもない。アート界の重鎮ステラから仲良さげに肩を組まれる福田さんの様子から、福田さんも権威あるアーティストに見えてくる。しかしこれはあくまで「絵」なのであって、もしかすると実際は肩も組んでいなければ2人の表情に笑みさえ浮かんでなかった可能性もある。
つまり写真も絵画も、良くも悪くも印象操作がいくらでも可能なのだ。
もう1つは鑑賞者によっても見方や解釈が変わるということ。この作品を見た人たちからは、「2人には親密さがある。きっとステラは福田さんのことを信頼してるんだ」、「いや、笑ってはいるが実際ステラは福田さんのことを憎んでるかもしれない」など様々な発言が出てくるだろう。
捉え方は見る人によって異なる上に、この写真が撮られた時、ステラが福田さんをどう思ってたかなんて本人にもわかり得ないのも事実だ。
「真実」はたった1つではなく、それを捉える人によって異なるということを私たちは理解する必要がある。
そして3つめは、いわゆる「美術史」の中で忘れられた女性アーティストたちの存在について。美術史は男性の眼差しによって語られた歴史でしかなくて、女性の存在はほぼ排除されている。つまり語られてきたもの見えているものが全てなのではなく、居たのに消されたものの方が圧倒的に多い。
そんな美術史に刻まれ未来永劫その名を確かなものとされたステラとの記念写真を絵画作品として昇華し、私たち鑑賞者がそれを見る機会を得たことで、彼女も美術史に名を刻まれるべく″存在していい″芸術家であることを表明しているように思える。
ただ一方で、溌溂とした巨匠男性アーティストの横につつましく佇む若手女性アーティスト(2001年制作時)という構図から女性アーティストが無意識下でその状況を受け入れてしまっているようにも見えて、歴史の中で積み重ねられてきた男性が優位であるという根深い刷り込みや呪縛を感じずにはいられない。
というわけで、この例からもわかるように、福田さんは『普段なら見過ごしてしまうけれども実はそれってなんか不思議だよね?』といったことを別視点から見直し、繋げたり解体しながらアート作品として形にし、問いかけていくという手法が本当にうまい。そしてなによりめちゃくちゃわかりやすい。いらすとやレベルでわかりやすい。でも鑑賞すれば鑑賞するほどちゃんと深みが出てくる。気心知れた友達同士で、「なぁうちこんなこと疑問に思ったりおもしろいなって思ったんやけど、みんなはどう思う?」といった距離感で歩み寄ってくれるのがうれしい。他人事ではなく自分事として考えやすいモチーフや見立てで表現されることによって、アート鑑賞にありがちな小難しい印象が一切ない。彼女の作品の鑑賞がすこぶるおもしろい理由はここにあると思う。
そんなわけで名作から新作まで様々な作品を見ていく中で、
『自分がどんなバイアスを持ってものごとを見ているのか。』
『見立てや例えなどユーモアを交えて見てみることでどれだけ世界が豊かになるか。』
『他者の視点、立場からものごとをみたり想像することができているか。』
『愛や繋がりなど見えないものを想像することができているか。』
『一見変化に気づけないものや意味が理解できないものに対してじっくり時間をかけて見続けてみるということができているか。』
『「能動的に見る」とはどういうことか。』
『いくらだって嘘がつけたり加工ができる現代において真実とはなんなのか。』
『目に見えてるものを信じれるかどうか。』
など、いろんな問いを投げかけられ、これまで凝り固まっていた見方に新しい見方を加えてもらえた。
何度も自分の視座が変容する感覚があったし、考えたこと感じたことをみんなと共有したい!みんなならどう考えるのか話も聞きたい!という気持ちにもなった。見て、誰かと話したくなるっていいよね。そんなわけで長々と興奮を語らずにはいられない良い鑑賞体験だった。
2023年行った展示
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