子どものコミュニケーション、大人のコミュニケーション
祖母の家に行くと、親族が私のきょうだいに対し、「ぎっちょ」「右利きに直せ」という。右利きが人としてのあるべき姿である理由が分からなかったが、まだ6歳の私には理由を聞く術がなかった。だから、見て見ぬふりをした。
しかし、心の中には疑念と不憫さを抱えていた。
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夜になると、家族の友達が家に飲みに来る。私は家族だけの時間が好きだったし、夜遅くまで自分のお家に人が来ることが嫌だったから、苦痛でしかなかった。帰ってもらいたいから、わざと、「あそこのおもちゃとって。」「寝れない。」と言って、邪魔をした。
しかし、そんな言い方では相手には伝わらない。「構ってほしいのだろう。」程度にしか見られていなかったのだろう。帰ってくれないところか、無視され、翌日も翌週も家族の友達が来ていた。
この頃の私はまだ幼稚園児の子供で、子どものコミュニケーションしか取れなかった子どもだったのだ。
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思いがあってもその思いに自分自身が気付いて、伝えなければ、他人にとってはないも同然。ないのだから罵詈雑言や非常識な行動で傷つけたとしても、許されると甘く見られる。
「『ぎっちょ』なんて差別的な言葉を使わないで。左利きは直すべきものじゃない。」と言わなければ、私のきょうだいが侮辱されることが許されてしまう。
夜遅くまで人の家から帰らないことも、正当化される。
そうならないように、理不尽な感情を呑み込んではいけないのに、自分さえ我慢すれば円満に収まると思い、呑んでしまっていた。
溜め込むことはできないのに呑み込む人付き合いの仕方は、人間関係を作ることができない、つまり先がない、子どものコミュニケーションだった。
大人であれば、相手の意図を汲んだ上で自分の思いを優しく伝える。伝えても人間関係は壊れない。むしろお互いに言って良いことと悪いことを学び、近寄ることができる。結果、伝えた相手のみならず、伝えたことに敬意を示す人たちとの関係が構築されていく。
私のきょうだいは、幼い頃からそれが出来ていた。母に誘われても女湯には入らない。5歳でも1人で男湯に入っていたし、辞めてほしいことはしっかり拒否して人との関係を作っていた。これが大人のコミュニケーションなのだろう。
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人と人が関係を作る時、そのほとんどは思い通りにはならない。
夫婦の決め事は夫婦で決める。にもかかわらず、義母が意見し、夫は義父母を尊重し、私に嘘を付く。
「プログラム上、義父の参列者へのお礼は1分」と夫婦で決めても、義父母には、
「好きなだけ」
といい、飛行機で帰る参列者を見送る時間を食い潰す。
嘘をつくことは、この様に人の時間を奪う現実的なリスクだけではなく、信用も失う。
保身のために嘘を付いて他人をコントロールすることは、子どものコミュニケーションだろう。行き着くところは二度と信用してもらえない状況で、夫はもう誰からも信じてもらえない、その発言は紙のように軽い人とみられる。
「旦那さんって友達いないの?」
と私に聞いてきた参列者の声は真実だろう。嘘でその場をおさめてきた人だから、信頼し合う人間関係は誰とも作ってこなかったのだ。
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子供でも大人でも、その場を取り繕うのは簡単だろう。物わかりが良いように飲み込んだり、嘘をついたりすればよいのだから。
しかし、それは子どものコミュニケーションで、人との関係は構築されない。我慢も嘘も全て自分に返り、気が付いた時にはひとりぼっちだろう。
人と繋がっていくには、相手の思いを聞いて、自分の思いを伝えて、理解し合い、何処かで手を打って付き合っていかなければならない。そのためにはまずは自分の本心を知って、コミュニケーションを取る能力を手に入れなければならない。
いくら鍛錬しても、磨き上げる事が出来ない、労力がかかる目に見えないものではある。根気よく続けていかなければならない。しかし、それが社会の中で受け入れてもらい、評価され、生きていくことなのだろうと私は思う。
とても嬉しいので、嬉しいことに使わせて下さい(^^)