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ayakomiyamoto
2023年2月7日 21:28
<第一話<前の話 ビルボが逃げてしまった翌日、君が熱で寝込んでいる間に僕は一人でビルボを探していた。普段散歩していた林道や遊歩道だけでなく、人が入るのを禁じられているような山裾の林の奥にまで足を踏み入れた。間伐もあまりされていないような鬱蒼とした木々の間でコンパスを頼りに何時間さまよっていただろう。 小さな鳴き声が聞こえて、そこに向かうと赤黒い血にまみれてうずくまるビルボの姿があった。近づ
2023年2月6日 21:11
<第一話<前の話 二月以上は空けていた自分の部屋は、由莉のマンションと比べて狭苦しいのにもかかわらず、がらんとして感じられた。買ったものを食べて昼寝をしようと横になると、頭がむずむずして寝られないのだった。由莉につけられた香水の香りはとうに消え、ベタベタと脂ぎる頭皮のにおいが気になる。毎日洗髪してたから、頭の汚れに敏感になっている。それを認めたよもぎは、なんだか自分に裏切られたように思った。
2023年2月5日 21:28
<第一話<前の話 九月になる。大学の夏休みも、うだる暑さもまだ続いている。由莉は修道女のような厳格さで、よもぎを矯正し続ける。軽蔑をにじませながら細い顎を上げ、なにかを迷いなく命じるときの、若さに似合わない居丈高は由莉の美しさを輝かせた。 よもぎのゆるんだ体の線は徐々に引き締まり、黒ずんで粉を吹いていた膝は柔らかな薔薇色になる。仕上げが近づく。 美容院に連れていかれ、伸ばしっぱなしの髪に
2023年2月4日 21:28
<第一話<前の話「夕飯なら冷蔵庫にあるから温めて食べてね」 そう言い残して、由莉が出掛けていった。夕方の時間だった。 一人になると、よもぎは持て余した。人ひとりの身には余る空間を、のっそりと首をもたげる性欲を。 夏休みはまだ続いていた。不必要なほどに長かった。冷房をつけていてもソファに転がった体には熱がこもり、一層悶々としてくる。大学が恋しい。そう思った。キャンパスや教室ですれ違うさま
2023年2月3日 21:39
<第一話<前の話 満腹になっていたから、由莉の長い話の間、よもぎは何度か眠りかけた。椅子の上で三角座りしていた足はだんだんと下に落ち、つま先が床の冷たいポタージュに触れるたび、びくりと体を震わせて目を覚ました。 半分まどろみながらも、話のおおよそのところはつかんでいた。それは集落の秀才のなせる技だった。よもぎは重たいまぶたの据わった目で由莉を見た。 くだらない話をよくもまあこんなに長々と
2023年2月2日 21:18
<第一話<前の話 ミズナラから数メートルも離れていないところに犬は見つかった。腐りかけた切り株のそばにいたそれは真っ黒な宝石みたいな目を潤ませて、小さな体を泥に汚して小刻みに震えてた。 恩の別荘の浴室で温かいシャワーで洗ってやって、こびりついた泥を落としてやると、それは灰色の小型のテリアだとわかったの。小さいから仔犬だと思ってたけど、ある程度のしつけはされてたから若い成犬だったかもしれない
2023年2月1日 21:14
<第一話<前の話 子どもの頃、毎年夏になると家族で長野の別荘に行って過ごしてたの。母方の祖父が持っていたもので、おじいちゃまの別荘って呼んでたけど、祖父はもう亡くなっていたから、私たち家族で好きに使ってたのね。 別荘なんていっても子どもにとっては全然楽しいものじゃなくて、近くにコンビニもないから夜は暗いし、山の麓だから自販機にぎょっとするほどの大きさの蛾は張りついてるし、なにより周りに同じ
2023年1月31日 21:26
<第一話<前の話 大学が終わったよもぎが由莉のマンションに帰ると、ダイニングテーブルに食材の詰まった買い物袋が置いてあるのが目に入った。「いま帰ったばっかりで、休んでから冷蔵庫に入れるから」 ノースリーブから伸びる白い腕を椅子の背に絡めるようにして、言い訳がましく由莉が言った。よもぎの頭には手伝おうという発想も浮かばず、はちきれんばかりになって自立する袋をただ眺める。非力な由莉にしては、
2023年1月30日 21:48
<第一話<前の話 夕方になる前に恩とは公園で別れた。由莉とは公園を出て途中まで一緒に歩き、あとはそれぞれの家に帰る。そのつもりでいたよもぎに由莉が「ちょっとうちに寄っていかない?」と声を掛けたのだった。 マンションに着くと、由莉はお茶を出してくれた。この部屋に通うようになってはじめてのことだった。歯を立てたら割れてしまいそうに薄いティーカップに淹れられた薄黄色のお茶はハーブティーらしく、
2023年1月29日 21:18
<第一話<前の話 普段は平日の午後が洗髪の時間に決まっていたのに、その土曜、よもぎは朝から由莉のマンションにいた。 シャンプーのあと、由莉はまだ椅子に座ったままのよもぎの顔を見つめて、「少しじっとしてて」と告げた。由莉は手のひらでくるくると洗顔フォームを泡立てると、クリームみたいな泡をよもぎの鼻の下に塗りつけた。そして折りたたみの剃刀をパチンと開くと、唇の上の濃い産毛を丁寧に剃り落とした。
2023年1月28日 21:34
<第一話<前の話 由莉にシャンプーをしてもらった帰り道だった。夜と昼の間に迷いを深めたような藤色の空の下、歩道を歩いていると、よもぎの体をぎりぎり掠めるようにして、すぐ横を自転車が走っていった。 あっという間に自転車は影となって去っていった。それでもわかった。スポーツタイプの自転車に乗っていたのは若い男で、おそらくは同じ大学の学生で、自分のアパートに帰るか、バイト先に行くかするところだ。
2023年1月27日 21:28
<第一話 広くて物の少ない洗面所だった。てきぱきと椅子を用意され、鏡に背を向けるかたちで洗面台の前に座らされる。「少しリクライニングさせるから、そのまま頭を下げて」 こわばらせた背がゆっくりと後ろに倒れていくにしたがって、よもぎは動物じみた臆病さで椅子の肘掛けを強くつかんだ。罠にかかったという焦り。これ以上は倒れないというところまでくると、ちょうど洗面台の中に頭がおさまるかたちになった。
2023年1月26日 21:42
もっと透けないか。そう念じながら、よもぎは白いシャツの背中を見つめていた。 一列とんで前の席に座る男子学生の、初夏の陽気に汗ばんだ背中に貼りついているシャツは、その下の肌の色や筋肉の張りを伝えそうで、あと少し及ばない。目を凝らせばなんとかなる気がして眉間に一層のしわを刻む。重たいまぶたの下、研ぎ澄まされた陽炎を思わせるよもぎの眼光は、この大講義室の教員を含めた誰よりもおそらく鋭い。 視覚